コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
今まで考えたことも無かったが、自分は彼を、リオンを恋愛の対象として意識しているのだろうか。
そんな言葉が脳裏を過ぎり、暇が出来れば考え込んでしまっていたことにも気付いたのは、世間は真夏のバカンスで盛り上がっているのに、クリニックを休診してバカンスを取る事無く患者を診察していたウーヴェだった。
デスクで考え事をする時の癖で万年筆を親指の上でくるくると回転させていたが、それを止めて溜息と同時にデスクに万年筆を落としたウーヴェは、椅子を回転させて二重窓から見える真夏の空を見上げて再び溜息を零す。
先日、大学時代の友人と一緒に出向いたクラブでリオンと再会したが、彼と意外な場所で顔を合わせる事は今ではすっかり習慣化しているようなもので、そのことに対して最早驚きも感慨も抱かなかったが、一緒に踊ろうと誘われてウーヴェにしては珍しく同行者に断りを入れてリオンと一緒に踊ることを選択し、人生初といえるほどの曲数を踊ったのだ。
今までのウーヴェならば同行者を放置するような事はせず、後から出会ったリオンに次にどこかで会おうと約束をするはずだったが、友人に対して礼を失している事を忘れてしまうほどリオンと一緒にいる時間が楽しく、終わりが来なければいいと感じてしまうほどのもので、そんな感想を覚えたのも初めてだった為、帰りのタクシーの中でドライバーと他愛もない世間話をしながらも脳味噌はついさっきまで自分にだけ向けられている様な笑顔を思い出していた。
出会いは最悪な印象を互いに残したが、その後、意外な場所での再会を繰り返し、気がつけば今自分が追いかけている事件についてウーヴェの意見を求めにクリニックに顔を出し、時間が出来たから遊びに来たと言いつつも、実は患者がいるかどうかを見極めているらしいリオンと関係を深くしていったのだ。
そのリオンに抱く感情は、大学時代の友人達と引けを取らない程深い友情、のはずだった。
だが、二人で色とりどりの照明や思考回路を奪い取ってしまいそうな音楽に合わせて踊っている際、己に向けられる視線を真正面から受け止めることで呼吸を忘れてしまいそうになっていたのだ。
そんな事など今まで経験したことがなく、踊っている事で興奮しているんだろうと納得させていたが、リオンと別れて帰り着いた自宅の静寂がいつも以上に感じてしまって身体を震わせながら長い廊下をベッドルームに向かって歩いている時や、喉の渇きを癒すために冷蔵庫に常駐しているビールを取り出してボトルを開けた時にも、脳裏にはこちらに向けた真剣な視線や子供の様な笑みで彩った顔が浮かんでいたのだ。
どうして常にリオンの顔が浮かぶのか理由が分からずに頭を一つ振り、ビールを一気に飲み干してベッドルームに入ったウーヴェは、それについてそれ以上考えない様にと己に言い聞かせ、夜も遅い時間にシャワーを浴びて階下の住人から苦情を言われてはいけないとシャワーを浴びる事を断念し、ベッドに潜り込んだのだった。
不幸な事件により命を落とした彼女や、その彼女の前に付き合っていた幾人かの女性達にも感じることが無かった思いに本当に己はどうしてしまったのかと呆れて三度の溜息を零したウーヴェだったが、ドアが壊れてしまうのでは無いかと思うような物音が背後から響いて椅子の上で飛び上がってしまう。
「!?」
クリニックという場所柄、大声で話をする時以外で大きな物音がすることは少なかった。
だから突如響いたそれに心臓が口から飛び出るほどの驚愕を覚え、一体何があった、強盗か何かか、それならば受付にいるフラウ・オルガの悲鳴なり何なりが聞こえてくるはずなのにと、瞬時に最悪の出来事を思い浮かべ、デスクの下に設置してある警察への緊急通報のためのボタンに手を掛けてしまう。
