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「やっぱり……」
小さく呟いて、手を離した。握られていたところがすーすーする。あまり脈がよくなかったのかな。何だか泣きそうに見えたので、急いで声をかけた。
「平気。今日はいつもより調子がいいの、心配しないで……」
けれど、彼は小さく首を振る。
「それはーー」
言いかけた瞬間、少年は弾かれたように背後を振り返った。なに?私もつられて、同じ方向に顔を向ける。
牢屋の道の突き当たりに、もう一つの鉄のドアがある。ドアは閉まっていた。
「どうし……きゃっ!」
突然、強い力で腕を引っ張られる。
「な、なに……」
「こい!!」
逆らう間も無く、近くの牢に引きずり込まれた。男の子は私を床に押し付けて座らせると、素早く牢の扉を閉める。何!?何が起きてるの!?
質問される間も与えられないまま、気づけば額にカードを押し当てられていた。
「あ、あの……」
「シッ」
短く指示されて、口をつぐむ。彼の視線は牢獄道の突き当たり、奥の扉に注がれていた。視線はそのままに、右手で銀色の銃を持ち上げる。また動くと怒られそうなので、目だけでそちらを伺った。
鉄格子越しに見える、鉄の扉。何なの?あの扉から何が来るというのーー。
やがて見守る私たちの前で、ガチャとノブが回った。
「!」
ドアの隙間から顔を出したのは、『私』だった。昨夜見た『私』!
四つん這いの姿勢で、ドアを頭で押し開いて部屋の中へ侵入する。だらんと下げた頭を揺らしながら、並ぶ牢の前をぺたぺたと歩いた。次第に、私たちの牢へ近づいてくる。
「ひっ……」
そんなつもりはなかったのに、思わず声が漏れた。素早く手が飛んできて、私の口を塞ぐ。それと同時に『私』がカッと顔を上げ、私たちの牢に突進してきた。
「ガアッ!」
勢い余って鉄格子に激突。目の前で、赤い顔が鉄格子の隙間に押し付けられた。
「!!」
きつく口を押さえらていたおかげで、何とか声を上げずに済んだ。鉄格子を挟んで、その距離は三十センチもない。
「ひひ……」
笑い声が、生々しく降りかかってくる。怖いのに目を閉じることができない。
お化けの私は私よりも痩せこけていて、妙に手が長かった。なぜか目の前にいる私たちが見えていないのか、キョロキョロと赤い目が揺れる。鉄格子の向こうから差し込まれる長い舌が、探るように宙をうねる。口を押さえている手にぐいと引かれ、私の顔を背けさせて舌先をかわした。
「うあぅ……」
やがて『私』は引きつった笑みを浮かべながら、ぺたぺたと去っていく。『私』の姿が見えなくなると、ようやく男の子は手を離してくれた。
「あれは……」
銃を腰のホルスターに収めながら、何かを呟いて立ち上がる。が、私は座り込んだまま立ち上がれない。冷たい床に手をついて、体を支えているのが精一杯。
長い手、細い足。血に濡れた目。顔はやっぱり私だ。どうして?どうしてあのお化けは、私と同じ顔をしているの?
ぐるぐると頭の中が回る。目を閉じれば、その渦に飲み込まれてしまいそう。渦の中心に何かがあるのに、渦が邪魔をして手が届かない。頭の中がぐちゃぐちゃになっている。ああ。頭を割って中身を引きずり出せたら、蠢くそれを捕まえられるのにーー。
「ーーねえ!」
「!」
突然視界いっぱいに人の顔が割り込んできて、我に返った。男の子が私の視線を邪魔して、下から顔を見上げている。ものすごい至近距離に顔がある。近すぎてピントが合わないくらいだ。
「えっ、えっ……な、何?」
「何じゃない。俺、さっきからすっごい話しかけてんだけど」
「あ、ご、ごめんね。ちょっとぼうっとしてて……」
「…………」
そんなに見られたら、穴が空いちゃう……。
「……。ま、いいけどっ」
一転して明るくそう言うと、立ち上がった。灰色の目の呪縛から解放されて、ホッとする。
「でも、しゃんとしなきゃ」
小さい子を叱る調子で、顔を顰められた。
「こんな所でぼけっとしてたら、あっという間にあの世へ行っちゃうよ?」
「はい……」
怒られちゃった。私の方がお姉さんなのに。
「ほら、とにかく立って」
私の手を引っ張って立たせると、牢を出た。
「姉ちゃん、名前は?」
「レナ……レナ・タウンゼント」
「ふうん、レナね。俺はフレデリック・オーゼンナート。フレディでいいよ。覚えといて」
屈託のない調子でそう言うと、彼は私を振り返った。
「姉ちゃん、どっか怪我してない?今までに転んだりとか、トゲ刺さったりとかしなかった?」
少し考えた。体の隅々まで神経を総動員させてみる。痛みはない。
「……。してない」
「ほんとに?少しも?口の中は切ってない?」
「……。ない」
それでもフレディは、疑わしそうに全身に目を走らせる。
「……うん、大丈夫そうだね。流血には気をつけなよ。奴らは血の匂いに敏感だから」
「奴ら?……あのお化け?」
私の「お化け」という表現がおかしかったのか、軽く吹き出した。
「そうそう、オバケ」
何だかホッとした。人の笑顔を見たのは、すごく久しぶりな気がする。……でも不思議な子。会ったばかりなのに、昔からの知り合いみたいに話せる。なんだか懐かしい匂いがするし……。これはなんの匂い?ええと……いつだったかな、どこかで……。
「……ねえってば!聞いてる!?」
「えっ?あっ」
いけない。またぼんやりしていた。
「ご、ごめん……ね?」
「…………」
怒られるかと思ったのに、なんだか興味津々な目で私を眺めている。
「……な、何……?」
「んーん。なるほどなーっと思って」
「?」
フレディは気にしないでと言いたげに、ひらひらと手を振った。
「そういうぼけっとした人を置いていくのは、ちょっと心配なんだけど……」
「えっ……置いてく?」
「うん。俺用事があるからさ。戻るまでここでじっとしてて欲しいの。はい、これお守り。持ってて」
一枚のカードを、私の手の中に押し込む。
「や、やだ、待って、私も一緒に……!」
焦ってフレディのコートを掴んだ。
「ダメ。今姉ちゃんがうろつくのは危ない。俺と一緒いるのは、もっと危ない。ここにいた方がマシ」
「でも、一人でなんて!」
「大丈夫、大丈夫。すぐ戻ってくるし」
「でも!」
「声を出さない、音を立てない、動き回らない」
「えっ、えっ……」
「ただしもしも流血を伴う怪我をした場合は、速やかにその場を離れること。オッケー?」
「あ、う、うん。あの、でも……」
「その場合はー、そうだな、中庭にいてよ。ここにいなければそっち捜すから。そこでもとにかく、じっとしてること!それじゃ後でね!」
「あっ……」
気づけばぽかんと口を開けたまま、フレディの出て行った扉を見る。行っちゃった……。聞きたいこと、いっぱいあったのに。置いていかないで欲しかったのに。でも、そうね……。
ふうっと息をついた。自分より小さな子に頼るなんて、やっぱり良くない。それなら私ができるのは、言われた通りにすることくらい。年長者らしく分別を発揮して、大人しく待つことに決めた。