テラーノベル
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ねこむすび
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スマートフォンのアラームを止めると、カーテンの隙間から入ってくる光が、いつもの夏の朝より鈍かった。
大輝は布団の上で上半身を起こし、カーテンを半分だけ開けた。八木山《やぎやま》の空は一面の雲に覆われていて、向かいの棟の外壁が、湿った灰色の光をそのまま映している。窓を少し引くと、冷えきらない湿気が部屋の中へ流れ込んできた。雨の音はしない。手すりの下の植え込みだけが、まだ濡れた色をしていた。
部屋を出ると、リビングの換気扇が低く回っていた。
陽斗がキッチンのコンロ脇に寄りかかり、換気扇の真下で煙草を吸っている。片手にはスマートフォン。ダイニングテーブルの上には、昨夜寄ったコンビニのレジ袋が口を開けたまま置いてあった。
「おはよ」
「おはよ」
陽斗はスマートフォンを持ったまま、左手首のG-SHOCKへ目を落とした。黒い八角形のベゼルの内側で、白い針が7時を少し回ったところを指している。
「お前今7時だぞ。30分で支度間に合うの?」
「平気っしょ。いけるいける」
陽斗は煙を換気扇の方へ細く吐いた。ピースライトの甘い匂いが、湿った空気に混じって薄く残る。
大輝は袋の中から自分の分のパンとペットボトルのコーヒーを抜き出し、椅子を引いて座った。陽斗の分はもう袋の底で畳まれている。先に食べ終えたらしい。
陽斗が画面を見たまま、鼻から短く煙を抜いた。
「赤城、朝から上げてる」
「早起きだね」
「『おはようございます。今日は黒森です。14時から配信もあります』だって。車の写真付き」
大輝はパンの包装を破った。乾いた音が、静かなリビングに響く。
「リプは?」
「もう200近い。ほとんど『見に行きます』と『配信待機』」
陽斗は親指で画面を送り続けた。
「あと、まだAT言ってるやつがちょいちょいいる」
「まだ言ってんだ」
「で、そいつら全部に『事務所の声明読め』って返して回ってるやつがいる。同じアカウントで」
陽斗が小さく笑って、画面をこちらへ向けた。短い返信が縦に流れていく中に、ところどころ、下へ返信がいくつもぶら下がった投稿が混じっていた。
「暇だなあ」
「そう言うなし」
「この情熱を別の事に充ててほしいもんだね」
陽斗は灰皿で煙草を押し潰し、スマートフォンをポケットへ入れて洗面所の方へ歩いていった。大輝はパンを齧りながら、コーヒーのキャップを捻った。水の流れる音がして、少しするとドライヤーの音に変わる。
最後のひと口をコーヒーで流し込み、包装をレジ袋へ戻して口を縛った。
ドライヤーが止んで陽斗が出てくるのと入れ替わりに、洗面所へ入る。
歯を磨きながら鏡を見ると、寝癖の付いた茶金の髪があちこちへ跳ねていた。濡らした手で軽く押さえ、指先で前髪をほぐす。前髪はすぐに眉のあたりへ落ちてくる。それ以上はいじらなかった。
部屋へ戻り、クローゼットを開ける。
寝間着代わりのTシャツを脱いで、ハンガーから白いTシャツを外した。胸にAlien Workshopのロゴが入った1枚に頭を通し、裾を引いて肩の位置を合わせる。それから、洗いざらしで紺の褪せたRED KAPのワークパンツに脚を入れた。生地はもう身体に馴染んでいて、膝を曲げても突っ張らない。裾が靴の甲で少したわむ長さだった。
ハンガーに掛けていたチャコールの薄手のジャケットは、色が抜けて灰色に近くなっている。手に取ったが、袖は通さずに腕へ掛けた。
ベッドの脇には、昨夜のうちにまとめておいた荷物が並んでいる。ヘルメットバッグと、レーシングスーツを畳んで入れたダッフル。グローブとシューズは、ダッフルの外ポケットに入れてあった。大輝は外ポケットのファスナーを一度開けて中を覗き、また閉めた。
両方の持ち手を片手にまとめて掴み、ジャケットを掛けた腕でヘルメットバッグを抱える。いつも黒森へ行く時は、ここまで両手が塞がらない。
リビングに出ると、陽斗がソファーの背に掛けていた薄手のジップパーカーを羽織るところだった。下にはPrimitiveのロゴが入ったTシャツが見えている。色の抜けたベージュの古着のチノは太めで、裾が足首の上で溜まっていた。
「それ持とうか?」
陽斗が顎で大輝の腕のヘルメットバッグを指した。
「じゃあよろしく」
大輝がダッフルを差し出すと、陽斗は持ち手を肩へ掛けた。
「重っ。何入ってんの」
