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仕事を終え、ようやく帰宅した。 古いアパートの一階。今日も海風が湿っぽい。
いつも通りスーツを脱ぎ、シャワーを浴びようとした――その瞬間。
「……ん?」
浴室から、湯気とともに鼻歌が聞こえた。
しかもやけに上手い。というか……人の声。
「……は?」
恐る恐る扉を開ける。
(ガラッ)
「こんばんは。」
――いた。
バスタブの中で、金の髪がふわりと揺れ、
透き通るような肌をした青年がこちらを見上げていた。
そして――下半身は完全に魚だった。
「…………え?」
「こんばんは、聞こえてますか?」
「いや、聞こえてるけど!? 誰!? なんで俺の風呂に!?」
「海が荒れてて……避難しました。」
「避難!? 魚が避難!?」
「魚ではありません、人魚です。」
湊は乾いた笑いを漏らす。
「……あ、そ。じゃあ帰って。」
「海がまだ荒れてるので、今日はここに泊まります。」
「決定早っ!」
青年――リオと名乗るその“人魚”は、
堂々と湯船の中でくつろぎながら続けた。
「お湯ってすごいですね。海水より柔らかくて、泡が気持ちいいです。」
「泡ってそれ、俺のボディソープ……!」
「最高です。おかわりありますか?」
「飲み物じゃねぇ!」
湊は頭を抱えた。
風呂場の床は水びたし、シャンプーのボトルは倒れ、
何より――尾びれが湯船からはみ出てる。
「なあ……お前、どっから入ったんだよ。」
「窓から。」
「網戸あるんだけど!?」
「壊しました。硬かったです。」
「硬いとかじゃなくて犯罪!!」
バサッ、とリオの尾びれが湯を跳ね上げ、湊のスウェットを濡らした。
まるで「気にするな」と言うように、彼はにこにこしている。
「……湊さんは怒ると、眉が下がるんですね。かわいい。」
「かっ……!? 今さらっと何言った!?」
「褒めました。」
「褒め方の角度おかしいだろ!!」
湊がタオルで床を拭きながらため息をつく。
するとリオが静かに問いかけた。
「……追い出しますか?」
「……は?」
「海が、まだ遠いんです。」
ふと見たリオの目は、さっきまでの無邪気さとは違って、
どこか――深い海の色をしていた。
数秒の沈黙。
そして湊は、頭を掻いて言った。
「……一晩だけな。」
「!」
「明日の朝には、帰るんだぞ。」
「はい。恩返しに、あなたを見守ります。」
「いやそれ絶対いらない恩返し!」
こうして、風呂付き・人魚つきの生活が始まった。
――湊の平穏は、潮と一緒にどこかへ流れていったのだった。