珍しく仕事が定時で終わり、いつもより早く家に帰ったら
彼氏の浮気現場に遭遇した。
その声が聞こえたのは、玄関から伸びる廊下の付き当たり、私の寝室からだ。
「ミキちゃんってホント可愛いねー」
「あ、ダメ」
渡しておいた合鍵で部屋へ入ったのか、玄関には彼のスニーカーと私のではないヒールが脱ぎ捨てられていて
(あー、これは寝室に直行したパターンか……)
なんて分析しながら向かった寝室の扉越しに聞いた彼の「かわいい」という言葉に、言いたくもない不満が零れる。
(かわいいとか……私はここ最近、言われたこと無いんですけど?)
しばらく美容院にすら行けてなくて目にかかってしまったうっとおしい前髪を払って、静かに寝室の扉を開けると、数センチの隙間からベッドの下に散らばる衣類が見えた。
それが「誰の」「何」なのかは、部屋が薄暗くなっていて判断できないが、自分の彼氏がベッドの上で見知らぬ女性とイチャイチャしている時点で浮気を立証するにはもう十分なほど証拠は揃っている。
ナニかが始まってしまう前に踏み込もうとしたとき、私よりもはるかにキーの高い女性の声が「待って」と彼を制止する。
「……ヒロシ君って彼女いるんじゃないの?」
「ん~?どうだろ、忘れちゃった。ってかまだそんなこと考える余裕があるってことは俺の努力が足りないってことー?そろそろ本気、出しちゃっていい?」
私の彼氏は今から浮気をするために「本気」を出すそうだ。
……なんだ、それ。
「お取込み中、すみませーん!」
勢いよく扉を開けるとベッドの上で重なり合う男女の姿があり、私と目が合った女性は身体を隠しながら悲鳴を上げた。
これじゃ、まるで私の方が悪者みたいだ。
「!?……ッ……おま、帰ってくるの早くない!?」
「悪い?ここは私の家なんですけど」
「帰ってくるなら連絡ぐらいしろよ」
「連絡したとしても気づかなかったでしょう?この状況じゃ」
「ッあの……ごめんなさいっ……私」
「あ、ううん。大丈夫。どうせこの男が誘ったと思うし。でも、簡単に家に上がり込んじゃだめよ。この人は無理やりするような人じゃないけど、世の中には怖い人もいるから気を付けてね」
「あ、ありがとうございます?」
「あのね、私、この人と話たいことがあるから申し訳ないんだけど服着たら帰ってもらえるかな?」
彼氏の浮気現場に遭遇したのに何故こんなに冷静でいられるのか?
その答えはとても簡単。
私の彼、ヒロシが浮気をしたのはこれで4回目だ。
「……何か言うことはないの?」
「あの子はただの遊びだって」
「そんなこと聞いてるんじゃないよ」
「もしかして怒ってる?分かってるだろ。俺には一花(いちか)だけだから」
ヒロシはさっきまで別の女性に触れていた腕で私を抱きしめた。
浮気を繰り返しても最後には私だけだと言ってくれる彼の言葉が、私を身動き取れない程、 雁字(がんじ)搦(がら)めにする。
動けないならせめて苦しくない方がいいと、諦めるみたいに彼を許す。その繰り返し。
4回目となるとさすがに浮気されることに慣れてしまったらしい。だけど、決して「平気」なわけではない。
だから、こんなくだらない駆け引きだってしたくなる。
「もう、別れる……」
口に出して言ってはみたものの、気持ちが入っていない言葉はこんな嘘っぽく聞こえるんだとまるで他人事のように思った。
でも、それでもいい。
私が欲しいのは「別れたくない」という言葉だけ。「俺にはお前が必要だ」と口に出して言ってほしいだけ。
「分かった」
「…………。ん!?」
予想外の彼の言葉に、分かりやすく動揺した私の心臓はバクバクと速い脈を打った。
「あ、あのね!別れるって言ってもヒロシがもう浮気しないって約束してくれたら私はそれで――」
「あのさぁ、一花の良いところは浮気しても許してくれるところだよ?それをやるなって言われると付き合ってる意味ないってゆーか」
そう言いながら煙草に火をつけたヒロシは上を見上げ、フーと白い煙を吐いた。
「意味ない……ですか?」
アレ、なんか敬語出た。
「まぁ、ぶっちゃけね」
「あ、そう……」
「じゃあ、俺もう行くわ。あんま仕事頑張りすぎんなよー」
そう言って振り返ることもせずにヒロシは去っていった。玄関のドアが閉まった後、扉の小口から小さなカギが投げ入れられた。
空っぽの受け箱に落ちたその音は思わず笑ってしまうほど軽く、間抜けな音を残していった。
「で、またフラれたってわけね」
「またって言わないでよっ!まだ傷が癒えてないの。優しくしてください」
「自業自得でしょ?アンタがあの男を選んで付き合ったんだから」
大学時代からの親友である 三園(みその)美和子(みわこ)の言葉に、ぐうの音もでない私はガクリと肩を落とした。
美和子の言うことは間違っていない。だけどこんなのってあんまりだ。
23歳の時からヒロシと付き合い始めて2年が経って、年齢的にそろそろ「結婚」というものを意識していた矢先だった。
浮気性な彼氏と結婚したいか?と、聞かれたら答えはNOだ。
だけど、最後には私のところへ戻ってきてくれる。それだけで十分だと思っていたのに……。
「フラれるんだもんなぁ……」
「別れて正解だってあんな男。いつまでも落ち込んでないで、一花はソレどうにかしなさいよ」
「ソレってなによ」
「クズでクソみたいなダメ男にしか魅力を感じないって性癖」
「……クズで糞みたいなダメ男は言い過ぎじゃないですかね?」
「いいえ。これまでの元カレたちを表すのに、これ以上的確な言葉はない」
ここでもぐうの音も出ない私は口をつぐむしかなく、俯きながら氷が溶けてしまって薄くなったコーヒーのストローを咥えた。
「一緒にいても不幸になるって分かってる人をどうして好きになっちゃうの?」
「どうしてって……」
きっかけは10年以上も前のあの出来事だったと思う。
「うちのクラスに転校生が来るんだって!」
クラスメイトのそんな言葉を聞いた中学2年の夏、おとなしそうな男の子が先生の後から教室へ入ってきた。
突然の転校生に私も含め、クラスのみんなは色めきだって、
どこから来たの?
