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⚠︎ATTENTION⚠︎
・読み切り
・腐気味
・口調迷子
***
誰かが云った。
「僕は夜空が好きなんだ」
──と。
誰かが云った。
「一緒に夜空を見に行こうよ」
──と。
誰かが云った。
「綺麗だね」
──と。
誰かが訊いた。
「君は何が好き?」
──と。
俺は云った。
「_____。」
──と。
***
「っ……」
瞼を開く。
見慣れた天井が視界に入った。
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。 俺はゆっくりと躰を起こした。
……久しぶりに“ユメ”を見たな…。
というのも、俺は周りの人間とは少し違うらしい。
“ユメ”を見た事じゃねェ。俺と云う存在が少し違う。
俺は──人生の途中からしか記憶が存在しない。
ある日を境に、俺は記憶を失ったという。
だからこそ「中原中也」という名前も、俺を育ててくれている“姐さん”が教えてくれた名だ。
俺と云う存在は周りと違うが、それでも 他の人間と同じような愛を受けていると思う。
其れもあって、記憶を取り戻そうとした時期はあった。
けど結局戻らなくて──、今この状況だ。
「………はぁ…」
偶に見る“ユメ”はおかしな“ユメ”だった。
何故か“ユメ”の中で俺は、何時も夜空を見にいく。
それに何の意味があるのか全く持って判らねェ。
尤も不思議なのは、隣に誰かがいる事だ。
其奴が誰なのか。
顔はぼやけて見えねェし、時が経つにつれて声も上手く聞こえてこねェ。
只、不思議と────其奴が誰なのか知りたい。
──カサッ
「…ン?」
右手に感じた紙の感触に、俺は視線を移す。
そして目を見開いた。
「────“切符”…?」
少し硬めの紙で出来た真新しい切符が手元にあった。
けれど、俺が其れより驚いたのは“行き先”だった。
【月行き】
……月…?
刹那、針が刺さるような鋭い頭痛が起こった。
「──ヅ!!」
反射的に頭を押さえて、寝台の上に蹲る。
そして頭の痛みは次第に違和感に変わった。
『──!』
ナニかが流れ込んでくる。
誰かが俺を呼んでいた。
『──!──ッ!!』
其の声は遠くばかりで、一向にはっきりと聞こえない。
「っ……誰、だ…?」
白い霞がかった景色が唐突に変わった。
────ゴポッ……
『…ゴボッ……』
黒い水が覆い尽くした。
唇の隙間から肺に溜まっていた空気が抜けていく。
視界が黒く蝕まれていく。
助けを求めてもがいている。
刹那、誰かの手が視界に入った。
けれど其の手は────届かなかった。
「──っ!」
先刻まで流れ込んできた誰かの記憶が途切れる。
冷や汗がだらだらと流れてきた。
息は浅く、冷たい。
アレは誰だ…?
コレは一体……何なンだ…。
***
此の“切符”が何なのか、俺は判らなかった。
だが其の日の夜、俺は“切符”を枕元に置いて眠りについた。
まるで過去に同じような事をしたように。
其れが当たり前の動作のように。
何なのか判らない“切符”を、何故か俺は枕元に置いて瞼を閉じたのだ。
そして次の瞬間──
視界に映ったのは駅だった。
「……は?」
唇の隙間から声がもれる。
駅なのは一瞬で理解した。けれども寝ていた自分が何故こんな処に居るのかが、俺は理解できなかった。
右手に何かを握っているのに気付く。
視線を移すと、俺が握っていたのは“切符”だった。
「俺…何して………」
刹那、右の方からガタゴトと音が聞こえてくる。汽笛が鳴り響いた。
そして視界に入ったのは────灰色の煙を頭の煙突から吹き出す漆黒の汽車だった。
汽車はブレーキの余韻を残し乍ら俺の目の前に停車すると、プシューと音を立てて扉を開いた。
目の前の出来事に理解できないまま、俺は唖然としながら“切符”を握る。
不意に、開いた汽車の扉から誰かが出てきた。
白い手袋をはめ、制帽を被った車掌の男。
袖口と襟から覗く包帯が少し気になった。
そして俺はその包帯男に、妙に目を惹かれた。
「──・・・」
包帯男は俺に気付き視線を移すと、少し儚げな笑顔で云った。
「久しぶりだね、中也」
「………は…」
俺は唇の隙間から声をこぼす。
何故この男が自分の名前を知っているのか、俺は判らなかったからだ。
「手前っ……」
「それでは、“切符”を拝見いたしま〜す!」
儚げな笑顔から一転、包帯男はコロっと調子良さそうな笑顔になった。謂わば営業スマイルと云うものだろう。
俺の目の前に包帯男は手袋をつけた掌を出す。
「きっぷ……?」
少し睨み、包帯男から数歩離れて聞く。
「君が右手に持っているモノだよ」
包帯男は指を指しながら云った。
掌を広げて、俺は“切符”を見る。
コレ、本気で“切符”だったのかよ……。
刹那、俺の視界に白い手袋が乱入してくる。
「それでは入鋏致しまぁす」
包帯男はそう云って、何処から取り出したのか判らない検札鋏を切符に近付ける。
──パチンッ
「入鋏完了〜!それでは月へレッツゴー! 」
何も判らずに茫然とする俺の背中を、ぐいぐいと押しながら包帯男が云う。
「──って、オイ!何が月へレッツゴーだ!?勝手に話進めンな!」
汽車の扉に乗る寸前で俺は勢いを止め、後ろに振り返って包帯男に云った。
包帯男はきょとんっと目を丸くする。
「月へ行くのだろう?」
「はぁ!?何云っ」
「いいから乗ってみな────よっ!」
俺の背中を勢い良く包帯男が押した。
「ぅおッ!?」
押された勢いで俺は車内に入ってしまい、その儘、膝を着いて転ぶ。
刹那、プシューと云う空気が抜けるような音と共に、後ろで扉が閉まる音がした。
「オイ!手前ッ!」
俺は急いで振り返る。
包帯男は悪戯が成功した子供のような笑みで立っていた。
此奴…ッ
怒りと恨みを込めた目で、俺は包帯男を睨む。
刹那、躰が横に揺れた。汽車が走り始めたのだ。
──ガタンゴトン、ガタンゴトン
いやコレ……終わったくね?
窓の外から見える移動する景色に、俺は絶望する。
「ちょっと、そんな処に座ってないで、ちゃんと座席に座ったら如何だい?」
包帯男は何時の間にか座席に座って居た。
対面する席を此処に座れとでも云うように指を指した。
「………」
俺は如何するか考え、包帯男を睨んだ後、ゆっくりと立ち上がる。
そして通路を一つ挟んだ右側の座席に俺は座り、包帯男と目を合わせないよう窓の外を見た。
然しトンネルの中に入ったのか、外には暗闇が広がっている。
窓越しに反射して見える彼奴の顔は、驚いたのかキョトンっと目を丸くしていた。
「ねぇ、何故そっちに座るんだい?」
「じゃあ何で態々、手前と顔合わせて座ンなきゃいけねェンだよ」
「ふむ、それもそうだ。なら──」
急に包帯男が走ってくる。
俺は直ぐに振り向いたが、それよりも少し早くに、包帯男は勢い良く俺の隣に座ってきた。
「私が君の隣に座ろう!」
腹が立ってくる程の清々しい笑顔で包帯男は云う。
「…っ、な…は……はあぁぁ!!?」
俺は窓側の壁に勢い良く背中をぶつける。
包帯男から少しでも離れる為だ。
「いやいや他の席行けや!!一々、此方来ンなよ!」
「そんな事云わずに仲良くしようじゃないか。何する?カードゲーム?しりとり?」
「ンなのしねェよ!」
そう云って俺は立ち上がり、包帯男から離れる為に歩き出した。
「何故だい?別に仲良くしたって損はしないだろう?」
俺の後ろに包帯男はついてくる。
小さく舌打ちをして、少し足を早めるも、それに合わせて包帯男は早歩きで俺の後ろに着いてきた。
「だから付いて来ンなって云ってンだろ!つーか乗客全然居ねェンだから其処ら辺座っとけや!! 」
俺は足を止めて包帯男に向けて怒鳴った。
そして漸く気付く。
そう──乗客が一人も居ないのだ。
「っ!」
如何して客が一人も居ない事に今まで違和感を覚えなかったンだ…?
