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聖杯
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第十九話 無窮剣界と返事の庭
朝は、静かだった。
それは穏やかな静けさではない。
嵐の前の静けさでも、戦いの前の張り詰めた沈黙でもなかった。
もっと深い。
声が生まれる前の静けさ。
名前が呼ばれる前の静けさ。
誰かへ返事をしようとする、その一瞬前にある空白。
遠坂衛二は、自室の窓辺に立っていた。
冬木の街は、いつも通り朝を迎えている。
通学路を歩く学生たち。
駅へ急ぐ会社員。
店のシャッターを開ける商店街の人々。
川沿いを散歩する老人。
小さな子どもに手を振る母親。
世界は普通に動いている。
けれど今日、衛二たちはその普通の底へ行く。
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥。
黒い丘のさらに奥。
沈黙冠の核。
すべての返事を失った者のみ、入れ。
その門の向こうへ。
扉が叩かれた。
「エイジ」
アストルフォの声。
衛二の胸に、温かい光が灯る。
昨日までは、名前が隠され、声が奪われ、宛先が消えた。
それでもこの声は、今ここに届いている。
「ああ。起きてる」
「入っていい?」
「いいよ」
扉が開く。
アストルフォが入ってきた。
桃色の髪。
明るい瞳。
しかし今日は、その瞳の奥に緊張がある。
恋人になって数日。
まだ、その名前には照れが残っている。
けれど今日、その照れよりも強く、互いを失いたくない恐怖と、それでも一緒に行く覚悟があった。
「おはよう、エイジ」
「おはよう、アストルフォ」
二人は名前を呼び合った。
それだけで、少し呼吸が楽になる。
アストルフォは衛二の前まで来ると、手を差し出した。
「手、握っていい?」
「ああ」
衛二はその手を取った。
強すぎず。
弱すぎず。
いつもの力加減。
「今日の手は?」
アストルフォが聞く。
「怖い」
衛二は正直に答えた。
「でも、逃げてない」
アストルフォは頷いた。
「ボクも怖い。でも、逃げてない」
「ああ」
「今日、最後の前だね」
「たぶん」
「第十九話って感じ」
アストルフォがぽつりと言った。
衛二は思わず笑いそうになった。
「何だ、それ」
「なんか、すごく大事なところって意味」
「分かるような、分からないような」
「分かって」
「努力する」
二人は少しだけ笑った。
その笑いが、朝の空白に小さな音を置く。
アストルフォは表情を柔らかくして、衛二の額にそっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
いつもの言葉。
でも今日は、いつもより深く響いた。
「ボクはエイジのサーヴァント。そして、エイジの恋人。今日、返事が生まれる前の空白へ行っても、ボクはエイジへ向かう心を沈黙に渡さない。声がなくても、名前がなくても、宛先が消えても、返事が消えても、ボクはエイジを選ぶ」
衛二は目を閉じた。
そして、アストルフォの手を握る。
「俺はアストルフォのマスターで、アストルフォの恋人だ。今日、沈黙冠の核へ行っても、俺はアストルフォへ向かう火を消さない。届かなくても返す。見えなくても探す。声がなくても、手がなくても、星にする。アストルフォを選ぶ」
アストルフォの瞳が揺れた。
「エイジ」
「何?」
「好き」
「俺も好きだよ」
「今日は、いっぱい言っておきたい」
「俺もだ」
二人はもう一度、手を握り直した。
その温度を覚えるように。
◇
リビングには、全員が集まっていた。
凛。
士郎。
ユイ。
ミライ。
そして、柳洞悠馬と宗真も来ていた。
柳洞寺へ向かう前に、最後の確認をするためだった。
テーブルの上には、返事の庭の投影図が広げられている。
白い花畑。
黒い丘。
その奥の門。
門には、昨日と同じ文字が刻まれている。
――すべての返事を失った者のみ、入れ。
その先は空白。
観測礼装ですら、内部を映し出せない。
ユイは静かに言った。
「沈黙冠の核は、返事の庭が最後まで向き合えなかった場所よ」
ミライが続ける。
