テラーノベル
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その森は、入った人間の「名前」を奪うと言われていた。
もちろん、そんな話を本気にするやつなんていない。僕もその一人だった。
夏休みの終わり、退屈していた僕は、友達の健太と一緒にその森へ向かった。地元では少し有名な場所で、「入ると方向感覚がおかしくなる」とか、「誰かに呼ばれる」とか、ありがちな噂ばかりだった。
「名前奪うってなんやねん、RPGかよ」
健太が笑う。僕も笑いながら、森の中へ足を踏み入れた。
最初は普通だった。木漏れ日、虫の音、湿った土の匂い。どこにでもある森。
でも、五分も歩かないうちに違和感が出てきた。
「なあ、こんな静かやったっけ?」
僕が言うと、健太も周りを見回す。
虫の音が、消えていた。
さっきまであれだけうるさかったのに、今は完全な無音だ。
その代わりに、妙な音が聞こえてくる。
誰かが、小さな声で何かを繰り返しているような。
「……なあ、今なんか聞こえへん?」
健太が小声で言う。
僕も耳を澄ます。
確かに聞こえる。
――「……けんた……」
はっきりと。
健太の名前だった。
「は?」
健太が固まる。
もう一度、声がする。
――「けんた……こっち……」
森の奥からだった。
「誰やねん、ふざけんなって」
健太は強がるように笑ったが、その顔は引きつっていた。
僕は急に嫌な予感がして、「戻ろう」と言った。
けれど、そのときだった。
「……あれ?」
健太が自分の頭を押さえた。
「俺の名前……なんやったっけ?」
一瞬、冗談かと思った。
でも、健太の目は本気だった。
「何言ってんねん、健太やろ」
そう言った瞬間、自分の声に違和感が走る。
「健太」という言葉が、やけに遠く感じる。
「……それ、俺の名前やったっけ?」
健太がつぶやく。
そのとき、また声がした。
今度は、二人分。
――「けんた……」
――「……おまえも……」
背筋が凍った。
「走るぞ!」
僕は健太の腕を掴んで走り出した。
出口の方向なんて分からない。ただ、声と逆方向へ。
でも、走れば走るほど、声は近づいてくる。
そして気づく。
声が、増えている。
最初は一つだったのに、今は何人もが同時に呼んでいる。
しかも、その中に――
「……俺の名前……」
自分の名前が混じっていた。
ぞっとする。
呼ばれるたびに、頭の中がぼやけていく。
自分が誰なのか、何をしに来たのか、それすら曖昧になる。
隣を見ると、健太の顔も変わっていた。
「……お前、誰やったっけ?」
その一言で、完全に恐怖が弾けた。
このままじゃ、全部忘れる。
僕は必死に考えた。
名前を奪われる。
なら――
「聞くな!!」
僕は叫んだ。
「呼ばれても、絶対に反応するな!!」
健太の手を強く握る。
「俺らは帰る!名前なんか関係ない!」
そう言って、目を閉じて走った。
声はすぐそばまで来ていた。
何度も、何度も名前を呼ばれる。
でも、無視した。
ひたすら前へ。
やがて、足元の土の感触が変わる。
固い地面。
そして、光。
気づくと、森の外に飛び出していた。
僕たちはその場に倒れ込んだ。
夕日がやけに眩しい。
しばらくして、健太が口を開いた。
「……助かったんか?」
僕はうなずいた。
それから、少し考えて言った。
「……なあ、お前の名前、覚えてる?」
健太は黙った。
そして、首を横に振る。
「……わからん」
僕も同じだった。
自分の名前が、思い出せない。
でも、不思議と恐怖はなかった。
代わりに、奇妙な安心感があった。
名前がなくても、生きていける。
そう思ってしまう自分がいた。
ふと、森の方を見る。
木々の奥で、何かが揺れた気がした。
そして、風もないのに――声が聞こえた。
――「また、おいで」
僕たちは顔を見合わせた。
そして、なぜか同時に笑った。
「……また来るか」
理由は分からない。
でも、その約束だけは、はっきり覚えていた。
名前は忘れたのに。
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