どんなものが好き?
得意なことは?
そんな友達になるための第一歩のような質問に、転校生ははにかみながら答える。同級生たちはそんな想像をしていたのかもしれない。
だけどその転校生は――
「…………」
俯いたまま、何も答えなかった。
そんな転校生が孤立していくのにそう時間はかからなかったし、もしかしたら彼も、初めからそれを望んでいたのかもしれない。
でも、その頃の私は今よりはるかに純粋で無垢で
彼を救いたいと、本気で思っていた。
挨拶すら返事が返ってこなくても、一方的でも、彼の机の前に座り、話をした。
だけど、それから半年も経たずに彼はまた転校してしまった。
当時の同級生からしてみれば、青春の1ページにもならないような出来事だったかもしれない。
でも私にとってその出来事は、挫折とか後悔とか、自分の無力さを心に刻むには十分すぎて、10年経った今でも思い出すほどに、夢に見るほどに残っている。
それから月日が経って20代も折り返しとなった私だが、その転校生を救えなかったという思いはこじれにこじれ、ダメな男性を見ると放ってはおけなくて、この人には私が必要だと強く思うようになっていった。
こうして晴れてダメ男しか愛せない女がここに完成した。
だから
失恋したばっかりで心がどれだけ弱っていたとしても
「本日挨拶を任されました、中条(なかじょう)太一(たいち)と申します。今日から四ノ宮企画社とフロックス社は経営統合し、両社の企画部はこれからひとつのチームとしてやっていくこととなりました」
仕事ができて、人当たりも良さそうで
「私もまだまだ未熟者で皆様にご迷惑をかけてしまうことがあるかもしれません」
謙虚で、気遣いも出来て、場の空気も読めて
「優秀なフロックス社の皆様のお力とご指導を受けながら、いいものを作っていきたいと思っております」
文句の付け所がないほどのイケメンで、尊敬できる人で、私だけを見てくれて、溺れそうなほど愛してくれて。
そんな王子様みたいな人が現れて、映画のようなドラマティックな展開が待っていようとも
「よろしくお願いします」
私が恋に落ちることは、ない。
「おーい、一花くん。聞いてるかね、綾瀬(あやせ)一花(いちか)くん!」
「ッあ、はい!」
「まったく、しっかりしてくれよ!この会社の企画部の飛躍は君と彼にかかっているんだぞ!」
「綾瀬……、一花?」
「え?」
さっきまで女子社員が目を離せなくなるほどの笑顔を振りまき、挨拶をしていた人物が、私の前まで歩み寄ってきたかと思えば、じっと穴が開くほど見つめてくる。
四ノ宮企画社には、かなり仕事の出来る人がいるという噂を耳にしたが、きっとその人物は今、私の目の前にいる彼で間違いない。
例え、今日から同じ会社の仲間として働くとしても、どっちが有能かというマウンティングはもう始まっていて嫌味のひとつでも言われるのかと身構えた。
「――して、……さい」
「あのー、聞き取りにくいのでもうちょっと大きな声で話してもらえると助かる――」
「俺と結婚してください」
さて、突然イケメンから結婚を申し込まれるという展開から始まった残念な25歳の独身女を主人公にした私の物語。
失恋からの大逆転シンデレラストーリーを期待している人には、大事なことなのでもう一度言っておこうと思う。
私、綾瀬一花はダメ男しか愛せない女だ。
そして会ったばかりでプロポーズしてきた目の前の男は、それに当てはまらない完璧な男。
なので答えはこうである。
「お断りします」
コメント
3件
comicoで大好きだった作品がまた読めることになって、本当に嬉しいです!
なんか人気ないの草()