テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「⋯⋯死の翼に触れよ」
老婆の声は、春の風に乗って細く響く。
まるでその言葉自体が
街の空気をざらつかせる呪文のように――。
「その若者の死んでいた部屋にはね⋯⋯
血でそう書かれていたそうな」
桜の丘を見上げながら
老婆は遠い記憶を
ゆっくりと掘り返すように語った。
目の奥には、未だ消えぬ恐怖と
かすかな懺悔が揺れている。
「それからというもの⋯⋯
この街では
彼が狂ったように叫んだ通り
春を呼ぶ者が静かに⋯⋯
愛する者と、穏やかに過ごせるようにと
敬いと畏れの入り混じった
奇妙な〝秩序〟が生まれたのさ」
老婆の視線は
丘の頂にある
見えない影を探すように揺れていた。
「最近になって、無くなったけれど⋯⋯
街の者たちは桜を見ないように
高い壁を築いたのよ。
まるで、あの丘ごと封じ込めるように」
アラインは、黙って耳を傾けていた。
その顔には
少しも怖がる素振りなどなかった。
けれど、心の内には
何かがざわめいていた。
「丘に登れば
街の人間は鏖になるとまで
伝えられるようになってね⋯⋯
そうさ。
いつしかあの場所は
〝呪いの丘〟と
呼ばれるようになったのさ⋯⋯
何故か、丘の頂の大樹だけは
年中咲くようになってしまったしねぇ
桜が咲いてる間は行ってはいけない。
つまり、二度と立ち入ってはいけないの」
老婆の声が僅かに震える。
それは年老いた肉体の震えではない。
彼女自身の心の奥に棲みついた
悔恨と畏怖の揺らぎだった。
「⋯⋯きっと今でも
彼女はこの街を⋯⋯
許してはおられないかもしれないねえ」
その言葉に
アラインの瞳が静かに細まった。
けれどその声色は
まるで何事もなかったかのように
穏やかだった。
「大丈夫だよ、おばあちゃん。
そんな話を聞いたら⋯⋯怖くて
ボクは行けないよ」
にこりと笑う。
その表情は
少年のように無邪気でありながら
どこか演じられた仮面のようにも見えた。
「⋯⋯ああ、ああ。行かんでおくれ。
久しぶりに会えたのに
二度と会えなくなるのは⋯⋯
寂しすぎるからねえ」
老婆は優しく、アラインの手を握った。
その手は小さく、力なく
すぐに壊れてしまいそうな程に脆かった。
アラインは
その腕を支えながら
ゆっくりと丘を背に歩き出した。
⸻
黄金の髪。
深紅の双眸。
そして
背を裂いて広がる炎の翼――
それらは
アラインの夢に毎夜現れる
〝あの女〟の姿と、寸分違わぬ姿だった。
夢の中で
あの女はいつも
少年のような華奢な青年を
泣き叫ぶままに焼き尽くしていく。
その苦悶、悲鳴
そして
助けを求める叫び⋯⋯
全てを無視するように
無表情で炎を放ち続ける。
その青年の背には
深く刻まれた鉤爪のような傷――
「⋯⋯く」
アラインは、胸元に手を当てた。
傷など今は見えはしない。
けれど
そこには確かに
かつて引き裂かれた感覚が疼いていた。
(背中の傷跡が⋯⋯痛むな)
その思考の一欠片すら
老婆には見せまいと
アラインは表情を整える。
ただの〝優しい若者〟として
振る舞うように。
丘の頂を横目に見る。
桜は、あまりに静かに咲いていた。
そしてその静けさが
何よりも不気味だった。
口元には
感情の無い笑みが浮かび上がる。
冷たい、非情な
狂気の入り口を示すような――
⸻
その夜
満月は青白く輝き
雲ひとつなく世界を照らしていた。
アラインは
老婆の家の小さな窓を静かに開けると
足音ひとつ立てぬように
部屋を抜け出した。
道の灯りは既に消え
街は深く眠っている。
アラインは
月明かりを頼りに
闇に紛れるようにして歩き出す。
進む先は、あの丘。
大樹の桜が咲く場所。
誰も近付いてはならない〝呪いの丘〟
身を低くしながら、彼は気配を殺す。
ただの一歩が
永遠を揺るがす一歩であるかのように。
目的はただ一つ。
そこに
本当に彼女がいるのかを確かめること。
⋯⋯それが
アラインにとって〝記憶〟を超える