俺は包帯男の方へ向く。
唐突に迫り上がってきた疑問の答えを知る為に。
だが判っているだろうにも関わらず、包帯男は返事をしなかった。
それどころか何処か不気味な笑みを薄く浮かべている。
「──ッ!」
俺は走り出した。
次の車両に行くも、先刻の車両と同じで人は誰も乗っていない。
如何なってンだ……。
──コッ、コッ、コッ
足音が聞こえた。
包帯男だと直ぐに判る。
先刻まで俺のペース合わせていたのとは違い、今度はゆっくりと、靴音のみを響かせて歩いて来る。
何処か不気味で、そして、俺の不安を煽らせた。
包帯男から逃げるように、俺は再び走り出す。
次の車両も。
其の次の車両も。
乗客は誰一人として乗って居なかった。
「はぁッ……はぁ…はぁッ……」
不安は積もり、息は切れるばかり。
刹那、再び靴音が聞こえてきた。
心臓が危険を示す。
「走行中の車内で走るのはお止め下さい。座席に座って──駅に着くのを待って居ましょう?」
俺は小さく舌打ちをして、包帯男と目を合わせた。
「手前の云う事なんか聞くかよ」
包帯男に近付いて胸倉を勢い良く掴む。
静寂の中で、汽車の振動と揺れる音が響き渡った。
息を吸う。
そして云った。
「ココは何だ?そして────手前は何者だ?」
俺の問いに包帯男は薄い笑みを浮かべる。
其の笑みの気味悪さに、反射的に殴りそうになる。
一呼吸置いて、包帯男は云った。
「先刻から思っていたのだけど、もしかして中也って不良?」
思わぬ言葉に俺の思考は一瞬、停止する。
「──は?」
「いや、絶対君、不良だろう?直ぐ喧嘩腰しだし…」
何時の間にか出来た癖を其奴に云われ、心臓がドキリとなる。
完全に図星だ。
「ぃや……べ、っに……ふ、りょ……なンじゃ、ねェ……し…」
モゴモゴと口を動かしながら、俺は濁す。
「あっ、判った!君、実際は不良だけど自分の口から不良って云うの恥ずかしいタイプだろう?」
其の言葉は胸元にあった何かに熱を帯びさせ、頭のてっぺんまで迫り上がらせた。
今直ぐにでも殴りたくなるような、妙にキラキラとした包帯男の笑顔が追い討ちをかける。
「…っ……」
怒りを堪え黙り込んでいる俺に、容赦なく其奴は話しかけてきた。
「あれ?急に黙り込んで如何したのさ?おーい?中也ー?中也くーん?」
──ブチッ!!
俺は包帯男の襟首を荒々しく掴む。「えっ?」
窓を開けた。包帯男の首から上を窓の外に出す。
「えッ、ちょ!中也!?何して……」
「五秒以内に先刻の俺の質問に答えろ。さもなくば手前を此処から放り投げる」
「矢っ張り不良じゃないか!冗談は身長だけにし」
「五──四──三・・・」
「判った!!答えるから押さないで!!」
***
「ふぅ…冗談にも程があるよ」
包帯男はそう云って、ヨレた襟を丁寧に直していく。
「本当、冗談は身長だけにしてほ──」
「あ゙?」
「質問に答えようじゃあないか……」
俺達は対面する位置に座る。
「ンで、此処は何だ?」
肘をつきながら聞いた俺の問いに、包帯男はまたもや薄い笑みを浮かべる。
「此処は────私と君の“夢”の中だ」
は?
予想外の答えに、俺は呆気に取られる。
何だ此奴、今──“夢”って云ったか?
「だが正式には、君の“夢”の端。君自身ですら干渉しにくい“夢裡”に、私の夢を強引に介入させた場所だ」
包帯男は先刻までの気味悪い笑みでもなく、悪戯っ子のようなうざったらしい笑顔でもなく、只々、真面目な表情をしていた。
「私と君はね、“夢”を通して繋がっているのだよ」
ジワリと汗ばんだ右手で、俺は“切符”を握り締める。
固唾を飲んだ。
「繋がるって……如何やって…」
俺の言葉に、包帯男はポケットから何かを取り出した。
目を見開く。
包帯男が持って居たのは──俺が持っているのと同じ“切符”だった。
だが不思議な事に、俺の“切符”は真新しく作られたであろう肌触りのいい紙質でできているが、
包帯男の“切符”は少し黄ばんでいて、まるで過去の産物とでも云うような雰囲気を漂わせて居た。
「此の二つの“切符”を通して、繋がる事ができる。また作るのに、随分と時間がかかったよ……」
また…?
如何云う事だ……?
不意に、包帯男と目が合う。
其奴の瞳には、何かが映っていた。
俺が理解できない何か。
本能的に俺は悟った。
此奴は俺が知らない事も全部、知ってるンだ──と…。
ソレを知りたい気持ちと、知りたく無い気持ちでごちゃ混ぜになった。
「──ッ、それに…っ!!」
俺は声を張って云う。
包帯男と目を合わせても尚、俺は其奴を見ていなかった。見れなかった。
「…俺は……こんな“夢”見た事ねェし…」
「当たり前だ」
「は、……?」
目を見開く。
「君が日頃から見ている“ユメ”は“夢”じゃあない。君が五年前に失った中原中也の記憶だ」
衝撃が走った。
硬い何かで頭を殴られたようだった。
そして其の衝撃に似た何かに、息が詰まった。呼吸がしづらかった。
矢っ張り、此奴は俺の何かを知ってる…ッ
包帯男を睨み、俺は途切れ途切れ息を吸った。
「手前は何者だ?何故、俺の事を知ってる?手前の目的は何だッ!」
荒げた俺の声に、包帯男は表情一つ変えない。
「目的、ね……」
数秒した後、包帯男は持って居た“切符”を口元に寄せた。
「先刻云った通りだけど?」
「っ!」
──月へ行くのだろう?