そのボタンを押したことは今まで無かったが、秘書であり彼女でもあった女性がこの場所で命を落とした事件以来、リオンからの提案で設置したものだが、それが役に立つのだろうかと冷や汗が背筋を流れ落ちたのを感じた瞬間、今度は蝶番が吹っ飛びそうな勢いでドアが開く。
「ハロ、ドク!ボスに叱られて腹が立ったから職場を飛び出してきましたー!」
陽気な声と満面の笑みでドアノブに手を掛けているのは、つい今し方まで思考回路の中で付き合っていたリオンで、椅子の上で早鐘のように鳴り響く鼓動にうるさいと頭を振り、つい自然な動きで溜息を零すと、入ってきたのがテロリストや事件を起こそうとしている人間では無くリオンである安堵に胸を撫で下ろす。
「・・・きみはドアを壊すつもりか?」
「えー?これぐらいで壊れねぇって」
胸の鼓動を抑える為に呆れた声を出してしまったウーヴェは、ドアに肩で寄り掛かりながら拳で小さくノックし、こんな頑丈なドアが壊れることはないと朗らかに笑うリオンに釣られたように笑みを浮かべそうになるのを咳払いで堪え、それよりも警部に怒られたから飛び出して来たと聞いたが、そんなに警察は暇なのかと皮肉を口にするが、抑えきれないおかしさから口角を少し持ち上げてしまう。
そんなウーヴェに一つ肩を竦めたリオンだったが、一瞬だけ目を細めてドアを後ろ手で閉め、楽しそうに口笛を一つ吹いた事に気付いて小首を傾げる。
「どうした?」
「んー、初めてここでドクに会った時も似た様な顔で皮肉を言われたなーって」
今思い出しましたと笑ってデスクに向けて大股で近寄った後、それは、と口籠もってしまうウーヴェをデスクに手をついてリオンが見下ろし、にやりと太い笑みを浮かべる。
「それは・・・忘れてくれないか?」
「うん、忘れた」
吐く息が顔にかかりそうな距離で小さく笑い合う二人の間に、クラブで再会する前とは確実に何かが違う空気が流れ、どちらもそれに気付きながら言葉にすることは出来ずにいた為、この時も自分自身で理解できない溜息をひとつ落としてリオンが上体を元に戻し、ウーヴェも安堵の溜息を零す。
「街中バカンスで浮かれてるから、重大な事件とかあまり起きねぇんだよなぁ」
こんな事なら年柄年中バカンスでも良いのにと、ジーンズの尻ポケットに両手を突っ込みながら笑うリオンに微苦笑しつつ頷いたウーヴェだったが、そういえばドクはバカンスをどうするんだと問われメガネを軽く押し上げてビール祭に合わせて休むと答えると、意外そうにロイヤルブルーの双眸が見開かれ、今まで何度も聞かれては説明しながらも、大半の人達から納得や同意を得られないバカンスの時期をずらす説明をしなければならないのかと内心苦笑するが、ビールの死体は俺も見たくねぇもんなぁと笑われて呆気に取られてしまう。
「ドクはビール祭り嫌い?」
その問いかけは当然のものの様で思わず素直に頷いたウーヴェだったが、ああ、正確にはあれか、祭りが嫌いなのではなく祭りに乗じて大騒ぎをする人が嫌いじゃないのかと続けられてその鋭さに絶句してしまう。
学生の頃からだったが、学校で行われる行事にも積極的に参加しなかったウーヴェは、日頃は弱い相手にしかモノを言えない人間が、お祭り騒ぎに乗じて大騒ぎをすることをどうしても理解出来ずに心の底では軽蔑している程だった。
その気持ちは慎重に心の中に隠している為に誰にも気づかれることはなかったが、それを言い当てたリオンに驚くとともに、刑事という職業を差し引いても人を見る目の鋭さに舌を巻いてしまう。
「ドク?」
「・・・何でもない」
今まで見抜かれる事のなかった心の中を覗かれた事実に対する恐怖とそれ以外の感覚に小さく溜息を零し、不思議そうに見下ろしてくる顔を見上げたウーヴェだったが、再度リオンがデスクに両手をついて顔を寄せて来た為、条件反射の様に仰け反ってしまう。