「返事を拒む願い。待てない願い。動けない願い。手を拒む願い。失うことを恐れる願い。名前を恐れる願い。声を失う願い。宛先を失う願い」
彼女は一つ一つ、これまでの問いを数えるように言った。
「それらは、すべてまだ“返事が可能な痛み”だった」
衛二は黙って聞く。
ミライは目を伏せる。
「でも核にあるのは、返事をしようとする心そのものが消えた場所。返事を待つことも、拒むことも、求めることもなくなった完全な空白」
ユイが言った。
「沈黙冠は、そこから生まれた。返事の庭が、どうしても花を咲かせられなかった場所から」
凛は腕を組む。
「つまり、今回の敵は“何を返すか”じゃない。返事が生まれる前の火をどう守るか」
「火」
衛二は呟いた。
士郎が頷く。
「だから無窮剣界が必要になる。お前の世界は、剣の工房じゃない。剣という理を鍛える世界だ。今回は、返事の火種を鍛つことになる」
衛二は左手を見る。
令呪。
契約線。
その先にいるアストルフォ。
「完全展開、します」
衛二は言った。
リビングの空気が固まる。
凛は厳しい目で息子を見た。
「分かっているわね。沈黙冠の核で完全展開すれば、あなたの内的世界そのものに侵食される可能性がある」
「分かってる」
「無窮剣界が沈黙冠に乗っ取られたら、衛二自身が返事を失う」
「それでも必要ならやる」
「衛二」
凛の声が少し鋭くなる。
だが、そこに止める響きはなかった。
母としては止めたい。
魔術師としては、必要だと分かっている。
その葛藤が、凛の目にあった。
衛二は続けた。
「一人ではやらない。アストルフォを錨にする。恋人の花、もう一度呼ぶ花、音なき鐘の花、星路の花。全部を繋いで、無窮剣界と返事の庭を重ねる」
ユイが息を呑む。
「世界の重ね合わせ……」
「それしかないと思う」
士郎はしばらく衛二を見ていた。
やがて、静かに頷く。
「いい判断だ」
「父さん」
「危険だ。でも、お前だけの剣界なら、返事の庭と重なる余地がある」
凛は深く息を吐いた。
「なら、条件を出すわ」
「はい」
「完全展開中、少しでも沈黙冠の侵食が上回ったら、アストルフォが契約線を通じて強制的に引き戻すこと」
アストルフォが真剣に頷く。
「分かった」
「アストルフォ自身が引き込まれそうになった場合は、士郎と私が外側から切断補助をする。ユイとミライは返事の庭の花を安定。柳洞家には門の外縁結界を頼む」
宗真が静かに頷いた。
「承りました」
柳洞悠馬も真剣な顔で頷く。
「俺は何をすればいい」
凛は少し迷った。
だが、すぐに答える。
「境内側の観測と、異変が出た場合の記録。あなたは魔術師じゃない。でも柳洞寺の縁がある。返事の庭が地上へ漏れた時、最初に気づける可能性が高い」
「分かった」
柳洞は衛二を見た。
「遠坂」
「何だ?」
「帰ってこい」
短い言葉だった。
でも、その言葉は重かった。
衛二は頷く。
「ああ。帰ってくる」
アストルフォが衛二の手を握る。
「一緒にね」
「ああ。一緒に」
◇
柳洞寺へ向かう道中、車内は静かだった。
しかし、暗い静けさではない。
それぞれが、自分の言葉を胸の中で確かめている静けさだった。
衛二はメモ帳を開いた。
恋人用約束書。
いつの間にか、かなりのページが埋まっていた。
――声がなくても、手を離さない。
――声がなくても、返事を探す。
――声がなくても、好きは消えない。
――声がなくても、好きは返せる。
――相手が見えなくても、好きだったことは消えない。
――届かなくても、返そうとした心は消えない。
――届かない返事も、星になる。
アストルフォが隣から覗き込む。
「いっぱい増えたね」
「ああ」
「今日も増えるかな」
「増えると思う」
「何を書く?」
衛二は少し考えた。
返事そのものが消える場所へ行く。
そこに何を持っていくべきか。
衛二はペンを取り、一行書いた。
――返事が消えても、火種を守る。
アストルフォはそれを見て、少しだけ目を細めた。
そして、下に書く。
――火が小さくても、二人で囲む。
衛二はその文字を見つめた。
胸の奥が温かくなる。
「いいな、それ」
「でしょ」
「アストルフォらしい」
「エイジも囲む?」
「もちろん」
二人はメモ帳を閉じた。
今日、これが消されるかもしれない。
