テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
夜風が、頬を冷たく撫でた。
詩乃はコートの前を押さえながら、静かな住宅街を歩いていた。
「……すごい、迷惑かけちゃったな」
ぽつりと零れた声は、誰にも届かない。
頭に浮かぶのは、保育園での光景だった。
内定辞退を申し出て深く頭を下げた自分と、困ったように笑いながらも最後まで優しかった園長の顔。
『あなたは、きっといい保育士になると思っていたのだけど』
その言葉が、今になって胸へ滲んでくる。
詩乃は視界がぼやけるのを誤魔化すように強く瞬きをした。
ずっと夢見ていた未来は、もう手に入らない。
それでも、不思議と絶望ばかりではなかった。
妹ではなく、自分を選んでくれた人がいる。
たったそれだけの事実が、冷え切っていた心に小さな灯をともしていた。
(……あの人とだったら、上手くやっていける気がする)
まだ、たった一度会っただけなのに。
そんなことを考えてしまう自分に、詩乃は少し驚き、そして苦笑した。
その時だった。
路肩に停められた車の横を通り過ぎた瞬間、すぐそばで扉が乱暴に開いた。
「きゃ……っ!」
突然腕を掴まれ、強い力で身体を引き寄せられる。
「暴れるな」
耳元に落ちた低い声も、鼻をついた男の匂いも、何もかも知らないものだった。
恐怖で身体が強張りかけたが、このままではいけないと、詩乃は必死に腕を振りほどこうとする。
「いや……っ!」
掴まれたまま咄嗟にバッグを振り回すと、鈍い手応えとともに男の悲鳴が上がった。
「いってぇ!」
腕を掴んでいた力が緩む。
その隙を逃さず、詩乃は男の手を振りほどいて走り出した。
――逃げなきゃ。
心臓が壊れそうなほど激しく鳴り、冷たい空気を吸い込むたびに喉が痛んだ。それでも足を止めることはできない。背後から聞こえてくる荒い足音が、少しずつ距離を詰めてくる。
「待てコラ!」
怒鳴り声に背中を押されるように、詩乃は夢中で走った。
けれど、このままでは追いつかれる。
そう思った瞬間、視界の先に車道が見えた。
どこかへ逃げなければという思いだけで、詩乃は左右を確認する余裕もなく車道へ飛び出した。
直後、耳をつんざくようなブレーキ音が夜道に響き渡った。
驚いて顔を上げると、眩いヘッドライトが視界いっぱいに広がっている。
避けなければと思った時には、もう遅かった。
鈍い衝撃が全身を貫き、身体が宙へ浮く。
天地が逆さまになったように視界が回り、やがて何もかもが遠ざかっていく。
薄れていく意識の中で、なぜか浮かんだのは、今日も自分を囲んで笑っていた子どもたちの姿だった。
『しのせんせぇー!』
弾むような声が、耳の奥に蘇る。
――夢を叶えるまで、あと一歩。
そう信じていた未来ごと遠ざかっていくように、詩乃の意識はゆっくりと闇へ沈んでいった。
12
363
ゆずき
691
#子育て
都築七美
79
コメント
1件
みぅだよ🤍🥀 詩乃の気持ち、めちゃくちゃ伝わってきた…。夢を諦めた直後に「あの人とだったら」って思えるのが、切なくて温かくて。 でも最後の事故、まさかすぎて心臓止まるかと思ったよ。 子どもたちの声と一緒に闇に沈んでいく描写が、すごく映像的に浮かんで、胸がぎゅっとなった。 続きが気になる…!