先刻の此奴の言葉が、もう一度脳に響き渡った。
俺は一気に立ち上がって、走り出す。
そうなのかもしれないと──思ってしまった。
「はぁッ…はぁ……はぁっ…!」
一番前の車両の扉を勢い良く開ける。
窓を開けて、躰を乗り出した。
透明な純水に墨を一滴垂らしたような灰色の空気が、見た目によらず息苦しさを伴う煙となって車内に入って来る。
「…っ」
煤煙が顔に当たらないよう俺は腕を掲げた。
真っ暗な闇の先に光る眩い輝きが、広がっていく。
「────・・・」
呼吸が一瞬止まる。
だが、何方かと云えば、時間が止まったようだった。
目の前に広がった景色に呆然とする。
俺が見たのは、宇宙だった。
どこを見ても視界に広がる闇と静寂。
其処に孤立するのは、自分の存在を叫ぶ星の光だ。
「………」
無限の神秘に、俺は恍惚する。
刹那、少し離れた処に、ソレがあるのに気付いた。
地球から見る琥珀色の満月ではなかった。
何十万粁離れて地球から見える“形”としての月ではなかった。
俺が見たのは──丸く、そして体積があって、衛星として存在する月だった。
「着いたようだね」
後ろから声がする。
振り向くと、其所には包帯男が立っていた。
先刻からする不気味な笑みとは違って、何処か嬉しそうな笑みだ。
「……そうだな…」
汽笛が鳴る。
俺達は────月に着いた。
***
汽車から降りる。
視線を移すと、駅名標には【月】と書かれていた。
未だに、コレが“夢”だと信じ難い。
こんなにも鮮明な“夢”を、中也は見た事がないのだから。
「──却説、無事駅に着いた事だし、観光にでも行くかい?」
何時の間にか汽車から降りていた青年が、機嫌の良い笑顔で云う。
だが中也はそれどころじゃなかった。
「まだ手前は答えてねェだろ」
中也の言葉に、青年はゆっくりと振り返る。
目があった。
「手前は何者だ?」
「──太宰…」
ハジメテ会った時と同じ、儚げな笑顔を青年──太宰はする。
「私の名は太宰治。太宰と呼び給え」
意味が判らない願いに、中也の唇は何故か小さく動いた。
其の事に中也は直ぐに気付き、口を噤む。
そして視線を逸らして、呟くように云った。
「……包帯男」
「名前で呼んでよ」
「……包帯男」
「絶対、呼びずらいだろう!?」
「ンじゃあ包帯野郎…」
「全然変わってない!!」
「チッ…注文が多いンだよ……」
中也が不機嫌そうに頭を掻く。
太宰はふ、と息を吐いた。
そして愁えた表現に、無理やり笑顔をつくって云う。
「“君”には太宰と呼ばれたいのだよ……」
中也が目を見開いた。
然し直ぐに込み上げてきたのは怒りであった。
気付いていた。悟っていた。
太宰が見ているのが、話しているのが、中也ではなく、中原中也だと云う事を。
だからこそ、中也は腹の底から怒りを感じたのだ。
今までも、全員そうだった。
皆が見るのは中也ではなく、その姿である中原中也であった。
中也は、自分が誰か判らない。
「じゃあ、そろそろ観光にでも行こうよ。中也」
鈴のような明るい声色で太宰は云い、中也に手を伸ばす。
其の手を────中也は振り払った。
「俺を其の名で呼ぶなッ!!」
叫ぶように中也が声を荒げる。
急な事に驚き、太宰は思わず伸ばしていた手を引っ込めた。
今まで溜まってきたものが、拳銃の引金が引かれたかのように、吹っ切れた。
「…中也中也中也中也って!…全員して何なンだよ……ッ!!」
悲しみと絶望が混濁したナニかが、中也の瞳を駆け回る。
「何も判ンねェ…誰も判ンねェンだ……中原中也が俺だと云われても……」
俯き乍ら、中也はブツブツと呟く。
「中也…」
「手前は知ってンだろ?」
「えっ?」
太宰が目を見開く。
中也は、引きつった笑顔で訊いた。
「俺は……否、中原中也は──どんな奴だった?」
「ッ──」
光に包まれた、大切に仕舞われていた記憶が、太宰の瞳に映し出される。
「…彼は」
「弾けるような眩しい笑顔が、とても印象的だったよ──」
***
楽しい。
そんな事を思い乍ら、僕達は笑い声をあげる。
中也は幸せそうに、嬉しそうに笑っていた。
数時間前まで感じていた悲しみも孤独も忘れたかのように。
其の事が僕は、嬉しかった。
駅から少し離れた所で、ゴツゴツとした不安定な月面を、僕と中也は走り回る。
楽しいっ!
然しそれは、次の瞬間に消え失せた。
『───ッ!』
中也が唐突に動かなくなった。
先刻までの笑顔も消え、 まるで時間が止まったかのように、只一点を見つめている。
『中也?如何したの?』
僕は中也の顔を覗き込むようにして訊いた。
中也は視線を移さず、目を見開き続けている。
そして少し開いた唇の隙間から溢れ出たのは、予想外の言葉だった。
『なァ、太宰──────何だ、アレ?』
自分の中に湧き上がっていた喜楽が消え失せる。
体温が数度下がったように感じた。
『……』
ゆっくりと、僕は中也が向いている方に視線を移す。
そして、目を見開いた。
黒いナニかが、グネグネと気味悪く動いているのだ。
『──ぁ』
其の瞬間に思い出したのは、森さんの言葉だった。
『夢裡の領域。其の端の端にある、最も干渉が難しい場所に、魘夢は生まれやすいのだよ。そうして魘夢は力を蓄え、夢裡を蝕み、やがて現実にまで介入してくる』
森さんはゆっくりと、記憶に染み付くような柔らかな声で云った。
僕は寝台の上に寝転がり、愛読本を読み乍ら森さんの話を聞いていた。
『現実まで介入してくると、魘夢に蝕まれた人間は精神を一体に保てなくなる。まぁ、そうなる前に魂と人格を守る──無意識につくられた結界によって、魘夢は消滅するけどねぇ』
柔らかな声。
本の頁を捲る音。
ヘアブラシで髪をすく音。
エリスの鼻歌。
『けど、其のもしもが起きた場合に魘夢を消滅させるのが────私達、魘夢祓いの仕事だよ』
不意に視線を感じる。
本を読んだまま、うんともすんとも云わない僕に森さんは視線を移したのだ。
『……太宰君、聞いてる?』
『聞いてますん』
『何方!?』
萎れた苗木のような表情をして、森さんは云った。
僕は溜め息混じりの息を吐く。
『中也の家、遊びに行ってくる』
寝台の上に本を置いて僕は歩き出す。
『今からかい?』
少し顔を曇らせ乍ら、森さんが訊いてきた。
今度は深い溜め息を吐く。
『……云っておくけど』
振り向いた。 森さんとエリスちゃんと目が合う。
『僕は“魘夢祓い”なんてならないからね』
唇をとがせて僕は云った。
そして再び歩き出す。
『うーん……困ったねぇ…』
『君には早く一人前になってもらいたいのに…』
『──ッ!!』
拙い。
僕は森さんから魘夢を消滅させる方法を教えてもらってない…!
一刻も早く汽車に乗って結界の中に入らなくちゃ…ッ!!
『中──』
一緒に逃げようと、中也の方を向いた瞬間。
『──ッ!!?』
ゴボッ…!
魘夢が中也の躰を飲み込んだ。
『中也ッ!!?』
僕は急いで中也の方へと走る。
刹那、黒い水が僕の躰を包み込んだ。
しまった…僕まで魘夢にッ…!
見た目とは違い、其のドロドロとした空間は身動きが取りづらかった。
『中也!中也ッ!!』
もがくように前に進み、僕は沈んでいく中也に手を伸ばす。
中也は気を失っていた。
拙いッ!
中也の魂は夢裡の中央にある。
“夢”を見ると云うのは本来、魂の一部が“夢”の住民として彷徨う事だ。
其の夢裡が描き出す世界は、中央で眠る中原中也によって作られる。
僕達は、夢裡の端に来過ぎた。
魘夢が居るのも当然だろう。
けれど拙いのはそれじゃあない。
いくら魂の一部とはいえ、魘夢に蝕まれれば何が起こるか判らない。
夢裡の均衡が破壊されるか、結界が消える可能性だってある。
そうなったら中央にある中也の魂まで魘夢に侵される。
現実にまで介入されれば、中也の精神が狂い、場合によっては感情が消えてしまう。
それだけは避けるべく、僕は中也に近づく。
駄目だッ、全然届かない…!
中也と僕の距離が開き過ぎていた。
焦りの感情に判断力が鈍くなる。
刹那、視界の隅に何かが映った。
『───ッ』
目を見開く。
ソレは、中也が持っていた“切符”だった。
僕はある事に気付く。
この“切符”を使えば中也を“夢”から覚ます事が可能なのだ。
本来、“切符”は結界の外から出て夢裡の端に行く際の確認として使われる。
だが“切符”だけとは限らない。
確認する依代として、中也の“夢”の世界では“切符”が使われたのだ。
僕は懐から検札鋏を取り出す。
“切符”を再び入鋏する事で、強制的に結界内へ転送──そして“夢”から覚めさせる。
ただ、この方法には代償を伴ってしまうのだ。
それでも、魘夢に魂を蝕まれ、生きた屍になるよりは断然佳い。
検札鋏を持つ手に、僕は力を入れた。
『ごめんね、中也……』
──パチンッ!
