最近の僕らは喧嘩ばかりだ。性格も好みもまるで違う僕らは、そんなお互いから刺激を受けるように惹かれあったはずだったのに、今ではその差異がお互いのストレスを生み出す要因となっていた。
「もう無理でしょ、無理だよ」
元貴が冷たい目で僕を見ながらそう言い放って部屋を出ていったのは昨日の夜だ。何か大きな喧嘩の原因があったわけではなかった。ただ、ちょっとした意見の違いからくるすれ違い。でも、これまでに蓄積してきたたくさんのそういった些細なすれ違いを、その場しのぎにしてきたことへのツケがまわってきたに違いなかった。
そういえば、と、ふと朝パンに塗る用のジャムがもうすぐ終わりそうだったことを思い出す。ジャムの並んだ棚の前で、彼のお気に入りのいちごジャムを手に取ってから、思い直してそれを棚に戻した。新しいものは、もうあの部屋には必要ないだろう。僕らに未来がないことを、僕だってもうちゃんと分かっている。込み上げてきそうになる涙を必死にこらえながら、僕は慌ててスーパーを後にした。
家に帰ると、見慣れた靴が綺麗に揃えて置かれていた。元貴のものだ。彼が帰ってきたのだ。どうしよう、と僕は咄嗟に部屋を出ようとした。彼の冷たい目を思い出した。低い声がまた耳元で聞こえるかのようだった。あの目で、声で、はっきりと現実を告げられるのが怖かった。しかし、ドアノブに再び手をかけた時
「涼ちゃん?」
リビングから姿を現す彼。玄関の廊下は薄暗いから、表情まではよく分からない。
「……帰ってきたならあがればいいのに。何してるの」
怪訝そうな声。
「えっと……」
「早く来てよ、話したいこともあるし」
言い淀む僕に、はっきりと言い放つ彼。話とは昨日の続きに違いなかった。いよいよ来てしまったのだこの時が。僕は泥濘にはまったように重たい足をなんとか持ち上げて、靴を脱いだ。
「座んないの?」
リビングの入口に立ち尽くしていると、元貴が器用に片眉を持ち上げながら訝しげに聞いてきた。あまり表情が変わらないから、何を考えているのか分からなくて、それがいっそう僕に恐怖を与えた。おずおずと席に着くと、元貴がテーブルの上に乗っていた小さな白い箱をこちらに差し出す。
「なに、これ?」
「開けて」
たった一言だけ。なんかもう少し説明とかさ、してくれてもいいんじゃないの。僕は少しもたつきながら、その箱を開ける。
「いちご大福……?」
中には真っ赤ないちごが中心に据えられた大福がふたつ。白色の餅で包まれたものと薄桃色のもの。それがコントラストになって、まるでふたつでひとつと言わんばかりに箱の中ですましている。
「仲直りしようと思って。涼ちゃん好きでしょ、いちご」
僕は戸惑いながら彼を見た。僕は一度もいちごが好きだなんて言ったことはなくて、むしろそれが好きなのは彼の方のはずだった。毎朝のいちごジャムは彼の好みに合わせただけで、実は僕はそこまでいちごが好きというわけではなかった。でもそうか、僕らが同棲を始める時、たまたま僕が元の家から持ってきたジャムがいちごだった。そしてそのジャムが終わる時に、元貴がいちごのジャムを買ってきたのだ。だから僕はてっきり彼はいちごが好きなのだと思って……でも彼から直接そうだと聞いたことは無い。もしかしたら彼もいちごはそんなに好きではなかったかもしれない。今更だけれど。あぁ、僕らはいちごが好きかどうかとか、そんな単純な話すらはしてこなかったんだな。
「……ありがとう」
でも大丈夫、ここで笑っておけば僕らはきっとまた上手くやっていける。幸せなはずのあの時間を取り戻せるのだ。
そう思うのに、僕は上手く笑えなかった。ひきつったような笑みを浮かべる頬に生暖かい雫が伝っていく。それは、必死に堪えようとする僕の意思に反して次から次へと溢れてくる。
「ごめん、元貴」
僕の声は情けなく震えていた。
「僕が思うに、きっと僕らはもう……」
彼は黙ったまま椅子から立ち上がり、僕を抱きしめた。
「そんな、悲しいこといわないでよ涼ちゃん」
彼の声も震えている。痛いくらいに力が込められた彼の腕にそっと触れて、僕はかぶりを振った。
「ごめんね」
僕のその声に、彼は腕から力を抜き、そのまま僕から離れた。
「涼ちゃん」
何か言いたげに僕の名前を呼ぶ彼。でも結局、息を呑んだだけで、そのまま部屋から出ていった。僕は、最後まで彼の顔をみることができなかった。その後は、しばらく魂が抜けたかのようにぼんやりと虚空をみつめていた。何もする気が起きなかった。何かを考えたくもなかった。少しでも思考を開始すれば、彼との思い出が僕の脳を支配するに違いなかった。
それでも世界は、通常通りに時を刻んでいく。ただ認識しているだけの窓の外の景色はだんだんと茜色に染まっていく。カーテンの影は伸びていって、やがて部屋の中の闇と溶け合った。すっかり暗くなった部屋の中で僕は独りだった。窓から見える街には人の活動の証拠たる光が次第に増えていって、それがひどく疎ましかった。その時、ぐぅ、とお腹が間抜けな音を立てた。こんな時でも人はちゃんとお腹が空くんだ、と思わず力無く笑ってしまう。
僕は、彼が置いていったいちご大福をひとつ手に取った。白色のもの。強く握ったら潰れてしまいそうなやわらかなそれの中に、まるで核のようにいちごがその存在を確かにしていて、しっかりと重い。透明なセロハンの包み紙を開いて、僕はそれに歯を立てた。やわらかなお餅と固めのいちご、甘い甘い白餡を重たげなく楽しませるための、少しすっぱめのいちご。対比のようで、彼らはちゃんと調和し合っている。まるで昔の僕らみたいだ、なんて思ってから、そんなに綺麗なものでもなかっただろうと苦笑する。
僕はひとくちだけ齧ったそれを包み紙の上に置いた。箱に残った薄桃色のいちご大福は、片割れを失ってもなお、いちご大福として存在し続ける。そんなの当たり前のことなのに、なんでふたつ並んだそれをみた時は、片方が欠けることを恐ろしく不安に思ったのだろう。
明日、ジャムを買おう。自分のためだけのジャム。
それはきっとマーマレードがいい。
※※※
実際の涼ちゃんはもっくんがいちごが好きではないのなんて知っているでしょうがここはフィクションということでひとつ🤫
お互いに歩み寄りをみせていたつもりなのに、言葉が足りないとそれがかえってあだになることはいろんな場面に通じますね
コメント
6件
すごく切ない、、😭 お互いに、お互いがいちごが好きだと思って相手に気を使っているつもりだったのね この、人の心の機微というか、関係の複雑さの描写がさすがすぎる~ スイーツからこんなにいろんなお話が生まれるのもすごすぎ😻
ほんとにその通りでしかない🥲言わなければ伝わらない聞こうとしないくとも分からない
やばあ、、、泣 最高ですよ、、まじ尊敬、