「な、なんだ?」
「ねー、ドク、前に連れて行ってくれたバーあっただろ?」
「ん?あ、ああ、この間行った店か?」
「そう。あの店さ、俺が一人で行っても大丈夫かな」
あの時はドクがいたから問題なかったが、こんな俺が一人で行ったとして店の人は相手にしてくれるだろうかと問いかけた為、それは大丈夫だろうと苦笑しつつも、気に入ったのならまた一緒に行かないかと蒼い双眸を見上げると、嬉しそうに細められる。
「え、マジ?また一緒に行ってくれる?」
ドクと一緒だと今まで行ったことがない店にも行けるから嬉しいと素直に嬉しさを顔に出すリオンに釣られて小さく笑みを浮かべ、あの時の話を覚えているかと問われてメガネの下で目を瞬かせる。
「・・・一緒にいると苦しくなる人の事か?」
「そう。────ねぇ、ドク、この苦しいのってどうすれば消えるんでしょうね」
この苦しさを消してくれるのもその人だけだと思うんですけどねと、子供が浮かべる笑みとは似ても似つかない、人生の明暗を全て内包しつつ達観した人だけが浮かべる様な笑みを口元に浮かべられ、そう感じる相手のことがよほど好きなんだなと、前に二人で飲んだ時と同じ言葉を伝えると、好きなんて言葉で言えないほど好きと、とっておきの告白をする男の顔で囁かれてしまう。
「前も言っていたが、その人に伝えてみればどうだ?」
「・・・・・・好きって?」
「そう。言わないと伝わらないだろう?」
思っているだけで行動に移さなければ何も思っていないのと同じだろうと少しだけ真剣な顔でリオンを見上げ、人は言葉を持っている、ならばそれを使って自分の想いを伝えることもきみなら出来るだろうと続けると、一瞬呆気に取られた様に蒼い目が見開かれるが、徐々に口角が上向いていく。
「伝えなきゃわかんねぇよなぁ」
「ああ。以心伝心、一心同体、確かにそんな関係もあるしそれはそれで良い関係だと思うが、それだけではなく思っていることを言葉にすることも大切だ」
だからきみが感じている思いを伝えれば良いと頷いたウーヴェは、職場にまだ戻らなくても良いのなら何か飲むかと問いかけつつ受付で仕事をしているフラウ・オルガも誘って休憩にしようと受話器に手を伸ばすが、その手に遠慮がちに手が重ねられ、今まで見たことがない表情でリオンが見つめてきた事に気付いて呼吸を忘れそうになる。
「リオン・・・?」
真剣な色を浮かべる双眸から感情を読み取れず、また口元に浮かぶ微かな笑みの理由も分からずに一瞬焦燥感に囚われそうになるが、嫌な予感や不安を感じなかったウーヴェは、どうしたと吐息で問いかけて意味の分からないうんという返事を聞いて眉を寄せる。
「・・・ウーヴェ」
「な、なんだ・・・?」
知り合った時はヘル・バルツァーと少しの侮蔑すら込めた様に呼ばれ、互いの初対面の態度の悪さを反省し、アルマという少女の治療で友人という関係に急接近してからはリオンの名を呼ぶ様になったが、リオンからは親密さを感じさせるドクという呼び方が増えていた。
ウーヴェと名を呼ばれたのは先日のクラブで一緒に踊ろうと誘われた時ぐらいだとぼんやりと思案していたウーヴェの耳に、咄嗟に理解できない言葉が流れ込む。
「うん・・・好き、だ、ウーヴェ」
「・・・・・・俺、を?」
ウーヴェの手に手を重ねたままひっそりとした声で告白した言葉にウーヴェが思わず疑問を返してしまうが、何かを決意した様に離した手で拳を握った後、うん、お前が好きと、ウーヴェの目だけではなく心も奪われる笑顔で頷き、お前も俺を好きになってくれたら最高と少し照れた様に目を伏せる。
