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「…………」
私はじっとしていた。言われた通り、動かず音も立てず、ひたすら座り込んでじっとする。手には、フレディのくれたカード。お守りだって。
お化けに遭った時、私の額に押し付けてきたものだ。カードには七つの角を持つ星と、バラ……それから奇妙な有翼の獣が描かれていた。ちょっと変わっている、きれいなカード。もらってよかったのかな……。
「…………」
カードを見るのを止めて、立てた膝に顔を埋めた。……フレディ、遅いな。いつ戻ってくるのかしら。遠くで、オオンと遠吠えが聞こえてくる。それとも風の音?早く帰ってこないかな。
不意にお母さんのことを思い出した。そうだ。私、いつもこうやってお仕事から帰ってくるお母さんを待っていた。
いつ帰ってくるのと聞くたびに、アーウィンはいつだって家にいますよとしか言ってくれない。そのうちっていつ?あと少し?もっと後?私はベッドの中で耳を澄ませていた。車のエンジン音が近づいてくるのを、玄関から聞く音がするのを、ずっと待っている。まだかな。いつ帰ってくるのかな。早く帰ってきて。お母さん……。
お母さんのことを思っていたら、不意に涙が溢れた。お母さん、早く帰ってきて。今、会いたいよう……。
『レナ……』
「!」
またあの声。
心臓が縮み上がった。声を出しちゃ、ダメなのに!だめってフレディが言ってたのに!
『レナ……』
焦る私に構わず、声はもう一度呼んだ。とても近い。
ハッとして奥の扉を見つめる。あの扉の向こう。すぐそばに……いる。
『レナ……』
「…………」
フレディはじっとしていろって言ってたけど、ちょっとだけ……。ちょっとだけ見て、すぐに戻るくらいならいいよね?そっと足音を立てず、静かに歩く。
好奇心が湧いてきたのでやって来たドアから出ると、そこはしんと静まり返っている。
「あの人、いなくなってる……」
扉の鉄格子の窓から覗いても、あの女の人の姿はない。でもすぐ向こうにいるかもしれないし、ドアを開けるのは危険。もうしばらく、掛け金をかけたままにしておこう。
扉をくぐると、牢獄の道だ。誰もいないのに、牢の中の暗闇から静かに見つめられている気がする。
「……あ、れ……?」
ドアを開けて向こうを見ると、誰もいなかった。おかしいな。こっちから声が聞こえたんだけどな……。もう一つ向こうのドアかな?
「…………」
廊下は東へ折れているが、その先は行き止まりになっている。北には一つ、ドアがある。北のドアをくぐる。
「な、なにここ……!」
私を迎えたのは、死体の林だった。たくさんの死体が柱に打ち付けられ、突っ立っている。皆、顔には黒いベールが被されていた。
「…………」
死体、死体……。ここでは、私の存在の方が間違っている。死体の国に紛れ込んでいるみたい。なぜか恐怖より、居心地の悪さが先に立った。……ああ。何だか眩暈がして……。
その時、視界の端に何かがかすめた。他のものより少し小さな体。黄色の服……見覚えがある。
「!!」
脳天から足の爪先まで、冷たい衝撃が走り抜ける。まさか!!
私は小さな柱に駆け寄ると、うつむく顔を下から覗き込んだ。
「……リズ!!」
それはリズだった。棒に括り付けられて、ぐったりと項垂れている。
「嘘、嘘よね。リズ!そんな、まさか、まさか……そんな!!」
肩を揺すったけど、彼女は反応しない。
「リズ!!」
手が首に触れた。温かい!生きてる!降ろさなきゃ!
