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𝓗𝓪𝓶𝓾
809
#アイドル
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26
──どれくらいそこにそうして突っ立っていたのか、不意にポーンとエレベーターが着いたことを知らせる音が鳴って、ビクッと顔を上げた。
「……舞さん」
中から降りて来た麗華さんに、名前が呼びかけられ、
「……もしかして、気になって帰れなかったの?」
と、問いかけられた。
「あっ……はい……」つい本音がこぼれる。
「そうだったの、ごめんなさいね」彼女が謝って、「私も急いでたから、何の説明もできなくて」と、話した。
「明日の朝に提出する書類に、社長に目を通してもらって決裁を仰ぐ必要があって。急なことだったから、メールでは済ませられなくて、直接伺ったんだけど。でも彼とは、本当にもう何もないから、舞さんも心配しないで」
彼女がそばに寄ると、愛用の華やかなフラワーベースのフレグランスがふわりと香った。
「そうだ、これからあのお店に飲みに行かない? 前に私と飲んでくれたでしょう? あの時のお返しを今日は私にさせて」
「はい……」と、小さく頷くと、
「じゃあ、行きましょう」
と、彼女は先に立って歩き出して行った。
鷹騰社長の所有するバーで、カウンター席に並んで腰かけた。
彼女はカルーアミルクを頼み、私はいつもと同じドライマティーニをオーダーした。
「……彼とは、うまくいってるのかしら?」
グラスを軽く合わせた後で、そう問われて、
「……ええ、まぁ…」
と、まだ少し乗り切らない気持ちを抱えたまま、カクテルグラスを口に運んだ。
「……ドライマティーニ、気に入ったのね」
口を付けたグラスの中味に、彼女が目を留める。
こくっと頷いて、グラスを置くと、
「……ここで最後に話をした時にも、やっぱりあの人はそれを飲んでいて」
彼女が頬づえをついて、ふと呟いた。
「……マティーニを飲みながら、彼の方から別れ話を切り出された時にね、そうなることはとっくにわかっていたような気がしたの……」
そう口にすると、手にしたグラスを紅くルージュの引かれた唇に傾けた。
「……私といても、あの人はビジネスライクな付き合いにしか思えなかったから……」
言って、ふっ……と小さく息を吐くと、「だからね……」と、私の顔をじっと見つめた。
「だから初めてあなたとエレベーターで会った時に、すぐにわかったわ。……ああ彼は、この彼女に惹かれているんだなって……」
そう話すのに、「え……?」と思わずマティーニを飲む手を止めた。
「……エレベーターの降り際に、あなたの名前を呼んでいたでしょう? その呼び方がとても優しい感じがしたから……彼は、きっと恋をしているんだろうって思って」
グラスを手にしたまま、彼女の話に少なからず衝撃を受けていると、
「……ちょっと、ドライマティーニをもらってもいい?」
私の持ったグラスに、ふと視線が向けられた。
「ああ、はい。飲みさしでよければ」
自分の飲み口を紙ナプキンで軽く拭って差し出すと、「ありがとう」と彼女が受け取って一口を飲んだ。
「やっぱり辛くて、私には合わないみたい……」と、グラスが返される。
「……私もドライマティーニが飲めたら何か変わっていたのかしらね……と思ったんだけど、きっとそんなことじゃなかったのよね……」
言ってカウンターに両肘を付けると、わずかにお酒に火照った頬を、彼女は両方の手で包み込んだ……。
「……あなたと付き合うようになって、あの人は変わったから」
彼女がふぅーっとひと息を吐いて、そう口に出す。
「……変わったんですか?」
私自身にはあまり実感もなくて、そう問い返した。
彼女が「ええ……」と、頷いて、
「仕事をセーブして、あなたとのプライベートな時間を作るようになったでしょう? だから今日だって定時退社をしていて……それで、急な要件でお邪魔することになってしまったのだけれど。以前は、そんなこともなかったもの。仕事、仕事で」
グラスを手に持つと、片手は頬に添えたままで、麗華さんがカランと中の氷を回した。
「私とは仕事の延長でしか付き合えなかったのよね。プライベートとは切り離して考えられなかったのが、舞さんにはちゃんと考えてあげられていて、毎日が楽しそうにも見えてよかったって思ってる……。
……正直に言ったら、うらやましく感じてしまうところもあるけれど。だけどそれよりもね、あんなにも仕事人間だったあの人を変えてくれたあなたに、ありがとうって思えていて……」
そこまで話して、「ちょっと酔ったみたいね」と、目尻をすっと指で拭って、「こんなことを話してごめんなさいね…」と、彼女は微かな笑みを浮かべて見せた。
彼女の気持ちが痛いくらいに伝わって、
「謝られることなんて、何も……」
と、首を何度も横に振って応えた。
「……私もね、すごく好きだったのあの人のことが。うまくはいかなかったけど、本当に好きで……」
そこまで言うと、今まで堪えていた涙が瞳から堰を切って溢れ、彼女が両手で顔を覆った。
「……麗華さん」思わずその肩を抱くと、
「……大丈夫よ、もう整理はついてるから」と、彼女がうつむいていた顔を上げ手を外した。
「……大事にしてあげてね。私が言うことではないかもしれないけど。……私は、あの人を仕事面でサポートするビジネスパートナーに徹するから……」
バッグから取り出したハンカチで涙を拭うと、麗華さんは吹っ切れたように、そう口にした。
「はい……」頷くと、
「乾杯しましょう? 最後に」
いつかの時と同じように、グラスがカチンと合わされ、
「幸せを、祈ってるわね」
柔らかで穏やかな笑みとともに、そう言葉がかけられた──。
コメント
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麗華さんの「大事にしてあげてね」という言葉、すごく胸にきましたね。彼女の“整理がついた”という強がりと、それでも涙が溢れてしまう気持ちの両方を丁寧に描かれていて、読んでいて切なくなりました。舞さんに「ありがとう」と言える麗華さんの強さに、私も少しもらい泣きしそうです。お二人の関係がここで一つの決着を迎えた感じがして、とても余韻が残る回でした。