でも、書いた事実はここにある。
少なくとも今、この車内で二人はその言葉を選んだ。
◇
柳洞寺の境内は、晴れているのに薄暗く感じた。
木々は静かに揺れ、鐘楼はいつもの場所にある。
しかし、鐘は鳴らない。
昨日は戻ったはずの音が、今日は深く沈んでいる。
宗真が石段の下で手を合わせる。
柳洞悠馬は鐘楼の方を見ていた。
「鐘が、鳴るのを待ってるみたいだ」
衛二はその言葉に少し驚く。
「待ってる?」
「ああ。鳴らされるのを待ってるんじゃない。返事が戻るのを待ってる感じがする」
宗真が頷く。
「鐘は、音を出すためだけのものではありません。届く場所を作るものでもあります」
音なき鐘の花。
昨日、返事の庭に咲いた花を思い出す。
声がなくても、返事はある。
今日、その返事の火種を守れるかどうか。
凛が石扉の封印を確認する。
「行くわよ」
ユイとミライが封印鍵を重ねる。
石扉が、ゆっくりと開いた。
階段の下から、白い光も黒い影もない、ただの空白が滲み出している。
アストルフォが衛二の手を取る。
「エイジ」
「うん」
「怖い」
「俺も怖い」
「でも、行く」
「ああ」
「恋人として」
「恋人として」
二人は頷き合い、階段を下りた。
◇
返事の庭は、花を閉じていた。
白い花々が、すべて蕾になっている。
ありがとうも。
ごめんも。
聞こえたも。
忘れないも。
ここにいるも。
花弁に刻まれていたはずの言葉は見えない。
まるで、返事そのものが息を潜めているようだった。
黒い丘の根元にある花々だけが、まだ淡く光っている。
恋人の花。
もう一度呼ぶ花。
音なき鐘の花。
星路の花。
だが、それらも今にも消えそうだった。
黒い丘の奥の門は開いていた。
門の向こうには、何もない。
闇ですらない。
光も影もない。
そこにあるのは、完全な空白だった。
ユイが震える声で言う。
「ここから先が、沈黙冠の核」
ミライは青ざめている。
「返事の庭が、花を咲かせられなかった場所」
凛が宝石を構える。
「衛二、アストルフォ。中心へ入るのは二人。私たちは外側から支える」
士郎が衛二の肩に手を置いた。
「行ってこい」
「父さん」
「帰ってこい」
「うん」
凛も近づく。
「衛二」
「何?」
「無茶はするでしょうけど、戻れない無茶はするな」
「分かった」
「アストルフォ」
「はい」
「衛二をお願い。あなた自身も必ず戻りなさい」
「うん。約束」
アストルフォは真剣に頷いた。
ユイが恋人の花へ手をかざす。
「二人の関係が、核への錨になる。怖さも、嬉しさも、全部持っていって」
ミライが続ける。
「返事を失った場所には、完璧な答えは届かない。だから、火種を持っていくの」
衛二は頷く。
アストルフォも頷く。
二人は門の前へ立った。
「アストルフォ」
「うん」
「手、離さない」
「うん」
「もし離れても」
「探す」
「もし探せなくても」
「返す心を消さない」
「もし返す心も消えそうになったら」
アストルフォは少しだけ考えた。
そして、衛二の胸に手を置いた。
「恋人だったことを思い出す」
衛二の胸が熱くなる。
「それでも駄目なら?」
「エイジが先に思い出して」
「分かった」
「ボクも、エイジが忘れたら思い出す」
「ああ」
二人は門をくぐった。
◇
そこには、何もなかった。
白でもない。
黒でもない。
空でもない。
地面でもない。
無。
ただの空白。
だが、そこに立っている感覚だけはあった。
衛二は隣を見る。
アストルフォがいる。
手も繋いでいる。
最初は。
次の瞬間、手の温度が消えた。
「アストルフォ!」
声が出ない。
いや、声が消えたのではない。
声を出そうという意思そのものが薄れている。
呼ぼうとした。
でも、なぜ呼ぶのかが分からなくなる。
名前は思い出せる。
アストルフォ。
でも、その名前へ向かう心が薄い。
恋人。
その言葉も覚えている。
だが、胸が動かない。
これが核。
返事が生まれる前の火が消える場所。
衛二は膝をつきそうになった。
怖い、と思うより先に。
怖がる心が消えていく。
それが何より恐ろしいはずなのに、恐ろしいと感じる火すら弱まっていく。
沈黙冠の核が、音もなく告げる。
――返す必要はない。
衛二の意識が揺れる。
返す必要はない。
