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そしてもう一つ紗理奈には、こんなに頑張る理由があった
紗理奈は自分の出版局の編集長「内田和樹」に恋をしていた
和樹は3年前に紗理奈の家に初めて、港区で1・2を争う人気のおしゃれなケーキ屋さんの、スイーツを手土産にやってきた
「まぁ・・・このお店のケーキは、すごい人気でなかなか手に入りませんのよ」
手渡された高級スイーツの箱を、眺めながら紗理奈は言った
フフフッ「そうでしょう?先生にぜひ召し上がって頂きたくて、3時間も並らんじゃいました」
その彼の無邪気な笑顔に紗理奈は恋をしてしまった
彼は紗理奈よりも3歳年上の素敵な男性で、細身で髪は短髪、いかにも文学青年といった、ブルーのシャツを着こなす人で
彼の醸し出している柔らかな雰囲気は、思わず紗理奈を和ませ、笑うと幼くなる所も好感が持てた
田舎のやぼったく、父をはじめ無骨で威圧的な男性ばかりを、見て来た紗理奈にとって、彼はまさに天使に見えた
「編集部員と作家が恋に落ちるなんて、よくある事だよ、普通の社内恋愛と同じさ」
と彼はそう言って紗理奈に微笑んだ
もしかして・・・それって私達の事?
紗理奈の胸はときめいた、こんなこと初めてだった週一で紗理奈は和樹と打ち合わせで、顔を合わすことになり
彼はその都度おしゃれな、お店のランチなどを打ち合わせで、紗理奈のために予約してくれた
紗理奈のシリーズ作品が200万部を突破すると、彼から家に可愛らしいシャネルのマトラッセと、有名店のチョコレートが届いた
彼に恋をしている紗理奈は、彼の無茶ぶりも快く引き受け、とにかく言われるままに作品を書いた
雑誌連載を同時に3作走らせ、書いて、書いて、書きまくった
時には出版において紗理奈の書いた、大事な作品の内容を大幅に改編された、紗理奈は改編された文章を読んで吐き気がした
そんな紗理奈の愚痴を、彼はいつでも心良く聞いてくれた
「世の中には君の書く高尚な内容よりも、安っぽい文章が受ける時もあるんだよ、なぜなら世の中のほとんどの人間が安っぽい、文章しか読めないぐらい忙しいからさ」
「あなたはとてもズル賢い編集者ね!評論家にこっぴどく叩かれるのは私なのに!」
「ひどいな、僕はいつでも文学に大いなる尊敬の念を抱いているよ、そして特別な才能のある作家を愛して、その可能性を成功に結び付ける能力を持っているだけさ」
「つまりは儲かる本を書かせる能力が、おありと言うことよね」
「君にはかなわないな」
彼はそう言って笑った、憎まれ口を叩きながらも紗理奈の胸はときめいた、彼は才能のある作家を愛すると言ったのだ、きっと彼は自分の事を言ってるのだ
ある日の夕方、出版局での打ち合わせの帰り、彼に送ってもらった車の中で二人はキスをした
紗理奈の胸は期待に弾んだ、彼からはハッキリ付き合ってほしいとは、言われてはいないけど
私達はキスをした仲なのだから、もう恋人同士だ、やがてそんな彼と度々キスをするようになった時、朗報が飛び込んで来た
「日本文化勲章がこの十年で一番の、推理小説家に君をエントリーしたそうだ、すごいよ!紗理奈!おめでとう」
電話の向こうで嬉しそうな彼の声
「君は今飛ぶ鳥を落とす勢いだ、ファンは君の新作を楽しみにしてる、今三本連載をしていて大変なのは分かっているけど、新作を書いてほしいんだ」
その時恐怖が体を走った、憂鬱が汗ばむようなパニックに取って代わる
この時紗理奈はスランプだった、原稿は真っ白、頭は空っぽ
しかしその事はアシスタントにも、編集部にも誰にもあかしてはいなかった
ここ数週間ふいに突然インスピレーションが湧いてきて、パソコンの前に座った途端、空想の世界に没頭して書けるかもしれないと、期待して日々をダラダラ過ごしていた
そこからさらに一週間後
『どうして電話に出ないんだい?』
「ごめんなさい・・・気づかなかったの」
『わかるよ、執筆中にじゃまが入るのが君は嫌だもんね、でも編集会議で決まったんだ、君の新作の印刷部数を今までの三倍にするってね』