縄は固く結ばれている。解けない!何か、何かで切らないと!辺りを見渡した。
部屋の隅には、かがり火が一つゆらゆらと死体の林を照らしている。そうだ、火で縄を焼き切れば!かがり火から、片方燃えていない薪を一本取りあげた。慎重に火を近づける。もっと近づけないと……でも火傷させられない。
自分の手を、縄とリズの体の間にねじ込んだ。熱ッ……でも、もう少し。あとちょっと。
「切れた!」
同じく、両手を縛っていた縄も焼き切る。最後に胸の辺りを縛っていた縄を切ると、支えがなくなった彼女は、覆い被さって倒れ込んできた。
「うん……」
「リズ!!しっかりして!!ねえ、リズ!!」
必死に肩を揺すると、うっすら目を開ける。焦点が私の顔と合う。その瞬間、リズはヒステリックな悲鳴を上げた。
「キャアアアーッ!!」
立ち上がろうとしたが、すぐに倒れてしまう。それでも狂った感じに手を動かして、逃げようとする。蹴られながらも、彼女の服を掴んだ。
「リズ、待って!私よ、レナよ!」
「いやああッ!こないでッ!!」
もう一人の『私』と勘違いしているんだ。
「リズ、落ち着いて!!あれは……」
「嫌あああッ!!」
「違うの!私は違う!!」
「化け物ッーー」
「それは私じゃない!!」
今まで出したことのない大声だった。私にもこんな大きな声、出せるんだ。
リズも驚いたのか、血走った目で凝視している。
「私じゃない……」
ポツリと呟くと、涙が溢れた。わかって。お願い……。私のこと、嫌わないで。
「私……じゃ、ない……」
そう。私じゃない。絶対に私じゃ……。涙が止まらなくてヒクヒクとしゃっくりを上げると、怯えた声がした。
「……レナ?本物なの?」
答えの代わりに、リズの首筋に抱きつく。ビクッとしたけど、跳ね除けたりはしなかった。ややあって、ようやく力が抜ける。
「レナ、どうなってるの……あの化け物はなに?こんなの悪い夢よね?」
「私にも分からない……」
彼女にしがみついたまま、顔だけを上げる。
「リズはどうしてこんなところにいるの?」
「マシューを捜してて……レナの家の側まで行ったの。そしたら突然誰かに殴られて……気づいたらここだったのよ」
びくんとリズの声が震えた。多分ここに来てからのことを想い出したんだろう。
「マシューは見つかった?」
「わかんない……」
暗い気持ちになったが、ショックではない。何となくそうかなと思っていた。マシュー……。
「どうして……何が起きてるの……」
額を彼女の肩に押し付けて、ポツリと呟く。対するリズの声もひっそりしていた。
「わからないわ……」
しばらく私たちは、そのままじっとしていた。ぱちぱちと、かがり火の薪がはぜる音がする。それ以外、音はしない。死体の林の中、ただ重い静寂がある。
やがてリズが意を決したのか、私の背中を叩いた。
「とにかくここから出よ?出口を探さなきゃ……」
そう言いながら立ち上がろうとした彼女は、うめいて崩れ落ちる。
「リズ!」
「あ、足が……」
言われて彼女の右足を見ると、足首の辺りがひどく腫れ上がっていた。
「ひどい……リズ、立てる?」
「うん……」
頷いたけど、右足に力を入れようとした途端呻いて蹲ってしまう。
「ダメ……無理みたい」
「そんな……どうしよう」
「レナ。何か長い棒、探してきてくれない?杖になりそうな……このままじゃ歩けないわ」
「わ、私、一人で……?」
答えにちょっと時間がかかった私の額を、彼女はいつものように軽く小突いた。
「逆ならよかったね!あたしならレナを背負えるもの。でもあたしを背負うのは無理よ。でしょ?」
「うん……」
それは確かに無理そうだ。私はチビで痩せっぽっち。無理に背負ったら、途中で潰されて風邪を余計悪くさせちゃう……。
「わかった……探してくる。待ってて!一人で平気?」
「あたしは大丈夫。レナこそ気をつけてね……無茶しちゃダメよ」
「うん」
柱に括り付けられた死体が乱立している。その一つの柱の根本にリズが座っていた。ここには杖になりそうなのものはない。他の場所で、探さないと……。