“切符”が水に溶けるようにして消える。
転送に成功したのだ。
良かった、コレで中也は……
『ッ……ゴポ…!』
視界が黒に蝕まれていく。
意識が途切れた。
暗闇に、僕は閉じ込められていた。
『──!────!!』
何処からか声が聞こえてくる。
闇に光がともる。
どんどん大きくなっていき、やがて色彩が宿った。
『……ッ…ゔ、』
重い瞼を開く。
何故か頭が痛かった。
『──っ!太宰君!』
刹那、視界に映ったのは、森さんだった。
『……森、さん…?』
僕の声を聞いて安心したのか、森さんはホッと息を吐く。
躰が妙に重かった。
『ていうか太宰君!魘夢の中に入ったでしょ!?危険だってあれほど云ってたのに!』
魘夢…?
目覚めたばかり故に、僕は森さんが云っている事を上手く理解できていなかった。
『どうにか魘夢と太宰君を切り離して、浄化を施したから目を覚ませられたけど、五日も眠って……死にかけてたのだよ君』
『死にかけ…?』
記憶が曖昧だ。
先刻まで僕は何し──
*『ッ!!』*
目を見開く。
脳裏を掠めたのは、赭い髪を靡かせる中也の姿だった。
『森さん!中也はッ!?』
起き上がって、僕は森さんに聞く。
『中也君?急に如何して……』
『ッ…』
僕は寝台から降りて、机の上に置いてあった携帯を手に取る。
急いで中也に掛けた。
『太宰君?どうし』
『静かにしてて森さん!』
『……ハイ』
──プルルル、プルルル
電子音が鳴る度に、僕の鼓動は大きくなっていく。
中也ッ、中也ッ!
早く出て、お願い…!
心の中で何度も願い乍ら、不安に押し潰されるのを耐え乍ら、僕は電子音がきれるのを待つ。
刹那、プツッと言う音と共に電子音がきれ、声が聞こえてきた。
『ぁ、中也…!』
《太宰か、中也に何か用かえ?》
聞こえてきた声の主に、僕は目を見開く。
『ぇ、ッと…姐さん?中也は……』
《…中也は………》
『ッ!真逆、目が覚めてないの!?』
《目は覚めておる。だが────》
《五日前の朝、中也は記憶喪失になった……》
***
「弾けるような眩しい笑顔が、とても印象てきだったよ。でも……」
太宰はゆっくりと瞼を開けた。
視界に入るのは、全てを吸い込むような青い光を瞳に宿す青年。
「でも……何だ?」
青年──中也は、太宰の答えに縋り付く気持ちで訊いた。
其の答えに、まるで自分の全てが掛かっているかのように。
「……でも──否、何でもない」
「は…?」
予想外の答えに、中也は呆気に取られる。目を見開いた。
押し殺すような呻き声を小さくあげ、中也は叫ぶように声を荒げて云う。
「何だよ“何でもない”って!手前、全部判ってンだろ!なのに何で云わねェンだよ!」
太宰の表情から、嬉しそうな笑顔も、悪戯っ子のような笑顔も消えていた。
只々、哀愁がまとわりついたような雰囲気で、静かな視線を中也に送っていた。
「云えよ!そうすれば俺が!中原中也でも何でもない存在って判ンのに!!そうすれば!そうすれば…ッ!」
俺が人間じゃないって…ッ
自分が何者か判らない。
それなのに周りの人間達は、自分を中原中也で呼ぶ。
中也は何も判らないのだ。
この愛を、本当に自分が受けて佳いものなのかと。
其の不安に押しつぶされる生活を、中也は今まで耐えてきた。
中也はずっと────“答え”を待っている。
「……」
太宰が息を吸った。
「君は中原中也だよ」
中也が目を見開く。
「君は中原中也。そして人間だ」
太宰の中には後悔が渦巻いていた。
だが、ああしなければ中也の精神は確実に死んでいた。
これが適切な判断とも云える。
「誰でもない。中原中也は君だ。失ってなんかいないよ、消えてなんかいない」
包み込むように、ヒビが入った硝子に優しく触れるように、太宰は中也をゆっくりと抱きしめた。
温もりが中也に伝わる。
「只──忘れただけだ」
中也は数秒目を丸くした後、瞼を固く閉じて、息を吐いた。
其の後、太宰と中也は月面を歩いた。
クレーターの上を滑ったり、鬼ごっこをした。
楽しい。
そんな感情が湧き上がる。
太宰とって、全てが懐かしく感じた。
かえって中也は、初めて来たにも関わらず、何故か既視感を感じた。
「ン?なァ包帯野郎、あのクレーターってアポロニウスじゃねェか?」
中也が指差した方に太宰は視線を移す。
二人は確認する為にクレーターに近付いた。
「おや、確かにアポロニウスだねぇ。底が溶岩で覆われてるもの」
ポケットに手を突っ込み乍ら云う太宰の横で、中也はクレーターを凝視していた。
くっきりと目を開き、何処か恍惚とした表情で見ている。
「……やっぱり、月が好きなのかい?」
其の言葉に、中也は視線を移して太宰の方を向いた。
「好き…?」
「嗚呼、じゃなきゃあクレーターの名前まで知っていないだろう?」
中也は俯く。
確かにそうだ、と思ったからだ。
ある日突然、中也は記憶を失った。
周りの人間は皆、中原中也と云う人間を中也に重ねる。
友人が旅行帰りの土産として中也に渡したのは、満月のキーホルダー。
枕元の横に置いてあるのは満月のクッション。
天体に関する図鑑が何冊も本棚に仕舞われている。
部屋の隅には望遠鏡が。
それを見た中也はなんとなく、中原中也は宇宙や夜空に興味があったのではないかと思った。
その所為か、何時の間にか中也は、宇宙や夜空について詳しくなっていた。
中也も、同じく中原中也も、月を特に好いている。
本人はソレに気付かない。
「ほら、他のクレーターも見に行こう?」
太宰はそう云って振り帰った。
「……おう」
先刻までより少し明るい声色で中也は返事をする。
口元には小さな喜びが浮かんでいた。
中也は太宰の隣を歩き出す。
楽しい。
「あ、そうだ。中也って」
───ゴポ…ッ
五年前。
忘れられない後悔を感じた日。
それと同じ恐怖が、今──太宰を襲った。
「ッ!」
太宰は直ぐに視線を移す。
そして漸く気付いた。
あの悪夢が、再び近くに来ていた事に。
「オイ包帯野郎!何だアレ!」
中也は指を指す。
“夢”を蝕み、夢裡を狂わせる存在────魘夢が、其処にいた。
あの時よりデカい…
太宰は中也を庇うように腕を掲げる。
「久しぶりの方が正しいかな?よく此処まで大きくなれたねぇ」
其の言葉に魘夢は返事をしなかった。
太宰は冷徹な視線で魘夢を見る。
だが、実際には魘夢に口も存在しない。
只そんな気がしたのだ。
殺意と言い換えても佳い程の──僧愛に満ちた魘夢からの視線を。
刹那──
──ゾッ!!