「スーツとシューズとグローブ。あと着替え」
「着替えいる?」
「汗かくだろ」
「持つなんて言わなきゃよかったよ、マジで」
陽斗は文句を言いながら、テーブルの上のレジ袋も空いた方の手で拾った。ゴミ出しのついでらしい。
玄関で、大輝はヘルメットバッグを床へ置き、黒地に白のラインが入ったVansのSpeed LSに足を入れた。かかとを指で起こし、紐を引き締めて蝶結びにする。もう片方も同じように締めた。隣では陽斗がNikeのBlazer Lowに踵を押し込んでいて、つま先の擦り傷が玄関の灯りの下で白っぽく見えた。
「鍵持った?」
「持った」
陽斗がドアを押し開け、2人で外廊下へ出る。鍵を回すと、乾いた音が共用廊下の奥まで伸びていった。
エントランスのオートロックを抜けると、外の空気が肌にまとわりついた。暑くはない。湿り気だけが、腕の内側にじわりと残る。駐車場のアスファルトは大半が乾いて白っぽくなっていたが、植え込みの際と、隣の棟の影になる一角だけが黒いままだった。陽斗が集積所の前で足を止め、レジ袋をカゴへ放り込んだ。
エボXは駐車場の端に停めてあった。ライトニングブルーマイカのボンネットに細かな水滴が点々と残っていて、雲越しの光を小さく拾っている。
大輝はトランクを開け、ヘルメットバッグを奥へ寝かせた。陽斗がダッフルを肩から下ろして、その手前へ押し込む。トランクを閉めてから、大輝は車の周りをひと回りした。前輪の前でしゃがみ、V107のトレッドに目を落とす。一昨日の夜に慣らした表面は細かな梨地になっていて、溝に小石も噛んでいない。後ろへ回って同じように見て、運転席側へ戻った。
陽斗はもう助手席に乗り込んでいた。
ドアを開けて運転席へ腰を下ろし、ジャケットを後部座席へ放る。ブレーキを踏んでイグニッションを捻ると、4B11がいつもの調子で目を覚ました。メーターの針が一度振れて戻り、警告灯が順に消えていく。助手席側の3連メーターでは、水温の針がまだ低いところにいた。センターコンソールのスイッチは、SSTクーラーがOFF、ウォータースプレーがAUTOのまま。昨日から触っていない。
ディスプレイオーディオにスマートフォンが繋がり、CarPlayの画面が立ち上がる。大輝はプレイリストを少し送ってから、1曲選んで再生した。
ギターとベースが短く音を置いたあと、乾いたカッティングと跳ねるようなベースが噛み合い始めた。Red Hot Chili Peppersの「Show Me Your Soul」だった。
陽斗がスマートフォンから顔を上げ、ディスプレイの曲名を見た。
「朝からこれ?」
「お前好きだろ」
「好きだけど」
陽斗はそれ以上何も言わず、シートの背にもたれて窓の外へ目をやった。指先が膝の上で、ベースに合わせて小さく動いている。
ブレーキを踏んだままシフトレバーをDへ入れ、パーキングブレーキのボタンを押し込んでレバーを下ろす。ディスプレイの隅の時計は7時29分だった。右足をブレーキから離すと、エボXはゆっくり駐車枠を出た。
寮の前の通りへ出たところで、動物公園の入口の看板が左手に流れていった。開園前の門の前には、まだ誰もいない。
八木山本町の坂を下りていくと、道沿いの家並みの間から、雲の下に広がる青雲の街がのぞいた。ビルの頭がどれも同じ灰色に沈んでいて、遠くのほうは湿気で輪郭がぼやけている。下り坂の途中、街路樹が覆いかぶさる区間だけ、路面が濃い色のまま残っていた。タイヤがそこを踏むたびに、ロードノイズがわずかに湿った音へ変わる。
向山《むかいやま》の住宅街を抜け、愛宕《あたご》大橋へ出る。橋の上で視界が開け、眼下を広瀬川が流れていった。川面は空と同じ鈍い色をしていて、河原の草がところどころ寝ている。前を走る軽自動車が、橋の継ぎ目を越えるたびに小さく揺れた。
曲が切り替わり、歪んだギターとドラムが一緒に鳴り出した。Smashing Pumpkinsの「Bury Me」だった。
「お、Gish」
陽斗がディスプレイへ目を向け、窓枠に肘を乗せ直した。大輝は何も返さず、ステアリングに添えた指でリズムを拾った。
五橋《いつつばし》の交差点で信号に引っかかった。土曜日の朝の中心部は、平日ほど車が詰まっていない。それでも横断歩道の前には、部活らしいジャージ姿の高校生や、開店前の店へ向かう人が何人か立っている。前のバスが停留所で客を降ろし、ウインカーを出して流れへ戻っていった。
陽斗がポケットからスマートフォンを出し、画面を親指で送った。
「昼に傘マーク1個あるわ」
「昼って何時ごろ?」