確かに、返さなければ傷つかない。
届かない痛みもない。
拒まれる怖さもない。
失う苦しみもない。
誰かへ向かわなければ、何も欠けない。
何も求めなければ、何も失わない。
空白は、優しかった。
あまりにも静かで、あまりにも楽だった。
衛二は、自分が何をしに来たのか忘れそうになる。
その時。
胸元で、何かが熱を持った。
メモ帳。
恋人用約束書。
文字は見えない。
意味も薄れている。
だが、そこに何かを書いたことだけは残っている。
手が覚えている。
ペンを握った感触。
隣でアストルフォが覗き込んでいた温度。
書いた後、彼が笑った顔。
返事が消えても、火種を守る。
火が小さくても、二人で囲む。
衛二は、その言葉を思い出そうとする。
言葉としては霞む。
でも、火があった。
小さな火。
消えかけている。
衛二はそれを両手で包むように、胸に手を当てた。
「……」
声は出ない。
名前も遠い。
でも、火がある。
守らなければ。
なぜ?
分からない。
誰のため?
分からない。
それでも、守りたい。
その「守りたい」が、最初の火種だった。
◇
アストルフォも、空白の中にいた。
エイジがいない。
いや。
エイジという名前は知っている。
でも、それが誰なのか、胸が答えない。
恋人。
その言葉もある。
けれど、温度がない。
好き。
その言葉も、遠い。
空白が囁く。
――返さなくていい。
アストルフォの心から、明るさが薄れていく。
笑う必要もない。
呼ぶ必要もない。
手を握る必要もない。
何も返さなければ、何も失わない。
それは恐ろしいほど楽だった。
でも。
胸の奥に、ほんの小さな違和感があった。
何か、足りない。
空白は楽なのに、温かくない。
静かなのに、優しくない。
アストルフォは自分の手を見る。
何かを握っていた気がする。
誰かの手。
強すぎず、弱すぎず。
ちょうどいい力で。
その力加減を、手が覚えている。
アストルフォはゆっくり指を曲げる。
空っぽの手を、何かを握る形にする。
すると、胸の奥に小さな火が灯った。
誰かが言った。
力加減は?
誰かが聞いてくれた。
ちょうどいい?
誰かが、強すぎたら緩めてくれた。
誰かが、自分を命令ではなく選ばせてくれた。
アストルフォは、その火を両手で包む。
名前はまだ遠い。
声も出ない。
でも、火がある。
これを消してはいけない。
なぜ?
分からない。
でも、消したくない。
その「消したくない」が、返事の前の火種だった。
◇
外側の返事の庭では、凛たちが必死に門を支えていた。
黒い丘の根元の花々が、次々に光を失いかける。
恋人の花が閉じかける。
もう一度呼ぶ花の灰色が濃くなる。
音なき鐘の花が震えを失う。
星路の花が星を落とす。
ユイが叫ぶ。
「二人の火種が薄れている!」
凛が宝石を砕き、魔力を流し込む。
「衛二、アストルフォ、戻りなさい!」
声は門の中へ届かない。
士郎が双剣を構え、門の縁に走る沈黙の亀裂を斬る。
「核が二人の関係の根元から温度を奪っている!」
ミライは返事の庭の花々へ手をかざす。
「花だけでは支えきれない。返事になる前の火が必要」
柳洞寺の地上では、宗真が鐘楼の前で祈っていた。
柳洞悠馬も、隣で手を合わせている。
声は出していない。
しかし、祈りの向かう先を失わないように。
衛二とアストルフォへ。
返事の庭へ。
届くか分からなくても、祈りを置く。
その祈りが、わずかに門の縁へ光を落とした。
◇
空白の中で、衛二は火を守っていた。
だが、火は弱い。
名前が出ない。
アストルフォという名は思い出せるのに、胸が動かない。
恋人という名も知っているのに、温度が遠い。
ならば、もう一度作るしかない。
返事が生まれる前の火を。
衛二は内側へ沈む。
無窮剣界。
自分だけの世界。
夜の鍛造炉。
硝子の大地。
星座のような設計図。
そこへ接続しようとする。
だが、沈黙冠の核が囁く。
――鍛えるものなどない。
剣がない。
願いがない。
返事がない。
炉に火が入らない。
衛二は歯を食いしばる。
いや。
歯を食いしばった感覚すら薄い。
それでも、胸にある小さな火へ意識を集める。
何かを書いた。
誰かと一緒に書いた。
火が小さくても、二人で囲む。
二人。
誰と?