「ッ!中也!!」
太宰は中也の名を叫びながら、中也を引っ張って横に飛ぶ。
轟音が響いた。
避けた魘夢の攻撃が月面に窪地を作ったのだ。
魘夢に触れた部分から、闇がジワジワと広がっている。
「オイ、これヤベェだろ」
余裕そうにポケットに手を突っ込み、魘夢を睨み乍ら、中也は太宰に訊く。
其の瞳には鋭い光が宿っていた。
まるで腹を空かせた獣みたいだ…。
太宰はそんな事を思い乍ら、中也を見た。
「つーかアレ何だ?」
「……アレは魘夢。其の名の通り、悪夢の原因だよ」
魘夢に視線を移して太宰は云う。
「悪夢の原因?ンなのが好きに暴れてンのかよ」
「まぁ、生まれるのがこの辺りだからね。只──」
「此処まで力を蓄えているのは初めてだ」
「ヤベェのか?」
中也の問いに、太宰は小さく笑みを浮かべる。
そして瞳に光が宿った。
中也と同じ。
敵を喰らう獣の瞳。
「いや?そんな事はないよ」
魘夢は全てを蝕む。
ソレは先刻のを見た為、中也も判っていた。
だからこそ、この状況が危険なのが理解できる。
刹那、魘夢の攻撃が太宰と中也へ向かってきた。
「っ!」
危ねェ…ッ!
中也は攻撃を躱すべく、太宰の腕を引っ張ろうと手を伸ばした瞬間──
「一つ教えてあげよう中也」
前に出した太宰の掌に、 魘夢が触れる。
唐突な青白い光に中也は思わず腕を掲げ、目を細めた。
「私は“魘夢祓い”を生業としているのだよ」
太宰に触れた魘夢が霧消する。
「なっ…!」
中也はその光景に目を見開いた。
ふふっ、と太宰が笑みをこぼす。
然し其の背後で、魘夢の攻撃が再び繰り出された。
「ッ!オイ!次がくるぞ!」
中也が声をあらげるが、太宰の表情に不安や焦りは一切含まれていない。
太宰に触れた魘夢が先刻と同じように雲散霧消した。
「な…何なンだ、ソレ……」
目を丸くし乍ら訊く中也に、太宰は微笑まじりの声で云った。
「コレが私の能力だよ。と云っても、夢裡の中でしか使えないし。何より──」
太宰は視線を移して魘夢の方を見る。
消えた部分が再生されていた。
「魘夢は“核”を破壊しない限り消す事ができない」
「攻撃が殆ど通用しねェって事か?」
「そうなるね」
「ンじゃあ如何やって倒すンだ?逃げンのか?」
中也は鋭い視線を太宰におくる。
それをあしらうような軽い嘲笑を太宰はした。
「真逆?ちゃんと方法はある」
太宰は右手の手の親指と人差し指を立てて、銃のような形にして魘夢に向ける。
「内部から核を破壊するのだよ」
「は!?手前、アレの中入るのかよ!?」
「そうだよ。じゃないと──」
魘夢の攻撃に太宰は触れた。
「祓えないからね」
霧消する。
太宰の能力は魘夢にとって天敵的な能力だが、核を破壊しない限り終わりはない。
それ故に、太宰は内部に入って核を破壊するのだ。
水のようにドロドロした外見だが、魘夢にも内部はある。
太宰は其処に入ろうとしている。
魘夢に飲み込まれるのでない。
「と云っても、あの中はとても広い。核を探すのにも手間もかかるし、此処まで大規模な力をもっているともなると内部でも攻撃される可能性がある」
太宰は右手を其のままの形で中也に向けた。
トンッと、心臓の部分を肌の上から指でつく。
「それでも此処よりは大分マシだ」
悪戯っ子のような笑みでも不気味な笑みでも、楽しそうな笑みでもない。
面白い事を企てた時の子供の笑み。
好戦的な笑みだ。
「ねぇ中也、君は──自分の魘夢と向き合う気はあるかい?」
太宰の言葉に、中也も同じように好戦的な笑みを浮かべる。
「……あるに決まってンだろ。それに、此処で逃げるなンて俺らしくねェ」
「ふふっ、矢っ張り君不良だろう?」
「ッ!!いっ、今はいいだろ!」
中也は赤面し乍ら、声を荒げた。
其の様子に太宰はクスクスと笑う。
「…それじゃあ、行こうか」
そう云って太宰は右手を前に出した。
魘夢が二人を飲み込もうと、口を開くかのように、襲い掛かるかのように近付く。
然し魘夢は、太宰に触れて消える事もなく、二人を飲み込む事もなかった。
太宰が右手に持っている“札”の文字が仄かに光る。
抱えきれない程の暗い感情と、深い僧愛が渦巻く闇が、太宰と中也の視界に広がった。
***
「ッ…」
中也はゆっくりと瞼を開ける。
辺り一面が闇だった。
「オイ包帯野郎、本当に“核”ってやつがあるのか?」
「嗚呼、この何処かにね」
そう云って太宰は歩き出す。
其の横を、中也も歩いた。
足音のみが響き渡る。
自分たち以外、誰もいなかった。
刹那──
『ゔっ……うぅ…ヒ、クッ……うっ』
子供の泣き声が、何処からか聞こえてきた。
「なァ、子供の泣き声聞こえねェか?」
中也の言葉に太宰は
「そうだね、如何やら“核”は直ぐ近くにあるようだ」
と云った。
二人は辺りを見渡す。
少しの緊張感が太宰と中也を包み込んだ。
不意に中也が気付く。
其処に一人の子供がしゃがみ乍ら泣いている事に。
「ッ!包帯野郎!!」
中也の声に振り向き、太宰も漸く気付いた。
そして目を見開く。
其の子供に、太宰は見覚えがあったのだ。
『ゔぅ、うっ……何で…ッ、俺のこと…置いてったンだよ……』
子供の言葉に太宰は顔を歪ませた。
固く唇を閉ざす。
一方、中也は目を見開いて、泣きじゃくる子供を見ていた。
その容姿に、見覚えがあったから。
然し其れは太宰のような過去の記憶から掘り起こされた“見覚え”ではない。
其の子供は────中也とそっくりだった。
直感で判る。
あの子供の正体が。
「ッ……ぁ…」
自然と足が動き、一歩前へ中也が踏み出した其の瞬間──
──ブワッ!!