「そこまで見てねえわ」
信号が青に変わる。大輝はアクセルを踏み、SSTが2速、3速と静かに繋いでいくのを足の裏で受けた。
青雲駅の東口側へ回ると、ビルの谷間を抜ける風が少し強くなった。南寄りの風で、湿った空気を街の奥へ押し込んでくる。二十人町《にじゅうにんまち》の通りに入ると建物の背が低くなり、榴ヶ岡《つつじがおか》公園の木々が右手に現れた。公園沿いの歩道では、犬を連れた人がゆっくり歩いている。木の下の路面はまだ黒く濡れていて、そこだけ空気の匂いが違った。窓を閉めていても、エアコンの外気導入から土の匂いが入ってくる。
原町《はらのまち》の街並みを過ぎ、坂下の交差点を抜けてR街道へ入った。
道が北東へ向かって素直に伸び、両側にロードサイドの店や営業所が並び始める。どこもまだシャッターが下りているか、駐車場が空っぽだった。8時を回ったころ、山崎の交差点で信号待ちになった。前のワンボックスの後ろで止まり、大輝はメーターへ目を落とす。水温の針は、もう普段の位置で落ち着いていた。
「受付、西麓のいつもんとこでいいんだよな」
陽斗が窓の外を見たまま言った。
「たぶん。着いたら係の人いるっしょ」
「たぶんかよ」
「行きゃ分かるって」
陽斗が鼻で笑った。
今市《いまいち》を抜けると、岩切《いわきり》大橋が見えてくる。七北田川を渡る橋の上で、前の車列が少し間を詰めた。川沿いの土手には背の高い草が伸びていて、雲越しの光の中でも緑が濃い。橋を下りると、また店と住宅が交互に並ぶ景色に戻った。
洞ノ口《ほらのくち》のあたりで、陽斗がパーカーのポケットからガムを出し、1枚を大輝の方へ差し出した。
「いる?」
「くれ」
大輝は前を見たまま手だけ伸ばして受け取り、包み紙を片手で剥いて口へ放り込んだ。ミントの冷たさが、車内の空気の中で妙にはっきりしている。包み紙をドアポケットへ押し込んだところで、8時10分を過ぎていた。
「今日、啓司も来んの?」
陽斗がガムを噛みながら訊いた。
「どうだろ。矢文送られてきてねえからな」
R町の神谷沢《かみやざわ》に入ると、道の両側に田んぼと低い丘が交互に現れた。ナビの画面が分岐を示し、案内の声が短く鳴る。大輝はウインカーを出して、R街道から黒森へ続く道へ入った。
道幅が少し狭まり、緩い上りに変わる。両側から木々が迫ってきて、雲の光がさらに一段落ちた。ここは街中より乾きが遅いらしく、木陰になった路面は全体に色が濃い。日の当たる側の路肩だけが白っぽく乾き始めていて、道の上に明るい帯と暗い帯がまだらに並んでいた。V107がその境目を越えるたび、ステアリングに返ってくる手応えがわずかに変わる。大輝は速度を少し落とした。
前方のカーブの先に、見慣れない車の尻が見えた。リアガラスにショップのステッカーを並べたハイエースで、カーブを抜けると、その前にも積載車や荷物を満載したワンボックスが何台か続いている。どの車も、この道をいつもより少し遅い速度で上っていた。
「もうこんな来てんの」
陽斗が前を覗き込んで言った。
「店の人とかじゃね。客はまだだろ」
大輝はそう返して、前の車との間隔を少し空けた。
坂を上りきったところで木々が切れ、西麓の管理区画のゲートが見えてきた。ゲートの手前には車が数台並んでいて、反射ベストを着た係員が、1台ずつ窓越しに何か話しかけている。
車列の最後尾について、ブレーキを踏む。ディスプレイの時計は8時19分を示していた。
大輝は運転席の窓を半分ほど下げた。
外の空気が流れ込んでくる。街で吸ったのと同じ湿り気に、濡れた落ち葉と土の匂いが混じっていた。遠くで誰かのエンジンが短く吹け上がり、すぐに静まる。
前の車がゲートを抜けて、係員がこちらへ向かって手を上げた。
大輝はブレーキを緩め、エボXを1台分前へ進めた。
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## 感想 おつかれさまです〜!読了したよ🌸 今回、普段のバチバチなバトル描写じゃなくて、朝の準備〜移動までの空気感がすごく丁寧に描かれてて、逆に新鮮だった!湿気を含んだ夏の朝の感じとか、陽斗との何気ない会話とか、リアルで画面越しに匂いが伝わってきそうだったよ😭 特に「朝からこれ?」「お前好きだろ」のやり取り、この二人の関係性が一瞬で分かる良いシーンだったな〜。あと、車の細かい描写(タイヤチェックとか水温計とか)がマジで車好きの人間ならではの視点だなって思った。 次は西麓でどんな展開が待ってるのか、めっちゃ気になる!楽しみにしてるよ、ああああさん✨