桃色。
明るい声。
手。
恋人。
名前。
ア――。
そこまで来て、空白が深くなる。
名前が遠ざかる。
衛二は火を握る。
「……っ」
声にならない声。
火を消すな。
名前が遠くても。
心が動かなくても。
火だけは消すな。
衛二の内側で、炉が一瞬だけ光った。
無窮剣界の最初の火。
それは剣を鍛えるための火ではない。
返事になる前の、ほんの小さな熱。
誰かへ向かおうとする最初の揺らぎ。
衛二は、その火へ言葉を落とす。
我が骨子は、刃の夢を覚えている。
声ではない。
思考でもない。
もっと深い場所に刻む。
血は星鉄に沈み、心は薄き玻璃。
炉がわずかに赤くなる。
幾重の戦場を映してなお、刃は曇らず。
空白が軋む。
ただ一度も背を向けず、
ただ一度も己を赦さず。
衛二は思い出す。
父の背中。
母の叱責。
柳洞寺の鐘。
返事の庭の花々。
そして。
桃色の笑顔。
彼の者は、常に境界に立ち、
贋作と真実の狭間で、勝利を鍛つ。
アストルフォ。
名前が戻りかける。
故に、その生に解はなく。
されど、この手は誰かの願いへ届いた。
手。
握った手。
恋人になった屋上。
――その魂は、きっと剣を超えていた。
衛二は目を開けた。
内側の炉が燃える。
まだ小さい。
でも、確かに火がある。
「固有結界――展開」
空白の中に、声が戻る。
薄く、震える声。
だが、確かに衛二の声だった。
「無窮剣界」
硝子の大地が広がる。
夜の鍛造炉が現れる。
星座のような剣の設計図が、空白の底に流れ始める。
しかし、それだけでは足りない。
返事の庭が必要だ。
衛二は叫ぶ。
「アストルフォ!」
今度は、名前に温度があった。
◇
アストルフォは、空白の中でその声を聞いた。
最初は遠かった。
意味も薄かった。
でも、声の奥に手の温度があった。
力加減があった。
恋人という名前があった。
「エイジ……?」
名前が戻る。
胸が動く。
火が大きくなる。
アストルフォは顔を上げた。
空白の向こうに、硝子の大地が見える。
夜の炉。
そこに立つ衛二。
彼は手を伸ばしている。
命令ではなく。
願いとして。
アストルフォは笑った。
涙が出た。
火が戻った。
「エイジ!」
彼は走り出す。
空白の中、桃色の光を引きながら。
沈黙冠の核が囁く。
――返す必要はない。
「ある!」
アストルフォは叫ぶ。
――相手へ向かえば、失う。
「それでも向かう!」
――返事は痛みを生む。
「でも、返事がない方がもっと寒い!」
アストルフォは衛二へ向かって手を伸ばす。
衛二も手を伸ばす。
二人の手が触れた瞬間。
無窮剣界の硝子の大地に、白い花が咲いた。
◇
返事の庭と無窮剣界が重なった。
夜の鍛造炉。
硝子の大地。
その下を流れる剣の設計図。
そこに、白い花々が咲いていく。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
ここにいる。
閉じていた花々が、炉の火に照らされて開く。
恋人の花が、硝子の大地に根を下ろす。
もう一度呼ぶ花が、星座の一部になる。
音なき鐘の花が、炉の上で震える。
星路の花が、剣の設計図と重なって道を描く。
返事の庭は、無窮剣界の中で咲いた。
無窮剣界は、返事の庭の中で燃えた。
衛二はアストルフォの手を握る。
今度は、温度がある。
強すぎず。
弱すぎず。
「アストルフォ」
「エイジ」
「火、戻った」
「うん。あったかい」
「怖かった」
「ボクも」
「でも、戻ってきた」
「うん。恋人だから?」
衛二は少し笑った。
「それもある」
「他には?」
「俺がアストルフォを選んだから」