地面から振動が伝わったかと思うと、視界に入ってきたのは浮かぶ何百個もの魘夢の尖鋭だった。
「「──ッ!!」」
中也と太宰は目を見開く。
肌で感じ取った。
動かなければ死ぬ────と。
二人は後ろに下がり、攻撃を避け乍ら走る。
「オイ包帯野郎!コレ如何すンだよ!」
「内部からも攻撃されるかもしれないって私云ってたでしょう!」
逃げ回るのと同時に、太宰と中也は口喧嘩を繰り広げる。
然し魘夢の攻撃は一向に止まらない。
「否、それ知った上で来たンだから、其れ相応の方法とかあるンじゃねェのか!?」
其の言葉に太宰はぷいっと顔を背けた。
中也が青ざめる。
「真逆ッ、何も考えてねェのか!!?」
今直ぐに殴り飛ばしたい気持ちを抑え込み乍ら、中也は太宰に訊いた。
太宰は口元だけ嘲る。
「此処までとは予想外だったのだよ」
「オ゙イ!?」
「冗談」クスクスと笑って、太宰は云った。
後ろに振り向き、手を伸ばす。
二人を追いかけてきた攻撃は、太宰に触れた事で霧消した。
太宰と中也は立ち止まる。
「ンじゃあ、何か作戦あるンだろ?とっとと云え 」
手をポケットに突っ込み、溜め息混じりの息を吐き乍ら、太宰に訊いた。
太宰は一度、中也に視線を移し、そして逸らした後、空中に視線を漂わせた後に、ゆっくりと息を吸って口を開く。
「……このまま逃げ続け乍ら魘夢の攻撃を無効化する。そして“核”を見つけ、即座に破壊」
「でもこれじゃあ、あまりにも時間がかかりすぎるのだよ。いくら何でも此のまま長く此処に居ると、魘夢に飲み込まれる。私が触れる以外の方法で敵の攻撃を無効化し、“核”を破壊する必要がある」
其の言葉に、中也は静かな視線を太宰に向けた。
「其の方法は?」
太宰は口元に薄い笑みを浮かべる。
「君だよ、中也」
中也が目を見開く。
予想外の答えに驚いたからだ。
何故だ?と中也が訊こうとするのを予想したのか、太宰は其の理由を話し始める。
「此処は私と君の“夢”が繋がった場所。だが、それは表面上。正しく云えば此処は君の“夢”の中だ」
「ンなの手前が先刻、俺に説明してただろ。其れが何になるってンだ?」
何処か勿体ぶるように話す太宰に中也は嫌気が刺し、睨み乍ら聞いた。
其れに太宰は人差し指を立て、中也の口元に寄せる。
躰を中也に近付け、小さな声でしーっと云った。
自分の心音が急に高鳴った事に、中也は目を丸くする。
「此処は君でも干渉がしずらいだけ。でも君の“夢”の中だ」
太宰が小さく微笑む。
「ねぇ中也、君は────自分の“夢”の中で、害虫に好きに暴れられるのを黙って見ていられる傾向?」
──ドクンッ
あぁ、そう云う事か…。
中也の口元に、先刻と同じ好戦的な笑みが浮かぶ。
俺を莫迦にするだけじゃなく、試そうとしやがってるな、此奴……。
口元に寄せられていた太宰の手を握って、離し乍ら中也は云った。
「ンな訳ねェだろ。いいぜ、俺が足止めしといてやる」
「流石だねぇ、君ならそう云うと思ったよ」
クスクスと笑う太宰に、中也は右手を握りしめ、太宰の胸部にトンッと当てる。
「手前の方こそ、ちゃんと“核”破壊しろよ。太宰」
予想外の中也の発言に、太宰は目を丸くした。
そして嬉しそうに微笑む。
「嗚呼、任せなよ。中也」
そう云って、太宰は中也に背中を預けた。
***
暗闇を進んでいく。
暫くすると、再び子供の泣き声が聞こえてきた。
まるで何かを守るように、ソレは辺り一面を囲んでいる。
固く、そして茨の道のように魘夢で造られた棘が張り巡らされていた。
太宰はソレに、ゆっくりとした動作で触れる。
青白い光と爽やかな風。
全てが無に戻る。
「……」
視線を奥に移すと、其処には独りの少年が太宰に背を向けてしゃがみ込んでいた。
泣き声と鼻を啜る音。
悲しみと孤独を帯びた其の小さな背中に、太宰は今直ぐにでも温もりを分け与えたかった。
太宰は、一歩前に出る。
『ぅ、ゔぅ……っ…う』
子供は嗚咽混じりに涙を流していた。
少しづつ太宰は近付き、あと数米の所まで来て立ち止まる。
「──中也」
直ぐ床に落ちるような声に、優しさを包み込んで太宰は其の名を呼んだ。
子供の躰が、ピクッと反応する。
『っ……だ…ざい?』
愛おしく感じる程に透明な涙を頬に伝わせながら、子供は振り向く。
子供は──中也と同じ顔をしていた。
そして其の子供の正体は、中也が5年間探し求めていた、失った記憶だった。
5年前。
中原中也の魂の一部を、魘夢は侵蝕していた。このままでは夢裡全体が魘夢によって喰らい侵されてしまう。
それを防ぎ、中也を救う為に、太宰は“切符”に再び入鋏し、中也を強制的に“夢”から覚めさせた。
それによって、其の時蝕まれていた中也の魂の一部が、本体である中原中也の魂と切断させたのだ。
中也の生命は救われたが、蝕まれた中也の魂の一部が、其のまま魘夢に飲み込まれた。
5年前からこの日まで、太宰は深い後悔を感じながら生きてきた。
全ては中也を救う為。
『…ッ、なン…でッ、俺のこと置いてったンだよ!また会おうって……また遊ぼうって云ってただろ!なのに何で…ッ』
「うん…うん……ご免」
中也の言葉ひとつひとつに、太宰は頷き乍ら云った。
そして、一歩づつ近付いて行く。
『ずっと…ッぅ……俺のそばに居てくれるって…約束、して……くれただろ…』
溢れ出る涙をゴシゴシと強く拭って中也は云う。
僧愛。
けれども、中也は殆ど憎しみを抱いていなかった。
感じていたのは、もう自分の隣に居てくれない孤独感と、突き放される恐怖。
この5年間。
中也は何を見ていたのだろう。
何を感じ、何を叫び、苦しんできたのだろう。
強制的に本体となる魂との切断によって、中也の記憶は曖昧だったが、それにつけ込んだのは魘夢だった。
一瞬でも負の感情が湧き出れば、其れを増幅させて原動力にする。
地獄的な悪循環。
中也は其処に独りで居た。
自分の所為で──と云う後悔が太宰を襲う。
歯を食い縛り、太宰は走り出した。 中也の小さな躰を優しく包み込み、そして強く抱きしめる。
「ご免ッ…ごめん……でも大丈夫だよ中也。僕はもう何処にも行かない。君の側に居る。だから──」
太宰の言葉に中也は涙を流した。
温もりが、蓄積され続けた深い悲しみを溶かしていく。
「だから────もう大丈夫だよ」
『うん…っ』
中也の背中に、太宰は魘夢の内部に入る時に使用した札を貼る。
呟くような声で呪文を唱えた。
全ての苦しみから解放する呪文。
苦からの救済であり、ソレは──生への導きでもあった。
中也の躰が眩い光に包まれる。
柔らかな笑顔を残して、太宰の目の前から中也は消えた。
***
初めて太宰に会ったのは、俺が8歳の時だった。
『久しぶりだねぇ、紅葉君』
『………前もって連絡くらい入れられなかったのかえ?』
『連絡したよ。昨夜』
柔らかな笑顔でそう云った男の人の側には、あちこちに包帯を巻いてる奴がいる。
赤いカバーに丁寧に畳まれた本を持って誰とも視線を合わせていなかった。
此奴、何で包帯なんか巻いてンだ…
怪我か…?真逆、ぎゃくたい…?
流れ出る汗を堪えながら、俺は“森鷗外”と名乗った男の人を見る。
昨日、姐さんから知り合いが隣に引っ越して来ると聞いていた。それが、きっとこの人の事だと思う。
姐さんは、近所の人でもそうそう感情を表に出さない。
でもこの人と話している時は、姐さんの感情がコロコロと変わっていた。
それは多分、心から信頼してる証。
この人は悪い人じゃねェのか…?
俺はまた包帯を巻いた彼奴に視線を戻した。
けれど此奴は変わらず誰にも目線を合わせていない。
怪我…だよな?じゃなきゃあ包帯なンて付けねェし……。
やっぱり、ぎゃくたい…?
『ーーーーー。中也、自己紹介を…』
姐さんが俺の名を呼んだ瞬間、俺の躰は自然と動いていて、気付いたら彼奴の手を掴んで走り出していた。
後ろから聞こえて来る姐さんの声が、段々と遠のいて行った。
『はぁっ……はぁ…はッ……はぁ…』
俺は彼奴の手を強く握りながら、引っ張るようなかたちで走り続ける。
『ねぇっ!何処行くの中也君!ねぇってば!』
息が荒い。
少し苦しい。
音が上手く聞こえない。
お腹が痛い。
でも俺は、彼奴と走っていた。
『はぁっ…はぁ…ッ』
何処に向かって走っているのか分からない。
只、此奴をナニかから遠ざけようと俺は必死だった。
『はっ……はぁ…中也くッ…止まっ、て──ッ!ゲホッ!ゲホッ!!』
急に耳奥に響いてきた彼奴の咳に俺の足は止まる。
『ッ!悪ぃ!大丈夫か!?』
俺は振り返って、口元に手を寄せて俯く此奴に駆け寄った。
刹那──
バキッ!