彼は電話口で嬉しそうに言った
『前回の売り上げは予想を超えるものだった、印刷会社も君の枠を開けて待ちわびているよ
ねぇ・・・新作にとりかかってるのはわかるけど、ストーリーのヒントだけでも教えてくれないか?帯の制作の文言も考えたいし・・・・』
「それは秘密・・・一気に読んで欲しいの楽しみにしてて」
―新作なんかキャラクターすらも、思いついてないわよ―
スマホを持つ手が震える、紗理奈は声を大にして言いたかった、頭の中は恐ろしいほど空っぽだった
紗理奈はどんでん返しが売りの作家として有名だ、どんな鋭い読者も予想できない、衝撃の結末を創り出す力がある
しかしそんな紗理奈も今回ばかりはお手上げだ
休みが欲しい・・・充電期間が必要だ、沢山良い映画や本を読み漁って、素敵な場所や旅行にも行って自分の中が豊かさで一杯にインプットされた頃に、また書きたい気持ちが溢れ出てアウトプットできる
そういう時間が必要だ
紗理奈がそう言おうとした、瞬間に彼から信じられない言葉が出た
『・・・・君が新作を書き終えたら・・・・どこか旅行にでも行かないか?何泊かで・・・』
「え?」
紗理奈は急に心臓がドキドキしだした
『海外でもいいし、僕達・・・そろそろ次のステップに、進んでもいいんじゃないかな?君はどう思う?』
彼はたしかにそう言った、もしかして彼も私と同じ気持ちでいてくれているの?
二人は今までただの売れっ子作家と編集長だった、しかし打ち合わせで激しく議論している時でさえ、熱い彼の眼差しを紗理奈は感じていた、好意を持っていてくれているかも?と、思ったことはあったが
男性経験ゼロで30歳みそじ手前の処女は、彼の気持ちを推し測れるわけがない
紗理奈が出来る事は彼の言われるままに、小説を書くことだけだった
なので紗理奈は20代後半の女盛りの、貴重な時間を彼の為に何年も、創作マシーンとなって働いた、稼いで、稼ぎまくって出版社にその恩恵をもたらせた
彼から聞ける愛の告白だけを頼りに・・・・
しかし今回ばかりは難しかった、去年よりも今年の方が状況は苦しくなってきている
去年の執筆は長く苦しかったが、出版局と彼に愛想をつかされる前に、なんとか言葉を紡ぎ出す事が出来た
なのに今は本当に1文字も書けない、このままでは初めての締め切りの延期を頼むことになりそうだ
『数ページだけでもいいから読みたいな、これからそっちへ行ってもいいかな?』
「できたらこちらから知らせるわ」
『何か僕に出来る事ある?』
愛してると言って・・・そして無理しなくていいよと・・・・
『君は人が怖がる話を書く天才だ、僕は信じている、ベストセラーチャートでこの小さな出版局を業界トップに押し上げてくれた実力を、今回も期待してるよ、近いうちにぜひ第一章だけでも読ませてくれ』
彼はそう言って電話を切った
紗理奈は書斎でここ一カ月の間にしてきたことを、繰り返した、白い画面のパソコンの前に座って、くたびれた脳の深みか、アイデアが湧き出してくるのを祈った
紗理奈は奇跡を待ち望んだ、再びベストセラー作家になって、彼の愛を一身に受けている自分、彼と幸せなロストバージンを迎えている自分
結婚し・・・養ってもらい、彼の子供を腕に抱えている自分を・・・気楽に生きている姉二人を思った
しかしそれから数日経ち、創作活動は全く進まないまま、現実は待ってくれなかった、何度もアイデアを捻り出し書いて見ようと試みたが、どれ一つとして頭からキーボードをはじく、指先へ伝わってこなかった
答えのない疑問が多すぎるプロットが出来上がるだけだった
頭の中でもつれた毛糸の玉を、見つめているのに似ている、糸は見えるのにそれをほどき、読者の目をページに惹き付けて離さない、魅力的な文章に編み上げることが出来ないのだ
ファンが待ち望んでいる新作を一文字も、書いていないこと
前作をベストセラーにした、魔法はもう使えないことを
紗理奈は近いうちに、彼に白状しないといけなくなった