久しぶりにとれた休日、
外は吹雪いていて出ることは叶わなそうだった。
広い家の中はパチパチと薪が燃える音が鳴り響き
ペチカの温かさと独特な心地よさに包まれている
僕は溜まっている本を読むことにし、
まだ読めていない数冊の本と
さっき淹れたばかりのコーヒーを持ち
ソファに腰掛けた。
“人は人の聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚の順で忘れていく”
本を捲り、‘さぁ読もう’ と思ったところで
そんな言葉が目に入った
その時、何故だろうか
もう随分前に居なくなった彼が頭に浮かんだ
ずっと前に居なくなった彼は、
僕のことを覚えていてくれているだろうか
人は聴覚に残された記憶を初めに忘れるらしい
正確には僕らは人ではないけど、身体の造りは人と同じだから
きっとこれは僕らにも当てはまる。
現に僕は彼の声を思い出せない。
もうずっと話していないから彼も
僕の声を忘れてしまっているかもしれない
そんなのイヤだ。
30年近く、僕は彼と一緒にいたんだ
僕は彼と手で数えきれないほど、
何度も何度も何度も何度も話したんだ
一つ一つの会話が思い出せないほど、
話したんだ
彼のあの、弱々しくそれでもはっきりとした声が
僕は大好きだった
声をかけると絶対に
言葉を返してくれたのが、大好きだったのに
それなのに忘れるなんて酷い、酷すぎる
でも家の何処かに彼の音声データくらいは残っているかもしれない
あとで探してみよう
彼は僕の顔を、見た目を覚えているだろうか
聴覚の後は “視覚” なんだと
声があれだけ頑張っても思い出せなかったから、
彼は僕の見た目を忘れてしまったかもしれない
でも、それも酷すぎる
僕は、彼の写真を毎日穴が開くほど
眺めていたから
今でもはっきりとあの、
陶器のように綺麗で白い肌と
ぱっちりとした目、
僕の色が混じった赤と紫の綺麗な瞳は
はっきりと思い出せる。
それなのに彼は僕を忘れてしまった
かもしれないなんて。
おかしい、酷すぎる
触覚は触った事がないから意味がない。
味覚はわからない。
彼と同じものは食べていたが、僕からすれば
普段食べていたものと何一つとして変わったものはなかったから。
彼がどうなのかなんて、知る余地もない
でもそう考えると、だんだんと腹が立ってきた
30年もいたのに忘れていくなんて。
もっと、もっと話せばよかった
もっと見ておけばよかった
もっと、抱きしめ合えばよかった
彼を、手放さなければ良かった
そんな後悔が、今になってやってくる
今更気づく自分に
心底呆れるが、あの時はそんな事
考えていられなかった
でも、彼の“匂い”は覚えている。
火薬と血の匂いがしたあの時の匂いも、
僕の家で僕と暮らしたあの時の匂いも、
火薬と血の匂いを嗅ぐだけで、
この家で独り生活しているだけで
彼との記憶が思い出される
でも、その度に胸が締め付けられて
辛くなるんだ。
痛くて苦しいけど、
彼が此処に居たって証明にもなるから、
悲しいのに嬉しい気がして
何がなんなのか分からなくなる
今までも居なくなった子は何人も居た
それなのに彼との別れが
一等辛く感じるのは何故だろう
… きっと、彼を手放した後悔だ。
僕が離したあと、彼は消えた
彼が散々愛を注いだ、
彼自身の弟に吸収されて。
彼は元々決めていた事だったからと
笑顔だったが、
その弟は知らなかったのだろう。
彼の身体が消え始めると
凄く焦り、泣き怒ったらしい
その場には彼と彼の弟の二人きりだったから
僕には分からないが、
再開してまだ一年しかたっていないのに、
これから一緒に暮らそうと言う時に
自分にすべてを託し、兄が消えたのだ。
そりゃあ辛いに決まっている。
でも、僕からすればまだそうなってくれて
良かった。
それなら彼の最後の時は
殆ど僕との記憶になる訳で、
まだ僕との記憶は新しいものだったはずだから。
コメント
2件
言葉に出来ないくらい好き。あいしてる