『い゙ッ…⁉︎』
頰に衝撃が走る。
ヒリヒリと痛んで赤くなった頬をさすり乍ら、俺は視線を移した。
本を片手に、彼奴が俺を睨む。
『は…ッ?手前せき…』
『あんなの本当にせきしてるわけないじゃん』
『はぁ!?ウソかよ!つーか何でなぐった!?』
『こうしなきゃ君、止まらなかったし。殴ったのはずっと僕の事無視してたからだよ!』
『此方は手前のこと心配したンだぞ!』
俺の言葉に、『心配…?』と呟き乍ら此奴は首を傾げた。
『そうだよ!』
そう云い乍ら、俺は此奴の手を掴んで袖を勢い良くまくる。
真っ白な包帯が顕になった。
『この包帯何だよ?手前…怪我、っていうか……ぎゃくたい、されてンじゃねェのか?』
此奴は目を見開いて、口先から小さく声をこぼす。
そして、急に笑い出した。
『──ふふ、あははっ!』
訳が判らず呆然とする俺に対して、此奴の笑いは止まらない。
恥ずかしくなり、顔が熱くなっていくのを俺は感じた。
『んふふっ、これ怪我じゃあないよ。中也君って予想以上に可愛い間違いするんだね』
『かわ…ッ!?』
くそ、まただ。
此奴と居ると変に心臓の音がうるせぇ…。
『……怪我じゃねェのに、何で包帯なんか巻いてンだよ…』
俺の問いに、彼奴の笑いが消えた。
腹を抱えて曲がっていた背筋をぴんっと伸ばし、何処か儚げな笑みを其奴はする。
『…秘密……』
人差し指を口元に近付けて云った。
心臓の音がうるさい。
何だよ、こっちは心配してやってたのに…。
『ぎゃ、ぎゃくたいじゃねェなら、いい……。ここまで無理やり連れて来て…悪かった』
『別にいいよ、少し楽しかったし』
そう言って彼奴は、さっきの儚げな笑顔から、俺が知ってる多分、普通の笑顔に戻った。
日光が其奴の笑みを照らす。
絶対、こっちの笑顔の方が、似合ってるだろ……。
『ほら中也君。森さん達の所戻ろう』
『ぉ、おう…』
俺は立ち上がる。
刹那、ある事に気付いた。
『ん?俺、手前に名前教えてたか?』
首を傾げ乍ら、其奴に聞く。
『先刻、紅葉さんが君の名前呼んでたでしょう?“中也”って……』
その言葉を聞くと同時に、あの時の記憶を思い出す。
確かに姐さんは俺の名前を呼んでいた。
ただ、此奴を助けるのに夢中でほとんど聞こえていない状態だったのだ。
『凄ェなお前。あんな一瞬の憶えてたのか……』
俺が純粋に褒めた事に驚いたのか、其奴は目を丸くした後、少し嬉しそうに微笑んだ。
何処か、あまり褒められ慣れていないような感じがした。
『あ、そうだ!お前の名前はなんて云うんだ?』
『えっ…』
『だから名前!まだ聞いてなかっただろ?』
『ぁ、うん』
俺はジッと見つめ乍ら、此奴が名前を云うのを待つ。
すると、ボソッと何か聞こえた。
だが上手く聞き取れず、首を傾げ乍ら「ん?」と聞く。
それに彼奴は、少し頬を染めて云った。
『……太宰、治…』
その名を、俺は何回か心の中で呟く。
『…ぃ、だざい…か。良い名前だな!』
『え、そう?初めて言われたけど…』
『そうなのか? 』
俺の言葉に太宰はコクリと頷いた。
太宰に手を伸ばす。
太宰はキョトンっと目を丸くした後、小さく笑って俺の手を握った。
『よろしくな、太宰!』
『うん、よろしくね中也』
これが────俺の太宰の出会いだった。
***
太宰と仲良くなってから分かったことがあった。
『中也、早く行くよ』
普段より高い声で、太宰は楽しそうに俺の手を引っ張った。
俺達は外に出る。
一つ一つが光を凝固させたように輝く星々と、その中で異端的な存在で、けれども柔らかな光を反射する月があった。
『わぁっ…!』
キラキラと目を輝かせて太宰は夜空を見上げる。
太宰は夜の星空が好きだった。
俺は別に好きでも嫌いでもなかったが、月に照らされた太宰の笑顔を見るのが好きだった。
『ねぇ中也は?君は何が好き?』
唐突に聞かれ、俺は躰を揺らす。
『俺は……』
夜空を見渡す。太宰に視線を移した。
恍惚する太宰を月が照らしている。とても綺麗で、それで……
──好き。
『…え?月?』
太宰のその言葉に、俺は反射的に自分の口を塞ぐ。
声に出してたか…!?
『中也、月が好きなんだね』
そう言って太宰は嬉しそうに笑った。
俺は目を丸くする。
言い逃れるためにも「そうだ」と同調した。
別に、月は好きじゃない。
そう心の中で自分に云い聞かせた。心臓の音がひどくうるさかった。
***
それから数年。俺たちは近くの中学校に入学した。
入学式を終えてまだ数日しか経っていないにも関わらず、急遽、太宰の引越しが決まった。
森さんの仕事の影響らしい。
元々、此処に引っ越してきたのもそうなのだという。
それでも俺は、その事実を受け入れるのを酷く拒んだ。
「……ねぇ、中也…」
態と数米あけて歩く俺に太宰が声をかけてきた。
しかし其れを俺は無視して歩き続ける。
モヤモヤとした暗い感情。
それがずっと喉元にあって気持ち悪かった。
「…中也。ねぇ、聞こえてるでしょ?」
また俺は無視する。
少しの沈黙が広がった後、太宰は口を開いた。
「まだ、怒ってるのかい?」
顔がカッと熱くなる。頭に血が上ったような感覚だった。
ただの八つ当たり。
怒っても貶しても何も変わらない。
其れを判ってい乍ら、離れていく太宰を俺は許せなかったのだ。
「判ってるなら聞くなよ!何でだよ!何で、…ッ!」
鼻の奥がツンとしたかと思うと、瞳の奥からじわじわと何かが込み上げてくる。
視界がぼやけた。
ぁ、れ?俺……。
其れを涙だと認めるのに、羞恥心が湧いた。
グッと歯を食いしばって俯く。
「だって、手前が…急に転校するなんて、云う…ッから……」
「…うん…うん……」
太宰は否定せずに、ゆっくりと俺に近付いた。
柔らかな温かさと優しさが、俺を包み込む。
「うん…ごめん、ごめんね中也…」
「──ッ」
俺は太宰の襯衣を握りしめた。
***
太宰が引っ越す数日前。
俺たちは久しぶりに一緒に寝た。
「何だか少し懐かしく感じるね」
夜。俺の部屋の床に敷かれた布団に横になった太宰が云った。
確かに、小5からは遊ぶだけで一緒に寝る事は少なくなったからな…。
「…そうだな」
俺は太宰がいる反対側の窓の方を向いて、呟くように云う。
「僕が引っ越した後……中也、誕生日だったよね?」
其の問いに、俺は返事をしなかった。 目を瞑って、いっそ此れが夢ならと願っていた。
「何か、欲しい物ない?」
その言葉に、喜びは感じなかった。プレゼントを受け取ってしまったら、本当に最後になると思ったからだ。
俺は太宰の方へ躰の向きを変える。丸みを帯びた栗色の瞳に自分が映り込んだ。
眉を少し潜めて、無理に笑顔を作ったような作り物の顔。酷い顔だ。
息を吸って、俺云った。
「月」
「えっ」
「月に行ってみたい」
その言葉に、太宰は目を丸くしていた。
月に行きたいなんて、莫迦な話だ。ロケットがあるわけでもないのに。ありえない。できるわけが無い。無理な願い。でも、それでいい。
太宰の事だ、俺のどんな願いでも叶えようとするだろう。
なァ、太宰。ここにいろよ。ずっと楽しかっただろ。どこにも行くなよ。
頼むから────
「いいよっ!」
輝くような笑顔で太宰は言った。
「は…?」
「月に行きたいのだろう?勿論できるさ」
嬉しそうに、鈴がころころと転がるような明るい声で太宰は云う。
「月に行けンのか?本当に?」
俺の言葉に太宰は頷いた。
期待を裏切られた──ということは、こういう時に使うのだろうか。握りしめた手から嫌な汗が出てくる。
焦り、不安、嫌な感情が押し寄せる。そんな俺とは反対に、太宰は嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
そして、云った。
「一緒に行こうよ、月旅行!」
***
一週間後。太宰が引っ越す当日。
俺と姐さんは見送りに家の前までやってきた。
「お主は来る時も出る時も毎度毎度急じゃのう」
「あはは、次からは連絡するよ」
姐さんの言葉に、森さんは苦笑いしながら云った。
次なんて、本当にあるのか…?
