テラーノベル
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ゴボゴボという泡が生まれては消える空間に、気づけば彷徨っていた。
淡い光が水面を通して降り注ぐ。
…海は苦手だ。
息もできないのに、それを甘んじて受け入れて沈む自分がいた。
『仁人来て!マジで太智おもろいからさ』
なに◼️◼️、太智がおもろいのなんていつものことだろ。
『もうやめとけ、本当に嫌がってる顔だからこれ』
よく分かってんじゃん、ニヤニヤしてるのは意味がわからないけど。
『仁人、宿題出した?』
◼️◼️に宿題って概念あったんだ。
『普通にあるだろ、なんでないんだよ』
泡の音に隠れるその名前。
『新曲できたの!?聴きたい聴きたい!』
『俺この曲一番好き。マジでなんでそんな曲かけんの?何があった?』
『仁人ならなれるよ絶対。俺がプロデュースする』
『付き合おっか』
……ああ、なんでこんな大事なことを忘れていたんだろう。
冗談っぽく言った時、前にやった手が自分で指を絡めて、忙しなく動いていたこと。
いいよって言った時の嬉しそうな表情に垣間見えた、不安じみた顔。
そりゃびっくりしたよ。
びっくりしたけど、それ以上に嬉しく思っちゃったよ。
断る理由なくて受けた告白だったけど。
『こっからなら良いでしょ?誰もいないし。手繋いでも…』
…いいよ。お前の好きにして。
『よし。…なんだよ。お前だってニヤニヤしてんじゃん』
『週末空いてる?空いてるよね?お前友達いないもんね?はい予定ぶち込みました俺の勝ちです。…はあ?俺以外の奴呼ぶと思う?俺そんな陽キャに見えるかな』
『さっき誰と話してたの?…いや別に嫉妬とかじゃ…』
『…今日、うち来ない?』
『おいバカ仁人コラ、心配させんな!!』
『仁人からは言ってくんないの?』
…勇斗。
好きだったのは本当だよ。
でも忘れたかった。
辛い思い出の方が上回ってしまった。
誰もが勇斗が好きだった。
だから、勇斗の死をみんなが悲しんだ。
その悲しみが偶然、近くにいたのを目撃された自分に向けられただけで。
その末路が、今だ。
早く、伝えなければ。
あいつはもうすぐにでも消えてしまう。
なのに、身体は沈んでいくばかりで、光は遠のいていく。
藍色に包まれた闇が周りを包んでいく。
「……ッ!!」
息を飲む目覚めだった。
ソファーに伏せて眠っていた。
横転した世界はさっき帰ってきた時となんら変わらない。
腕時計の短針は日付を越えようとしている。
中途半端な時間に眠ってしまい、今からは寝付けそうにない。
…なんでだっけ。
そう思案して…突然ガバッと体を起こした。
脳髄まで眠気が冴え切った。
言わなければならないことを思い出した。
「…勇斗!俺…」
勇斗の顔の方を向いて動きを止めた。
そこにあったはずの勇斗の顔がない。
人の気配もしない。
ソファーは、と咄嗟に立ち上がって全体を見渡したが、さっきまでのあの霊体は見つからない。
…いや、とソファーにあった何かを拾い上げた。
真っ白な大きな羽根が1枚、飛び立ったにしては仕込んでいたかのように置かれていた。
それを見た途端、胸が詰まる思いだった。
…幻じゃない。
そこからの行動は早かった。
隣人への配慮など無視で、ドタドタと駆け回った。
リビング、寝室、机の下、クローゼット、トイレ、キッチン、玄関、玄関の先の廊下。
歯を食いしばって堪えるように神に祈るような思いで滑り込んでは広げ、前回に開けては物をどかした。
願いはものの見事に虚しく空回りし、逆に『存在しない』という事実をまざまざと見せつけられた。
…もう、遅かったのだろうか。
息を切らしながら床の木目を見つめた。
木目はだんだんとその境界線を無くし、水彩画のように滲んで混ざり合った。
「……はは…」
自嘲は顔を余計に引き攣らせた。
その時、スマホがポケットで空気も読まずに震えた。
抜け殻のような気持ちで返事もせずに通話に出た。
『あ、よっしー。あのさ…』
「柔太朗、聞いて」
話したいことがあってわざわざ電話してきた相手を無碍にするような、突拍子もなく切り出した話題にも柔太朗は『何?』と聞き返してくれる。
「……柔太朗の知ってる範囲で、『勇斗』のこと教えて」
相手が声にならない呼吸を漏らしたのが聞こえた。
…そりゃあそうだ。
「全部思い出した。柔太朗にものすごく迷惑かけたと思う。舜太も、太智にも、心配かけてたんだな。なんか、ごめん」
『いや待って、一旦待って』
柔太朗が慌てたように遮って、遠慮がちに聞いた。
『…それガチ?本気で言ってるんだよね?』
「…嘘つくことある?」
まずい、と感じた。
思わず声が震えたのが自分でも分かったから。
柔太朗の返事はなかった。
服を掴んでぐちゃぐちゃと気まずそうにかき乱していると、柔太朗がいつにない命令口調で言った。
『夜行バスの予約とって。一番早い奴で2人分』
「あ?」