アストルフォの瞳が揺れる。
「ボクも、エイジを選んだから」
二人の手の間で、桃色と蒼の火が灯る。
それは小さな火だった。
だが、空白の中で消えなかった火。
返事になる前の火種。
沈黙冠の核が、初めて明確な形を見せた。
黒い冠。
その中心に、何もない穴。
穴の奥から、無数の消えた返事が渦巻いている。
届かなかった言葉。
返されなかった声。
向かう先を失った祈り。
火種ごと消えてしまった想い。
それらが、沈黙冠の核だった。
衛二は息を呑む。
これは敵であると同時に、痛みそのものだ。
ただ斬って終わるものではない。
だが、止めなければならない。
沈黙冠の核が囁く。
――返事は痛みを生む。
衛二は頷いた。
「そうだ」
アストルフォも頷く。
「返事は痛い時がある」
――届かなければ苦しい。
「苦しい」
――拒まれれば壊れる。
「壊れることもある」
――失えば穴が残る。
「残る」
――ならば、返事などなければいい。
衛二は首を横に振った。
「それは違う」
アストルフォも言う。
「痛いからって、全部消したら、あったかいものも消えちゃう」
衛二は無窮剣界の炉を見る。
返事の庭の花を見る。
「返事は、答えを完璧にするためのものじゃない」
アストルフォが続ける。
「相手を救いきるためだけのものでもない」
「届かないこともある」
「間に合わないこともある」
「拒まれることもある」
「失うこともある」
二人の声が重なる。
「それでも、返そうとする火は消さない」
沈黙冠の核が大きく震える。
無窮剣界の炉が燃え上がり、返事の庭の花々が一斉に光る。
衛二は手を掲げた。
剣が生まれる。
しかし、それは敵を斬るための剣ではない。
星鉄の炉で鍛たれた一本の剣。
刃の中に、花弁の光が流れている。
名はまだない。
いや、今ここで名付ける。
「真作崩壊・星鉄幻想」
衛二の声が響く。
だが、いつものブロークン・ファンタズムではない。
アストルフォが隣で手を重ねる。
「返事の火を、消させない」
衛二は頷く。
「これは壊すための幻想じゃない」
剣が光を増す。
「沈黙を終わらせるための返事だ」
剣の名が生まれる。
「真作再誓・返花星路」
ブロークン・ファンタズムではなく。
壊す幻想ではなく。
もう一度誓い直すための星路。
返事の花を星へ繋ぐ剣。
衛二とアストルフォは、同時に沈黙冠の核へ向かって踏み出した。
その時。
沈黙冠の核が開いた。
中から、無数の声が溢れた。
声ではない。
声になる前に消えたものたち。
ありがとうと言いたかった。
ごめんと言いたかった。
好きと言いたかった。
帰ってきてと言いたかった。
行かないでと言いたかった。
見ていると言いたかった。
忘れないと言いたかった。
でも、言えなかった。
返せなかった。
返す相手がいなかった。
火が消えた。
だから沈黙になった。
そのすべてが、衛二とアストルフォへ押し寄せる。
剣を振れば、斬れるかもしれない。
だが斬れば、その痛みごと消してしまう。
衛二は剣を止めた。
アストルフォが隣で息を呑む。
「エイジ?」
「斬るだけじゃ駄目だ」
「うん」
「聞かないと」
「でも、全部聞いたら」
「飲まれるかもしれない」
「それでも?」
衛二はアストルフォを見る。
「一緒なら」
アストルフォは一瞬だけ目を閉じた。
そして、笑った。
「うん。一緒なら」
二人は剣を下ろした。
無数の消えた返事へ、手を伸ばす。
沈黙冠の核が震える。
――聞くな。
衛二は言う。
「聞く」
――返すな。
アストルフォは言う。
「返す」
――痛みが増える。
「それでも」
「一人にはしない」
その瞬間、無数の消えた返事が二人へ流れ込んだ。