俺は太宰の方へ向く。
昨日の夜、泣きつかれて寝るまで泣き、目元を赤く腫らした俺とは違い、太宰は一週間前と同じような嬉しそうな笑顔をしていた。
「…ちょっと中也、若しかして君泣いたの?」
「……うるせェ…」
この年になってあんなにバカみたいに泣くなんて、と自分でも思う。
太宰は俺の頬を少し撫でたあと、「大丈夫だよ」と優しく云った。
気付くと手に何かを握っていた。少し新しい、硬めの紙。
手の力を緩めて見て、俺は目を見開いた。
「──“切符”…?」
切符には【月行き】と書かれている。
「そう、この切符で月に行けるよ」
「……お前は?」
「勿論、僕も行くよ」
そう言って太宰は俺と同じ切符を手に持ってヒラヒラと見せてくる。森さんと姐さんには内緒だよ、と口元に人差し指を寄せて太宰は云った。
「今日寝るときに枕元にこれを置いて、そうしたら月に行ける」
なんだよそれ。
そんな事、本当に起こるはずないだろ。
俺はうつむきながら手に持つ切符を握りしめる。
でも
「ねぇ、中也」
太宰の声が耳に響いた。惹きつけられるように、顔を上げる。目があった。
「楽しみだね!月旅行!」
でも──こいつが、こう言うから。
俺は太宰に笑顔を見せる。
「あぁ…!」
「また後でね!中也!」
太宰はそう言って手を振った。まるで、また少し買い物に出かけるかのように車に乗り込む。
けれどもう、戻ってこない。
一緒に月旅行なんて、できるはずないのだ。彼奴なりの、優しい嘘。
「……またな、太宰」
その日の夜。俺は太宰に言われた通り、枕の下に切符を置いた。
ありえないとは知っていても、この切符が俺と太宰を繋ぐ唯一の架け橋だと思ったからだ。
ゆっくりと目を閉じる。
刹那、春を包んだ柔らかな風が、頬をなぞった。
目を開けると──俺は駅にいた。
「……は?」
脳の処理が遅れる。
どういうことだ?先刻まで俺、寝てて──
「ちゅーやぁーー!!!」
何度も耳にした彼奴の声が聞こえてくる。
汽笛が鳴り響く。
振り向くと、汽車の窓から顔を出す太宰がいた。
駅に止まるなり、太宰は汽車から降りて俺の前に走ってきた。現実が受け止めきれずに混乱している俺を横目に、太宰は云った。
「それでは切符を拝見します〜!」
そう云って、いつの間にか手に持っていた切符に太宰は持っていた検札鋏で、入鋏する。
「ぉ、オイ…太宰……」
「ん?」
太宰はコテンと首を傾げて、なんだい?と聞き返してくる。目の前に、太宰がいる。
「……本当に太宰か?」
その言葉に、太宰は笑い出した。
「ふふっ、私に決まってるじゃないか…笑笑」
「いや、てっきり夢かと……」
俺の言葉に、太宰の笑顔がスッと消える。そして少し真面目な顔をした。
「まぁ、あながち間違いではないよ」
太宰の意味の分からない発言に、俺の頭には疑問符が浮かび上がる。
そんな俺を置いて、太宰は俺の手を引っ張った。
「ほら、行くんだろう?月旅行」
楽しそうな太宰の表情につられて、口元が綻ぶ。
「──あぁ!行くに決まってンだろっ…!」
***
先刻まで中也を攻撃していた魘夢は水のように溶けて消えた。それは、太宰が魘夢の核を破壊したことを意味する。
「……」
中也は地面に座りながら天を仰いでいる。視界には満点の星空が見えた。
地球から見ても、月から見ても、星は変わらず輝き続けている。
眩い光と共に、記憶は溢れ出した。
「──綺麗だなァ」
そう言って中也は目を細めた。
ずっと探し求めていた記憶を、答えを、中也は漸く見つけたのだ。
ふと、後ろから歩いてくる誰かが、中也の名を呼んだ。後ろへ振り向く。
「核は無事破壊した。怪我はないかい?」
栗色の蓬髪に、くっきりとした顔立ち。あの頃よりずっと背が伸びた。それでも、変わらないものはある。
「大丈夫だ」
中也の言葉に太宰は、良かった、と口にする。
懐かしいと感じることはなかった。先程まで側にいたのだから。
此奴の云う通り、どうやら俺は人間だったようだ。ただ少しの間、記憶を忘れただけの、ただの人間。
「なァ、太宰」
ゆっくりと立ち上がって、中也は太宰の方を見る。栗色の瞳に自分の姿が映り込んだ。今度はあんな酷い顔をしていない。胸のつかえが降りたような、晴れた表情をしている。
「──おかえり」
その言葉に、太宰は目を見開いた。そして嬉しそうに目を細める。
「ただいま、中也」
手を広げた中也に太宰は抱擁した。
***
汽車に乗って、中也達は下の駅へ向かった。
扉が開き、中也は汽車から降りる。
「近いうちに、また会いに行くよ」
後ろから聞こえたその声に、中也は振り向いた。太宰が柔らかく微笑んでいる。
嬉しそうに、中也は笑った。
「あぁ、待ってる」
***
数年後──。
「いやぁ、まさか君が魘夢祓いになるなんてね」
「意外とこの仕事が性に合ってンだよ」
「依頼料だけは高いからね」
ガタゴトと揺れる汽車の中で、二人の車掌が会話をしていた。
「そもそも依頼数が少ねェしな」
「仕方がないよ、基本的に依頼主は子供だからね」
「夢裡を扱いかれねェからだったか?」
「そう、だから子供は悪夢を見やすい」
実際、今日の依頼も子供だしね、と太宰は付け加える。
駅が見えてきた。
汽笛が鳴り響き、汽車が止まる。
「さぁて、今日の行き先はどこだろうねぇ」
太宰は持っていた検札鋏を器用にクルクルと回しながら余裕そうに云った。
「油断して怪我しても知らねェからな」
そう言うと、横から「ひど〜い」としおれた声が聞こえてくる。今更ながら、コイツが相棒と考えたくない。
汽車の扉が開く。 白髪の子供が眼の前で経っていた。 太宰と中也を見て、目を見開いている。
中也は制帽を被り直した。
太宰は少年と視線を合わせて、手を差し伸ばし、そして云った。
「それでは、切符を拝見いたします」
[あとがき]
こんにちは、こんばんは。スイ星です。
こちらは元々下書きにあった読み切りとなります。八割ほど書けており、残りの二割をどうにか思い出して書きました。そのため最後の方は読みにくいと思います。
ここまで二万五千文字。ちょっと頭おかしくなる文字数でした。
この作品は完全な捏造です。捏造120%です。
恐らく違和感や解釈違い等あると思いますが、優しい目で見てください。コメント等に書いて頂ければ修正します。
それでは、ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう。