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(この日のことは、決して忘れない)
(その日、私は夫にこの世でいちばん大切なものを奪われた——)
自宅のキッチンで、火にかけた鍋と格闘している時だった。インターフォンが鳴ったので大急ぎで玄関へ走った。
私の暮らす家は、都内の2LDKの手狭なマンション。将来、子供が生まれた時のためにと夫の横山慎一(よこやましんいち)が選んだ部屋だが、今はただ、キッチンから玄関までの距離がもどかしい。
チェーンをもどかしく外しながら勢いよく扉を開ける。そこにはM運輸と書いたロゴの入った若そうな青年が立っていた。帽子を目深にかぶっているので、顔はよくわからない。ぴょこっと出た左耳にはダイアのピアスが光っていた。
いつもの大手運送会社じゃない。最近下請け業者がよく来るとのことだから、そんなものかと思った。
「M運輸です。横山慎一様宛てに、代引きのお荷物です。5,400円になります」
……代引き?
聞いていない。慎一はいつも、自分の趣味のものを勝手に注文して、受け取りと支払いを私に押し付ける。
「えっと……」
財布の中身を思い出し、指先が冷たくなる。
普段から生活費として渡されているのは、わずか2万円。
そこから5,400円を引けば、1週間分の食費が消える。
(また、私のお昼を削るしかない……)
仕方なく財布を取りに戻り、震える手で千円札を5枚と小銭を差し出した。キャンペーンです、と渡されたチラシと受け取ってそのままエプロンのポケットに入れ、荷物を持って急いでキッチンへ戻るが――。
鼻をつく嫌な臭い。鍋に火を強火でかけっぱなしだったことを失念していた!
「わっ、やっちゃった……!」
鍋の中では、奮発して買った牛肉が、嫌な臭いを放っていた。
私は料理が壊滅的に苦手だ。かつて慎一は「僕が作るから、美輪は好きな絵を描いてて」と言ってくれたのに。私は絵は得意でいくらでも描けるのに、料理の才能には無縁もいいところで、まともなご飯がいつまで経っても作れない。
そこへ玄関の鍵が開く音がして、夫の慎一がリビングへ現れた。
「……なに、この臭い。また失敗したの?」
帰宅した夫の慎一は、開口一番、ゴミを見るような目で私を射抜く。
「ごめんなさい、宅配が来て……」
「言い訳はいいよ。はぁ――」
慎一がこれ見よがしに、深く、重いため息をつく。
「いつになったらさ、まともな飯が作れるわけ? 仕事辞めて専業主婦になったんだから、それくらい義務だろ」
――仕事を辞めさせたのは、慎一のくせに。
デザイン事務所で彼より稼いでいた私に、彼は「女は家庭を守るのが一番の幸せだ」と説教を繰り返し、仕事を辞めさせた。
昔は数百、数千万円のプロジェクトを取って、たくさん成功させてきたのに。今ではご飯作りが下手だと罵られ、5千円ほどの支払いにも苦労している女に成り下がってしまった。
「さっき代引きで荷物が届いたの。PC用品だって。立て替えたから、お金……あとでもらえるかな?」
恐る恐る切り出すと、慎一はビールを喉に流し込み、鼻で笑った。
「ああ、いいよ」
いつもは支払いを渋る彼が、やけにあっさりと私に支払ってくれた。
「どうせ元は美輪の金だし」
「……え?」
「美輪の画材、全部売ってきた金だから」
ド ク ン……
心臓が止まったかと思った。
売ったってそんな……嘘でしょ!?
私は大急ぎで自室に飛び込み、クローゼットを開けた。
すると、そこに収めていたキャンバスも、イーゼルスタンドも、画材セット用具一式、すべてなくなっていた。
私の宝物が……!
「ねえっ、慎一どういうこと!?」
リビングでのんびりビールを傾けている夫に殺意が沸きながらも、声を押さえて尋ねた。「売ったってほんとうなの!?」
「ああ。君がいつまでも絵に執着するから、料理が上達しないんだよ。だからその罰」
「罰って……もともと料理はうまくないから、できないからごめんって言ってあったよね!?」
「でも、専業主婦になったんだから、いい加減現実見ろよ。それに、お義父さんの形見とかいう、後生大事にしていたそのセット、ぜんぶ売ってもたった1万円にしかならなかったけど」
「そんな……」
「僕は君にまともな幸せを教えてあげたいだけなんだ。そんな目で睨むなよ。ただでさえうまくない飯がまずくなるだろ」
彼の言葉は私の心臓をえぐり取る刃のようだった。
「悔しかったら、まともな一品でも作れるようになってから言えよ」
ジロリ、と私を睨みつける慎一。そして彼は、なんてことないように言った。「明日から母さんが料理を教えるってさ。朝から実家に行けよ。10時集合だってさ」
「そんな……! 明日は久々に静稀と約束が……!!」
「は? 友達と家庭、どっちが大事なんだ。これは決定事項。友達の方は断って」
ぎゅっと唇を噛んで俯いた。
「稼ぎのない人間に選択肢はないんだよ。ちゃんと断ってくれよ。なんなら僕が言おうか?」
「……いい。自分で言う」
「じゃあ、そういうことで」
慎一はビールを飲み干し、キッチンを去っていった。仕方なく電子レンジでチンして出した冷凍食品には、一切手をつけていない。彼が家で食事を摂らない時は、大抵、寄り道をして帰ってきた証拠。付き合いだからと言って、後輩にご馳走するのがプライドの高い彼のやり方。私にはなにもご馳走してくれないくせに……。
肩を落としてクローゼットを開けた。ついこの前までそこにあった、画材セット一式。父子家庭で育ったから、父から買ってもらったものはぜんぶ大切にしていた。あまり裕福な家庭じゃなかったから、いっぱい稼いでお父さんを楽させてあげたいって思って、ひたすら絵を描くことに打ち込んだ。
バリバリ稼げるようになった矢先、私の花嫁姿をみてすぐ、お父さんは病気で亡くなってしまった。
そんな父はいつも私の応援をしてくれた。
父がなけなしのお給料を貯めて買ってくれた画材セットは、結果、形見となってしまった。もう絵は描かなくなったけれど、セットを見るだけで安心できた。私の一番の宝物だったのに……。
涙が溢れて止まらなかった。
悔しい。
私だって仕事できたら、稼ぎがあれば買い戻せるのに。今の私には、そんな財力はない。
――ごめん、予定が入って明日行けなくなった
大学時代からの親友、生田静稀(いくたしずき)が、私の30歳の誕生日を祝ってくれるとはりきってくれていたのに。
すごく、すごく楽しみにしていたのに……。
私、なんで生きてるんだろ。楽しいこともできないで、好きでもない料理させられて、ぜんぜんうまくできなくて、苦しいよ。
これが一生続くんだって思うとゾッとする。もう……すごく、辛い。
悔しくて、なにもできない無力な自分にいちばん腹が立って。
ぎゅうっとエプロンを握りしめたら、グシャ、と中で音がした。
(あれ……なにか入ってる)
それはさっき、運送会社の青年が渡してくれたキャンペーンのチラシだった。
~復讐サロン~
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えっ。なにこれ、復讐サロン!?
いったい、どういうこと――?
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