『どうせ服もまだスーツでしょ?そのまんまでいいから早く予約とって。東京駅集合ね。着替えとか一切考えなくていい、貴重品だけ持ってけばなんとかなるっしょ。早くして』
矢継ぎ早に言いたいことだけ言って切ろうとした。
『…もうちょい早ければ新幹線だったのに』
切る直前イライラしたように呟いたのが聞こえた。
……こいつ、俺への当たり強えな毎度。
昔っからそうだった。
鞄を引っ掴んで戸締りを…と動きかけたところで止まった。
片手に持っていた勇斗の忘れ物。
…セットの方が良さそうだな。
中指から指輪を捻って、骨が痛くなっても捻って外し、羽と重ねた。
勇斗の所有物であるように羽根の上で光る指輪を、壊さないように緩やかに握った。
…話ができるとは全く思っていない。
少しでも思いが届いて欲しい。
願いを込めるように胸に握った拳を押し付けた。
深夜近い夜でも光るビル街を抜け、バス停の煌々と灯った灯りの元へ、多数の人を抜かしながら急ぐ。
夜行バスで合流すると柔太朗は早速鞄で殴ってきた。
突然の暴力に不服を申し立てたが「これくらいで済んで感謝してほしいぐらいだわ」とつっけんどんに返された。
幸い、明日は土日だ。
今から、自分たちが通っていた高校があった地へ行く。
「あのさ、柔太朗…その、前の話、わかる範囲で聞かせてほしいんだけど」
一般道から高速に乗り、本調子を出し始めたバスの中で問いかけると、柔太朗は「いいよ。これで1奢りね」と余計なことを付け加えながら鞄からスマホを取り出した。
アプリを開いてまず見せてきたのは、眩しい顔で肩を組んで笑う5人の写真。
「わは、懐かし。これ確かプール清掃の時じゃね?」
「そう。教室内で舜ちゃんと太ちゃんが野球しててなぜかとばっちりで俺らまで罰喰らった奴。太ちゃんがあたりビッショビショにしてよっしーのスマホぶっ壊れたんだよね」
「あったわそれ!マジでブチギレた」
「けど結局よっしーも本気で怒ってないから結局ゲラゲラ笑ってさ、最終的にこの写真を撮るっていう」
「マジふざけてるわ。あー腹立ってきた」
画像の5人の笑みは何も知らない、屈託のない笑顔だった。
その中でも中心にいる勇斗の向日葵のような笑顔に目を奪われた。
「…俺らが2人のこと知ったのもこの時だった」
「へ?」
素っ頓狂な声で聞き返すと、柔太朗は「気づかないと思った?」とニヤリと笑った。
「みーんな気づいてたからね?気遣ってたんだよ俺らも。…勇ちゃんは知ってんのかわかんないけど」
勇斗の話題に笑顔を収めて閉口した。
「…あれは運が悪かっただけだよ」
窓にもたれかかって外を見やったまま、柔太朗が呟いた。
「俺も話に聞いたぐらいだけど。勇ちゃんが轢かれた時、手を伸ばしていたから仁ちゃんが突き飛ばしたんじゃないかって。制服も身体にも返り血浴びてるのに冷静に119番したりなんだりするから、そう見えちゃったんだと思う」
「…」
宵闇の森をこじ開ける時みたいな、ぼんやりとした記憶が蘇ろうとしている。
思い出そうとすればするほど脂汗が滲むのが分かった。
「…もうやめとこ。この話。しんどそうだよ」
柔太朗が無理やり切り上げた。
「…ごめん、全く思い出せない」
声だけでもなんでもないことのように切り出した。
「でも…勇斗を慕う人は大量にいたから……『お前が死ねば』って声は…最後聞いたような」
「最後?…いつ?」
そう問われて答えようとしたところで、ひゅ、と喉が締まった。
口に出した時、記憶の中の声と重なって途端に海底の水面へ叩きつけられ沈む様を、脳内に鮮明なほど映し出されたから。
「ああごめん、もう聞かない。忘れて」
何かを察した柔太朗は遮った。
高速に適応してきたバスはなんの邪魔もなく、ひたすら走り続ける。
そのエンジンの音とたまに聞こえる疲れ切ったサラリーマンの寝息だけが残った。
「…俺電話しようとしたじゃん」
徐に切り出した柔太朗。
「あれ、勇ちゃんの入院先いい加減来ないの?っていう電話だった」
目をむいて顔を上げた。
「……生き、てる…?」
喉が、身体が震える。
嘘だ、嘘だと頭で叫んでいる。
「生きてる…けど、意識は戻ってないね」
柔太朗は元々知ってたのか、何も変わらない態度で話していた。
「頭を強く打って…もう6年?とかになるんかね。目覚めるって信じてたんだけど…もう少ししたら管外そうかって話してるらしいよ」
ああ、そうか。
生きてるのか。
柔太朗が気遣うような視線を向けた。
「急にこんなこと話すのちょっと気が引けるけどね…」
「いや、いいよ」
柔太朗に、というよりかは自分の気持ちを吐露するように。
「生きてること知ったから、もういいや…」
熱くなる顔を覆った。
息を、熱い息をゆっくりと吐いた。
「……よかった……マジで……もうそれだけでいい… 」
胸に詰まったものが喉にかけて瞳から押し寄せる波を抑えるように、ゆっくりと深呼吸をした。
柔太朗は無言でその背中を摩った。
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