先日バーで飲んでいた時の初恋をしているという言葉が脳裏に蘇り、苦痛を与えてくる相手が己の事だと理解したウーヴェだったが、真っ先に芽生えてくる感情が胸を熱くするものだった為、ただ驚きに目を見張ってしまう。
リオンもウーヴェも今まで付き合ってきたのは女性ばかりで、同性に対して恋愛感情を抱くことはなかった。
だから疑うこともなく己は異性愛者だと思っていたが、今リオンに告白されて不快感や嫌悪感に代表される生理的な拒否感を覚えないどころか、好きになって欲しいとも言われ、そんなものは既に意識していると反論しそうになっている己もいて、脳味噌で考えるよりも先に心がああと納得の声をあげてしまう。
いつの頃からか心に焼きついた子供の様な笑顔や、それと比べれば信じられないほど老成した男の顔、アルマと一緒にここにやって来ては、彼女よりも子供らしい言動を繰り広げていた姿も、振り返ってみれば呆れながらも微笑ましく見守っていた己に気付き、ああ、ともう一度感嘆が混じった吐息を零してしまう。
今まで付き合ってきた彼女達にも感じたことの無い、総ての顔を見せてくれ、そして出来るならば笑顔を見せてくれという、ごく自然に己の中に芽生えた強い思い。
それを感じさせたのは、リオンただ一人だった。
「ウーヴェ・・・?」
返事がないために受け入れられなかったかと心配顔で名を呼ばれたのだと気付き、そんな顔をするなと伝える代わりに、暗さの中に沈みそうな太陽を引き止めたい一心で、不安に染まる頬を微かに震える指の背で撫でて目を見開かせる。
「・・・そんな顔をするな、リオン」
私のどこを好きになってくれたのかは分からないが、好きになってくれてありがとうと見開かれる目に一つ頷き、さっきの笑顔を見せてくれと小さく笑みを浮かべて今度は掌を頬に当てる。
「・・・いきなり笑えって言われても笑えねぇよ」
己の頬にあてがわれる手に手を重ね、そんなの無理だと言いながらリオンが浮かべた表情をウーヴェは一瞬で心に焼き付け、永遠に目を閉じるその瞬間まで決して忘れることはないと決意をした直後、リオンが前屈みになって顔を寄せてくる。
その意味を正確に理解し、頬と掌に挟まれた己の手が熱を帯びたことにも気付いたウーヴェは、眼鏡を逆の手で外して目を閉じると、予想よりも少しだけ乾燥している唇が遠慮がちに重ねられるのだった。
ボスから戻ってこいと電話が入った、だから今日は署に戻るとこの世の全てを呪いそうな顔で己の携帯を見下ろしながら呟いたリオンは、仕事だから仕方がない、早く戻れと苦笑するウーヴェをじっと見つめた後、デスクに行儀悪く尻を乗せ、目を丸くするウーヴェの頬を大きな手で撫でる。
「・・・っ!」
「次の休みにさ、デートしようぜ、ドク」
「ど、こに行きたいんだ?」
「んー、ドクの行きたい所って言いてぇけど、映画かサッカーの試合が良いなぁ」
楽しみにしている試合があるからと笑うリオンに頷き、スタジアムに今まで一度も行ったことがないが一度くらい行ってもいいかもしれないと頷くと、嬉しそうな気配が頬に重ねられた掌から伝わってくる。
「仕事に戻るかー」
「ああ、そうしろ」
リオンの腕を一つ撫でて行ってこいと言葉と手で背中を押したウーヴェの前で肩を落とすリオンだったが、はぁと溜息を零した後、小首を傾げるウーヴェの薄く開く唇に小さな音を立ててキスをする。
「────!!」
「行ってくる」
「あ、ああ」
二度目のキスを当たり前の顔でした後、手をあげて部屋を出て行ったリオンを呆然と見送ったウーヴェは、両開きのドアが開閉する音を小さく聞くと同時に全身から力が抜けそうになり、デスクに肘をついて手を組むと、今更ながらに感じた羞恥と、リオンと付き合うことになった現実と、好きだと自覚したばかりの相手に好きだと告白された歓喜から珍しく耳まで真っ赤にし、頭を抱えてしまうのだった。