初めての現実になるかもしれないと
どこかで感じながら。
丘を登るアラインの足取りは
慎重を極めていた。
月光に照らされた石の道は静寂に満ち
彼の呼吸ひとつすら
夜の冷気に響きそうなほどだった。
(⋯⋯もう少し)
やがて、丘の頂が目前に迫る。
そこに立つ、大樹の桜――
その根元に〝あの女〟がいるとしたら
今が最も危うい瞬間だ。
アラインは身をさらに低くした。
まるで獲物を追う狼のように
背を丸め
草の陰に身を滑り込ませる。
白銀の月光を避け
闇の裂け目に自らを沈めながら
そっと覗き込むように桜へと目を向けた。
その時だった。
紅い光――
いや、紅い結晶が視界に映る。
桜の大樹の根元に、それはあった。
巨大な紅蓮の宝石のようなそれは
まるでこの世の理を拒絶するかのように
異様な存在感を放っていた。
そして、その奥。
あるいはその中なのか
あるいは結晶の向こうなのか。
確かに、そこには――
揺れていた。
黄金の髪。
月明かりが柔らかく差し込む。
それが揺れる度
赤と金が溶けるように交差する。
目を凝らすアラインの脳裏に
忘れようとしても
焼き付いて離れなかった夢が
否応なく呼び覚まされる。
(⋯⋯いた)
その瞬間、体中の神経が硬直した。
それは、確かに〝あの女〟だった。
だが
その姿は現実と幻の狭間を揺れ
まるで時間に軋みを走らせるように
不確かだった。
〝今〟を生きている存在なのか
あるいは〝過去〟の残響なのか。
それすら分からないほどに
美しく、冷たかった。
「⋯⋯アリア⋯様⋯⋯」
自分の喉から
声が漏れたことに気付いたのは
言葉が夜に溶けた直後だった。
まるで誰かの声が
彼の口を通して外に飛び出したかのように
意識は伴っていなかった。
(⋯⋯なんで、今⋯声を⋯⋯っ!)
心臓が、喉元を殴るように脈打つ。
アラインは無意識に喉を押さえ
息を止めた。
血が音を立てて耳に流れ込み
指先が震える。
桜を見上げる彼女の姿が
『此方を向いたように』見えた。
深紅の瞳――
夢で幾度も見た
何も映さぬ、無機質な炎の色。
無感情な眼差しが
ただ、そこにあった。
だが――
それが実際に彼女の動きだったのかは
分からない。
前世の記憶が
月光と結晶に幻を重ねたのかもしれない。
それでも
あの瞬間の恐怖は
現実のものだった。
這うようにして草陰へ潜り込み
気配を消す。
けれど
既に自分が気配を漏らしていたことに
今さら気付く。
冷や汗が頬を伝い
顎先から地面に落ちた。
それはまるで
野生のハイエナが
獅子の眼に射竦められた時のようだった。
(⋯⋯動かない)
彼女は、動かなかった。
だが
それが〝見逃された〟ことを
意味するわけではない。
――背中を向けることが
これほど恐ろしいとは思わなかった。
アラインは
もはや獣のような本能に突き動かされ
一目散に丘を駆け下りた。
石を蹴り
音を立てるなど本来なら愚の骨頂だ。
だが
恐怖がそれを上回った。
振り返らずとも分かる。
視線が背に張り付き
深紅の双眸が
自分を射抜いているかのような感覚が――
焼き付いて離れない。
老婆の家へと続く道は
白く輝く月の下で
まるで別世界のように無音だった。
アラインは
忍び足のつもりで
結果的に
駆け抜けたような動きで裏庭に回り
窓をこっそりと押し上げた。
その瞬間
背筋を貫いていた緊張がぷつりと切れた。
肺の奥に溜まっていた空気が一気に抜け
肩が震える。
額から流れる汗は
まるで雨のように襟を濡らしていた。
身体の芯が冷え切ったまま
アラインはそのまま
床に崩れるように横たわった。
(⋯⋯あれは⋯⋯)
声にならない思考が
ただ胸の内に渦を巻いていた。
美しいはずの満月は
今夜に限って
あまりにも白く⋯⋯残酷だった。
コメント
1件
復讐の焔を胸に秘め、微笑みの仮面で世界を欺く少年。 記憶を操り、忠誠を捏造し、鋼の意志で獣道を歩む。 すべては、遠い過去に刻まれた傷跡へと至るため。 冷たく静かな狩人の歩みが、運命を焼き尽くす──