朝、和海から電話がかかってきた。
「どうしたの?」
「いや、大丈夫かなって」
「二日酔いなら大丈夫」
「そうじゃなくて、奥さんと子どもに逃げられてすぐ深酒させて変な気を起こしたらどうするんだって、うちの奥さんが心配しててさ」
僕が自殺しないかと心配してくれたんですね。奥さん、ありがとう。でもあなたは旦那の風俗通いの心配をした方がいいかもしれない。告げ口はしませんけどね。
「それと、全財産持っていかれた上に、昨日振り込まれた給料も一円残さず奥さんの口座に送金された件も、警察に通報した方がいいぞ」
「それも安田先生の奥さんの意見?」
「そう」
「それはやめとくよ。警察沙汰にしたら、妻が逮捕されるかもしれないからね」
「奥さんの方はさっさと警察呼んで、鳥居先生を逮捕させたんじゃなかったっけ?」
と問い返されて反論できなくなった。
「分かった。相談だけしてみるよ」
朝から暗い気分になった。和海からお金を借りられることになったけど、家賃など月々の支払いをすべてまかなえるほどは貸してくれないだろうから、クレジットカードでキャッシングもしなければいけないだろう。そう思うとみじめになって、和海から心配される電話をもらえたことが改めてありがたく思えたのだった。
言われたとおり警察に電話してみた。緊急じゃないので110番でなく最寄りの警察署に。
まずはお金のことより子どものこと。
「妻が僕の仕事中に娘二人を連れて勝手に出ていったんですが、こういうのは犯罪にならないのですか?」
「なりません。奥さんとよく話し合って解決して下さい」
やっぱりダメか。そもそも話し合いできるくらいなら、警察署に電話などしない。次にお金のこと。
「うちから出ていくとき、妻が僕名義の通帳のお金を全額下ろしていったんですが、捜査ってしてもらえますか」
「つまり、ご主人のお金を奥さんが持ち逃げしたということですね。申し訳ないですが、民事不介入の原則というのがありましてね、警察は家庭内の金銭トラブルに介入できないんですわ」
子どももお金も奪ったもの勝ちなの? 子の連れ去りというと、悪い夫から逃れるために仕方なくするものと世間の人は思ってるはず。僕もそうだった。どうせ子どもを連れて奥さんに出ていかれた旦那が何かやらかしたんだろ? と。
僕はこのとき、お金を引き出して子どもを連れて出ていっても損はない、むしろ得しかないと知っていた上で夢香がこの行動を起こしたんじゃないかと思い始めた。
時間をかけて僕の不倫やDVを周囲に吹聴しておいて、周囲を味方につけた上での計算ずくの行動。そうだとすると、連れ去られた娘たちも妻がでっちあげた僕の不実を真実だと思い込んで、僕に腹を立ててるのかもしれない。
妻子に出ていかれて目の前が真っ暗になったけど、僕が見ている闇はまだ序の口なんじゃないか。比較にならないほどの絶望的な闇が、これから僕に襲いかかってくるんじゃないか?
呆然とした気持ちで警察官との通話を切った。
出勤するなり、僕の代わりに担任になったおばさん先生が僕に聞こえるように大声でひとりごとを叫びだした。
「これから四十人分の指導要録を書かなくちゃいけない。誰かさんが別れた奥さんにストーカーして逮捕されたせいで!」
面倒だからいちいち言い訳しない。
指導要録とはホームルームの生徒一人一人の個票。一年間の出欠状況や成績や行動のあらわれを記録するもの。法令で作成が義務づけられていて、作成期限は三月末日。作成者は各ホームルーム担任。
おばさん先生のホームルームの生徒のことを一番分かってるのは僕だけど、僕は担任を降ろされたからタッチできない。
「全員の個票の文言を全部書き上げて、テキストファイルに保存したデータがあるんですが、必要なら差し上げますよ」
「ぜひちょうだい!」
というから校内サーバーのその先生の個人フォルダにテキストファイルを送ってやった。僕のあげたデータを見るなり、おばさん先生が再び叫んだ。
「さすが鳥居先生、逃げた奥さんも見る目ないわねえ!」
そのあと見てると、おばさん先生は僕の書いた文言をただ一人一人コピーして校務支援システムに貼りつけるだけ。少しは僕の考えた文言をアレンジして内容を変えればいいのに。少しでも楽することしか考えていない。僕ならどんな事情でも急遽担任を任されることになったら小躍りするくらい喜ぶと思うけど、やる気のない先生とはそんなものなのだろう。
今日は金曜日。僕の時間割は六時間連続授業がある殺人的な曜日がある代わりに、金曜日の午後だけ授業なし。
僕はサッカー部の副顧問だったけど、それも外されてどうしても外せない仕事が特になくなってしまったから、お昼から時間休を取ることにした。一度どうしても行ってみたい場所があったから。ふだん休まない(というか休めない)から、休暇ならどうせ掃いて捨てるほど余っている。