クランプスが顔を真っ赤にしているから戻って来たと、仕事中に職場を抜け出した事を全く悪びれていない顔で言い放ったリオンは、愉快な仲間達と呼んでいる同僚達から冷たい視線を浴びせられても蚊に刺されたほどの痛みも感じていなかった。
「─────戻ったか、不良刑事」
「あ、警部・・・痛い痛い痛いっ!」
己のデスクに腰を下ろし、周囲が気味悪く感じるほどの上機嫌さで書類を取り出したリオンの背後に自室から出てきたヒンケルがやって来たかと思うと、握った拳をくすんだ金髪にぐりぐりと押し当てる。
悲鳴を上げるリオンを尻目に、今日も事件が無ければ皆定時に帰れ、リオンは途中で抜け出したから残れと命じ、周囲から歓声が上がるが、暴力反対俺も帰ると己の拳の下から人を呪い殺せそうな声が沸き上がり、ヒンケルが何か言ったかとリオンのピアスがいくつも嵌まる耳を引っ張る。
「いでー!!!」
「うるさいぞ、バカもん!」
拳を押し当て耳を引っ張ることで溜飲が下がったのか、ヒンケルが手を離して自室に戻り、リオンが涙目になる様子にさすがに心を痛めたのか、書類作業に取り組んでいたジルベルトが椅子を軋ませながら身体を反らせてデスクに突っ伏すリオンに気の毒そうな声を掛ける。
「大丈夫か、リオン」
「あー?くそー、あのクランプス!」
さっさとかごを背負って地獄に堕ちてこいと涙目で上司を罵ったリオンだったが、事件が無いから構わないが本当に急にどうしたと小さな声で問われて気分を切り替えるように頭を一つ振ると、背もたれを軋ませながら上体を反らして肩越しに同僚の男前な顔に笑みを浮かべる。
「・・・ドクと付き合うことになった」
「・・・っ、それ、は・・・」
リオンの告白にジルベルトが心底驚いた顔で椅子ごと振り返ってリオンを見つめると、好きだと自覚して間もないが、ドクも俺が好きだったみたいで付き合うことになったと笑うと、ジルベルトの顔にこれ以上はないと言う程の絶望感が広がり、それに気付いているのかいないのか、リオンがどうしたと声を掛けるが、ジルベルトが口を開くよりも先に周囲からどういうことだと問い詰める声と幾人かの同僚の顔が近寄り、それに驚いたリオンが椅子から転がり落ちてしまう。
「いてぇ!!」
「ドクと付き合うことになったってどういうことだ!?」
お前の言うドクとは、最近お前が良く情報を得ているウーヴェ・F・バルツァーかとフルネームで確認され、強かに打ち付けた尻を撫でつつ椅子に後ろ向きに座ったリオンは、その通りと満面の笑みを浮かべ、前にクラブで一緒に踊ったときに自覚したが、どうやらウーヴェも同じように思ってくれていたらしいと答えると、コニーやヴェルナーらが盛大に驚き、今度はいつまで持つだろうなぁと、歴代の彼女達のように短期間で終わってしまうのでは無いかと茶化されて蒼い目を丸くする。
「えー、ドクなら仕事に理解あるから大丈夫だと思うんだけどなー」
「ま、まあ、その辺はお前がちゃんとドクとコミュニケーションを取っていれば問題ないんじゃないかな?」
リオンの同僚で唯一の既婚者であるコニーが驚きつつも新しい恋人が出来たことは悪いことじゃない、ちゃんとコミュニケーションの時間を取れと先輩故の忠告をし、それもそうだなぁと頷いたリオンだったが、いつの間にかジルベルトが己のデスクに向かっている事に気付き、後ろ向きに座った椅子事彼の横に移動する。
「どーした、ジル?」
「お前ののろけ話なんて聞いてられるか」
今日はサッカーのゲームを見るために何が何でも定時で帰るんだからと、男前な顔を少しだけ曇らせながらもにやりと笑うジルベルトに、リオンもそのゲームは俺も見たいと叫び、やらなければならない仕事を思い出したと己のデスクへと向き直る。