胸が裂けそうになる。
届かなかった言葉の痛み。
失われた相手への祈り。
返事できなかった後悔。
何も感じなくなった空白。
衛二は膝をつきそうになる。
アストルフォも震える。
だが手は離さない。
強すぎず。
弱すぎず。
ちょうどいい力で。
「アストルフォ……!」
「エイジ……!」
二人は互いの名前を呼んだ。
その名前が、流れ込む痛みの中で錨になる。
しかし、痛みはあまりに多い。
返事の庭の花々が耐えきれず散り始める。
無窮剣界の炉も揺らぐ。
凛たちの声が遠くで聞こえる。
「衛二!」
「アストルフォ!」
外側からの支援が届く。
赤い宝石の光。
士郎の双剣。
ユイとミライの返事の花。
宗真と柳洞の祈り。
それでも、沈黙冠の核は深い。
衛二は悟った。
ここで完全に終わらせるには、まだ足りない。
すべての消えた返事を、一度に救うことはできない。
ならば、次に繋ぐ。
最終話へ。
ではなく。
次の返事へ。
衛二は剣を掲げる。
「アストルフォ」
「うん」
「今、全部は返せない」
「うん」
「でも、火は守れる」
「守ろう」
二人は、真作再誓・返花星路を黒い冠へ突き立てた。
斬るのではない。
封じるのでもない。
冠の中心に、小さな火を置く。
返事になる前の火種。
恋人の花の桃色と、無窮剣界の蒼い炉火が混ざった小さな光。
沈黙冠の核が、大きく震えた。
黒い冠に亀裂が走る。
しかし割れない。
火は灯った。
だが、沈黙はまだ残っている。
核の奥から最後の問いが浮かび上がる。
――ならば、すべての返事を抱えたまま、君たちは何を選ぶ。
衛二とアストルフォは、その問いを受け止めた。
答えはまだない。
だが、逃げない。
次で答える。
いや。
次で、選ぶ。
◇
気づけば、衛二とアストルフォは返事の庭の黒い丘の前に倒れていた。
凛と士郎が駆け寄る。
ユイとミライが花々を安定させる。
柳洞寺の地上から、鐘の音が一度だけ鳴った。
弱く、しかし確かに。
衛二は目を開ける。
隣にアストルフォがいる。
手は繋がっている。
「アストルフォ……」
「エイジ……」
二人は互いの名前を呼ぶ。
声はかすれている。
でも、届いている。
凛が膝をついて、衛二の額に手を当てた。
「馬鹿。無茶しすぎ」
「……戻った」
「戻ったからいいって話じゃないわよ」
士郎が静かに言う。
「でも、火は置けたな」
衛二は頷いた。
「沈黙冠の核に、火種を置いた」
ユイが涙を堪えるように言った。
「門の奥が、少しだけ見えるようになった。次で届く」
ミライも頷く。
「最後の問いが残った」
アストルフォが衛二の手を握る。
「すべての返事を抱えたまま、何を選ぶ」
衛二は息を整えた。
「次で答える」
「うん」
「一緒に」
「恋人として」
「ああ」
黒い丘の奥で、沈黙冠の核に灯した小さな火が揺れている。
消えそうで。
でも、消えない。
コメント
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うわあ、第十九話、読み終わりました……! すごく深くて、胸がぎゅっとなる話でした。冒頭の「声が生まれる前の静けさ」という表現がもう、この話の全てを象徴しているようで。衛二とアストルフォが空白の中でお互いの火種を守り合う場面、特に「強すぎず弱すぎずの力加減」を手が覚えているという描写が、二人の関係の積み重ねを感じさせて泣けました。最後に無窮剣界と返事の庭が重なって花が咲くところ、美しすぎて息を止めてしまいました。次で「返事をすべて抱えたまま何を選ぶか」という問いに答えるんですね。続きが待ち遠しいです!