その任務は、今までのどれよりも難しかった。
難易度ではない。
心の問題だ。
「……今回のターゲットは、元教師。現在は裏社会に情報を流してる密売屋だ」
作戦室で渡された資料を見つめながら、栞は口元をきゅっと結んだ。
「子どもたちには今でも人気らしい。近所の子にお菓子をあげたり、勉強を教えたり──それでいて裏では、殺し屋や密輸組織に住所リストを流してる」
翠が冷たく言う。
その横顔には一切の迷いがなかった。
「俺たちの任務は、“この男を始末すること”だ」
「……はい」
一言、返したものの。
栞の胸の奥には、得体の知れないもやもやが残っていた。
***
ターゲットの家は、ごく普通の住宅街にあった。
白い壁に緑の鉢植え。
子どもたちの笑い声が、塀越しに聞こえてくる。
「……本当に、“殺さなきゃいけない人”なんですか?」
「情報屋の本部が出した指令だ。俺たちはそれに従うだけだ」
「でも……」
「お前、また迷ってるな」
「……だって、見てくださいよ」
ちょうどその時、ターゲットの男が玄関先で近所の子に飴を手渡していた。
「ありがとう、おじちゃん!」
「お勉強また教えてね!」
無邪気に笑う子どもたち。
頭を撫でる男の表情には、まったく悪意など感じられない。
「こんな人が、本当に“死ぬべき”なんですか……?」
「──そうだ」
翠の声は、静かだった。
冷たくも、怒ってもいない。ただ、淡々と。
「子どもに優しいことと、裏で誰かを殺すことは、別の話だ」
「……」
「人は多面体だ。お前が見た“優しい顔”は本物だ。だが、俺たちはその“裏の顔”に裁きを下す」
「じゃあ……優しさは、どうなるんですか?」
「殺すしかねぇんだよ」
栞はハッと息を飲んだ。
翠の言葉は鋭く、重く、そしてどこか哀しかった。
「優しさを持ってるからこそ、殺す。……それが、俺たちだ」
***
夜。
男が一人で外に出るのを待ち、廃ビルの屋上に位置取り、銃を構える。
風が吹く。標的が視界に入る。
栞の指が引き金にかかる──けれど。
「……撃てない」
「栞」
後ろから、翠の声が響いた。
「任務中だ。撃て」
「でも……子どもが、明日もこの人を待ってるんですよ……」
「明日、他の誰かが殺されるかもしれない」
「っ……!」
「お前の優しさはわかる。だけど、それで救われる命があるなら、それは優しさじゃねぇ。ただの“甘さ”だ」
涙が滲む。
優しさを否定したくない。
だけど、現実は残酷で、誰かがその手を汚さなきゃ、救えない命がある。
栞は目を閉じ、ゆっくりと引き金を──
バン。
銃声。
標的は倒れた。
けれど、それを撃ったのは、栞ではなかった。
「……!」
「まだ無理だろ。わかってた」
翠はそう言って、銃を静かに下ろした。
「お前の優しさは、まだ“殺すための覚悟”になってない。それでいい」
「……っ、すみません……」
「謝るな。殺せなかったってことは、まだ“人間”でいられてる証拠だ」
翠はふっと目を細めた。
「焦るな。ゆっくりでいい。お前が“優しさを捨てずに、引き金を引ける日”が来るまで、俺がその代わりをやる」
その言葉が、温かかった。
冷酷で、無表情で、皮肉ばかり言う彼の口から、そんな言葉が出るなんて──
栞は唇を噛み、ただ、涙をこらえながら頷いた。
***
夜の帰り道。
「……翠さん」
「なんだ」
「もし、私が本当に殺し屋に向いてなかったら……その時は」
「殺す」
「……え?」
「俺が殺す。任務中にミスして、誰かが死ぬくらいならな」
「……なんで、ちょっと優しい風に言うんですか」
「優しさじゃねぇよ。自己保身だ」
「でも、今のちょっとだけ、救われました」
「バカか」
ふたりの足音が、静かな夜のアスファルトに響く。
優しさを殺す手。
その手に、まだ罪はある。
けれどいつか、その手で誰かを“救える”日が来ることを、栞は願っていた。
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