いなければ刑事部屋が静かだったのにと、リオンが戻ってきたことで一気に騒々しくなった部屋に呆れたような溜息を吐いたマクシミリアンにヴェルナーも同意するように頷くが、背後のそんな遣り取りにもいつもならば調子を合わせるように文句を言うジルベルトは沈黙を通し、定時になると同時に誰にも何も言わずに職場を出て行ってしまうのだった。
その夜、途中抜け出した罰だと言わんばかりにヒンケルに仕事を押しつけられて不満たらたらな顔ながらもすべきことを終えて帰宅したリオンは、浮かれた様子で肩に愛車である青い自転車を担ぎながら階段を一段飛ばしに駆け上がって自室の鍵を開けようとするが、隣の部屋から初老の男が顔を見せ、今帰ってきたにしては随分と機嫌が良いなと笑いかけてくる。
「おー、じいさん、久しぶりだな。機嫌?良いに決まってるだろ」
「だから誰がじいさんだ」
「はは、気にするな。暑いからな、水分補給を忘れて死ぬんじゃねぇぞ、じいさん」
誰が死ぬかと笑いながら戻って行くお隣の住人に肩を竦め、ドアを開けて自転車をどんと下ろしてドアに鍵を掛けてその場で靴を脱ぐと、キッチンとも呼べないスペースに向かい、冷蔵庫を開けて奇跡的に存在している水を飲むと、古いパイプベッドを軋ませながら寝転がる。
初めての出会いは最悪だった。その印象を塗り替えたのは、彼の友人が巻き込まれた事件で見せられた誠実さだった。
そして、事件の度にどこかで出会う事を繰り返し、気がつけば何か出来事がある度に彼の顔が脳裏に浮かび、何もしていないときでもその声が耳の奥で木霊し始めたのだ。
そして、先日のクラブでの夢のような時間を経て好きだと自覚してからは、何をしていようともいなくても考えるようになり、気がつけばいつも傍にいたい、いて欲しいと思うようになっていた。
その彼とめでたく付き合うことになったが、同性である事から今までの彼女達とは何もかもが違ってくるだろうと想像するものの、具体的には何も想像出来なかった。
ただ、告白した後に目尻のほくろを少しだけ赤く染めた顔を見下ろした瞬間、同性だとか年上だとかの考えは一瞬で吹っ飛び、ああ、キスしてぇと思い、内心は怯えつつキスをしたのだ。
うっすらと目尻を赤くする年上の男など普通に考えれば色気を感じるどころか胸のむかつきを感じてもおかしくない存在だったが、見下ろした端正な顔からはそれを感じることは無く、それどころかもっとその顔を見てみたいとすら思えるほどだった。
あぁ、好きだなぁと呟き寝返りを打つと、尻ポケットに突っ込んであった携帯が一つ震え、何事だと取り出したリオンの顔にじわじわと笑みが浮かび上がり、携帯を抱え込むようにしてベッドの上で右に左に寝返りを打つ。
それは、たった今まで考えていたウーヴェからのメッセージのお知らせで、何が書かれているのかとどきどきしながらメッセージを開くと、今日の突然の告白についてかなり驚いた為にはっきりと返事をしなかった気がするが、私もきみが好きだ、だからこれからよろしくという、誠実さを通り越した生真面目な言葉が並び、こんなに生真面目な恋人なんて初めてだと笑ったリオンは、こちらこそよろしくと、まるでティーンエイジャーの恋人達が付き合いだした頃のような返事をすると、サッカーのチケットが手に入ったら必ず見に行こうと続けてメッセージを送り、ベッドに座り込んでタバコに火を付ける。
同性と付き合うのはウーヴェも初めてだろうがどんな関係になるのか、己の仕事に理解があると良いなぁと天井を見上げた後、タバコを揉み消してシャワーを浴びるためにベッドから飛び降りるのだった。
リオンよりは早く職場を出たウーヴェだったが、自宅で食事をする気持ちにならず、幼馴染みが腕を振るっているゲートルートへと向かうと、己専用であるパーティションの奥のテーブルへと向かう。
「バート、ラドラーをくれ」
「お前がラドラー?珍しいこともあるな」
いくらビールをグラス一杯までなら黙認されているとはいえ、ラドラーを飲むなんて珍しいと幼馴染みが盛大に驚いた顔をするが、今日はそんな気分なんだと返し、店がオープンする前から幼馴染みを支えてくれる心優しい青年が出してくれるチーズとプレッツェルに礼を言い、プレッツェルをちぎりながら今日のお薦めは何だと、厨房で忙しく手を動かしている幼馴染みにぞんざいに声を掛けると、今日はチキンだと教えられ、それを食べるがガレットを明日の朝食用に持ち帰りたいと伝えると、クヌーデルも作ってあるから持って帰れと朗らかに言い放たれる。
「ダンケ、バート」
「ああ」
最近は予約を取ることすら難しくなってきた店を切り盛りする幼馴染みのベルトランがオーダーに一区切りついたのか、汗を拭きつつウーヴェが座るテーブルの椅子を引いて水を飲む。
「・・・ラドラーを飲むなんて何か話でもあるのか?」
ここに顔を出したときから様子がおかしい事に気付いていたベルトランにさすがにお前には隠し事は出来ないなと肩を竦めたウーヴェは、男と付き合うことになったと呟いてラドラーを飲み干す。
「は!?お前が!?」
「ああ・・・クリニックで受付をしてくれていた彼女が亡くなった事件を覚えているか?」
ラドラーの微力を借りて口を滑らかに動かそうとしているのか、ふぅと溜息を吐いた後、驚愕に目を見張るベルトランの顔を上目遣いに見つめ、その事件で担当していた刑事だとも答えると、ウーヴェがラドラーを飲み干したのを見計らい、炭酸入りの水を持ってきたチーフもその言葉に驚いてしまう。
「刑事と付き合うのか、ウーヴェ?」
「・・・結果的にそうなった」
第一印象は互いに最悪だったが、それ以降に顔を合わせた時に嫌な思いをすることは無く、どちらかと言えば一緒にいて楽しい感じがしたと苦笑するウーヴェにチーフとベルトランが顔を見合わせ、お前がそう感じたのなら良いんじゃ無いかと同意するが、それにしても年下の刑事かぁと、ベルトランが意外そうに目を丸くする。
「俺が一番驚いてる」
「だよなぁ・・・まあ、今まで経験していないタイプだろ?」
新しい経験を沢山出来るかも知れないぞと笑う幼馴染みにウーヴェもそうであって欲しいと、どうせならば今まで経験した事が無い事をしてみたいと肩を竦め、チキンのクリームソース掛けを準備するためにベルトランが立ち上がる。
「ま、一度店に連れてこいよ」
「ああ、そうする」
「で、名前は?」
「リオンだ。リオン・H・ケーニヒ」
ベルトランの短い休憩が終わり、フライパンを手にお前の新しい恋人の名前は何だと問いかけると、ウーヴェが記憶の底からリオンのフルネームを掘り起こし、それを聞いたベルトランが口笛を一つ吹き、キングかすごい名前だなと苦笑するが、どうも事情がありそうだとウーヴェが返すと何かを察したのか、リオンのファミリーネームについてはそれ以上何も言わず、すぐに仕上げるからプレッツェルを食って待っていてくれとウーヴェに告げて料理に向き合うのだった。
幼馴染みお手製の、決してメニューに掲載されないガレットを持ち帰ったウーヴェは、食べている間にも付き合うことになったリオンという少し年下の青年について現時点で知る限りの情報を話し合っていたのだが、リオンと口の中でその名を呟いただけで、脳裏に浮かぶのは子どものような笑顔だった。
リオンよりは遙かにマシだがそれでも男の一人暮らしの冷蔵庫にガレットを放り込んだウーヴェは、先にシャワーを浴びようとバスルームに向かい、スーツやシャツをランドリーボックスに放り込む。
今思い浮かべた、子どものような笑顔と相反する老成した男の顔が脳裏に浮かび、どちらが本当に彼なのかと自問するが、きっとどちらも本当の彼だと自答する。
二つの顔を使い分けているのではなく、その場の空気に合わせて表情を変えることが出来る、悪く言えばカメレオンのようなものだとウーヴェが判断するが、何故そうなったのかを考えたとき、アルマという少女を通じて知る事になったリオンが育った孤児院での暮らしに考えが及び、ああと納得してしまう。
周囲にいる大人達の顔色を窺わなければならない、そんな状況が当たり前だったのでは無いか。
子供が子供らしく素直に感情を出せない、そんな抑圧された環境下にいたのではないのか。だから子どものような笑顔も、裏を返せばそうせざるを得なかった事情があったのではないか。
まるで患者に接しているときのように考えたウーヴェだったが、先走りすぎている事に気付き、付き合うのならばいずれその本性も見えてくるだろうと己の行き過ぎを自戒し、手早く髪を洗って身体も洗うとバスローブ姿で外に出る。
どんな顔を一体いくつ持っていて見せてくれるのか、自戒したばかりのことをやはり考えたウーヴェだったが、冷蔵庫からビールを取り出して渇いた喉を潤すと同時に、それが不安よりも期待に満ちている事に気付き、開けた王冠をシンクに捨てつつ肩を竦め、ベッドルームに戻る。
くるくる変わる表情は己とは正反対で、楽しいときには嬉しそうに、悲しいときにはそれは悲しそうな顔になるのでは無いか、ならばなるべく悲しい思いをさせないようにしようと無意識に決めたウーヴェだったが、告白に対する返事をしただろうかと思案し、明確に返事をしていなかったことを思い出す。
慌てることでは無いのに何故か無性に慌ててしまい、ベッドに投げ出してあった携帯を手に取ると、リオンから聞かされていた電話番号へとメッセージを送る準備をする。
生真面目だと友人達にからかわれる事は分かっているが、それでもちゃんと返事をしたいと生真面目に一人呟き、告白の返事をしていなかった気がする、私もきみが好きだ、これからよろしくと送るが、メッセージが送信されましたと画面に出た直後に気恥ずかしさに携帯を握りしめてしまう。
送らない方が良かったのでは無いかという後悔にウーヴェが珍しく唇を噛み締めていると、手の中で携帯が微かに震え、リオンからの返信が到着した事を教えてくれる。
恐る恐るその内容を確かめると、これからよろしくというウーヴェの生真面目さに付き合うような真面目な言葉が書かれていて、続いて届いたメッセージにはクリニックでも期待に満ちた声で告げられた、サッカーを見に行こうというお誘いの言葉が続けられていた。
一度も見に行ったことがないから見所を教えてくれと返し、お休みと返事を送ったウーヴェは、携帯を枕元に置いて夏用のコンフォーターを身体にかけると、条件反射で欠伸をしてしまう。
初めての出会いを思い返し、まさか付き合うことになるとはと自嘲すると、きっと楽しいことがこれから待っているのだろうと未来予想に胸を弾ませるが、まさか二人が抱えている悩みや生きていく事が辛くなるような事件に巻き込まれるなど、この時のウーヴェに想像出来るはずも無かった。
だが、心の裡を総て曝け出し、喜怒哀楽の感情の坩堝に放り込まれたような中でも、二人は互いに向き合いその手を離すことはなく、二人が出会うまでの人生で経験したことがない様な密度の濃い時をともに過ごし、友人や家族が二人の人生に憧れるような関係になれるなどとも考えられず、ただただ付き合うことになった恋人と初めてのデートはどうしようか、映画は何が好きなのかという、異性同性関わらずに付き合いだしたカップルが一度は考える事を考えつつ眠りに落ちるのだった。
窓の外、真夏の空が漸く暗くなり始めて太陽が寝床に帰ったことを教え、澄んだ夜空に夏の星々が二人の事を見守るようにきらきらと輝き始めるのだった。