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上野文
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第321話 カプセルの中
【現実世界/湾岸工業地帯・旧再生医療研究施設】
海から吹く風が、錆びたフェンスを小さく揺らしていた。
建物の正面には、すでに使われていない会社名が残っている。
窓の多くは暗い。
駐車場にも車はない。
入口には閉鎖を知らせる古い表示。
外から見れば、何年も放置された研究施設にしか見えなかった。
だが
建物の裏へ回れば
今も使われているものがある。
新しい配線。
交換されたばかりの空調部品。
人の手が入った非常用発電機。
そして。
建物脇の設備箱からは、低い作動音が続いている。
木崎がそれを見て言った。
「閉鎖してる建物の音じゃねえな」
城ヶ峰も頷く。
「中に何か生かしてる」
日下部が令状を確認した。
「入れます」
その言葉で捜索班が動いた。
◆ ◆ ◆
【旧再生医療研究施設/一階】
内部は静かだった。
正面ロビーには埃が積もっている。
受付。
待合スペース。
壁に残る研究紹介のパネル。
表から見える範囲だけなら、本当に閉鎖施設だ。
木崎が床を見る。
「誰も歩いてねえな」
鑑識員がライトを当てる。
「少なくともここは最近使われていません」
日下部が建物図面を開く。
「地下入口は奥です」
「正面から行けるのか」
「図面上では」
城ヶ峰が聞き返す。
「図面上では?」
「現在の管理図では地下区画自体がありません」
古い建築資料。
そこには確かに
地下二階まで存在している。
だが後年作られた管理資料では
地下は一階まで。
さらに新しい資料では地下そのものが消えている。
木崎が苦笑した。
「階段までなかったことにしたのかよ」
日下部が答える。
「書類では」
「建物は消えねえだろ」
三人は奥へ進んだ。
◆ ◆ ◆
地下へ続くはずの場所には壁があった。
白い内装壁。
何の変哲もない。
だが城ヶ峰が近づく。
「ここだな」
古い図面ではその向こうに階段。
鑑識員が壁を確認する。
「後から塞いでいます」
「壊せるか」
木崎が聞く。
「できます」
数分後。
内装材が外された。
その奥。
金属製の扉。
電子錠。
電源は生きていた。
日下部が息を吐く。
「これで完全に言い訳できなくなりましたね」
木崎が言う。
「まだだ」
「何がですか」
「中を見るまでだ」
扉を開く。
冷たい空気が流れてきた。
◆ ◆ ◆
地下への階段は驚くほど綺麗だった。
上階とは違う。
埃が少ない。
非常灯が点いている。
壁の一部も補修されている。
誰かが定期的に出入りしていた。
地下二階。
最後の扉を開いた瞬間。
空気が変わった。
低い機械音。
一定間隔の電子音。
換気音。
そして医療施設特有の消毒液に近い匂い。
木崎が足を止める。
「……いたな」
「まだ分かりません」
日下部が答える。
だが声は硬い。
廊下の左右には使われなくなった研究室。
奥へ進む。
一つ。
二つ。
さらに最後の区画。
そこだけ
扉の造りが違った。
厚い。
気密式。
日下部が端末を見る。
「電力消費、この先です」
城ヶ峰が捜索班へ合図する。
扉が開いた。
◆ ◆ ◆
部屋の中央。
大きな生命維持カプセルがあった。
透明な蓋。
循環装置。
呼吸補助。
複数の監視端末。
人ひとりを
長期間生かしたまま保存するための設備。
そして。
カプセルの中には。
誰もいなかった。
木崎の表情が変わる。
「……空か」
日下部がゆっくり近づく。
内部には液体が残っている。
完全に乾いていない。
配管も一部は接続されたまま。
だが人間はいない。
城ヶ峰がカプセルを見る。
「遅かったか」
木崎がすぐ返した。
「違う」
城ヶ峰が見る。
木崎は透明な蓋を指す。
「ここまで残して、身体だけ消えてる」
そして。
「最初から空だった場所じゃねえ」
◆ ◆ ◆
鑑識がすぐに調べ始めた。
カプセル内部。
排水口。
寝台部分。
固定具。
呼吸器。
採血ライン。
人がいた痕跡を探す。
日下部は端末側へ回った。
ほとんどの記録は消されている。
患者名なし。
管理番号なし。
治療履歴なし。
だが。
機械そのものの動作ログまでは
完全には消えていなかった。
「城ヶ峰さん」
「何だ」
「長いです」
表示された稼働履歴。
生命維持モード。
連続運転。
何度も保守を挟みながら。
長期間。
木崎が画面を見る。
「何年だ」
日下部が計算する。
「途中で記録欠損があります。でも、少なくとも数年」
城ヶ峰の目が細くなる。
「梓の失踪時期と合うか」
「確認します」
日付を重ねる。
榊原梓が
クロスゲート社から消えた時期。
白峰が
身体を生命維持へ移したと証言した時期。
そして。
この装置の本格稼働開始。
日下部が黙る。
木崎が聞く。
「どうだ」
「……かなり近いです」
「かなり?」
「日単位まで一致とは言えません。ただ」
表示を拡大する。
「稼働開始は、梓さんが会社記録から消えた直後です」
城ヶ峰がカプセルを見る。
偶然にしては出来すぎている。
◆ ◆ ◆
さらに鑑識員が呼んだ。
「これ見てください」
カプセル内部の隅。
ごく小さな付着物。
毛髪。
皮膚片。
さらに。
医療用固定具の内側。
乾燥した微量の血液。
木崎が聞く。
「DNA取れるか」
「状態次第ですが、可能性はあります」
日下部がすぐに言う。
「榊原梓の照合試料はあります」
旧社員健康診断。
過去の医療記録。
家族側。
複数の比較資料。
城ヶ峰が言った。
「最優先で回せ」
「はい」
その時別の鑑識員が
装置裏の保守パネルを開いた。
「こっちにもあります」
古い紙。
電子記録ではない。
手書きに近い。
保守記録。
そこに名前はない。
代わりに。
《S.A.》
木崎が止まる。
日下部も見る。
「S.A……」
榊原。
梓。
偶然かもしれない。
だがさらに記録をめくる。
《S.A./循環安定》
《S.A./脳幹反応維持》
《S.A./意識反応なし》
《S.A./生命維持継続》
城ヶ峰の顔が変わった。
「……これだな」
木崎はすぐには頷かなかった。
「まだ確定じゃねえ」
「分かってる」
「でも」
城ヶ峰が続ける。
「ここに誰かがいたことは確定だ」
そして。
「その人物が榊原梓である可能性は、かなり高い」
◆ ◆ ◆
昼過ぎ。
最初の簡易照合結果が出た。
日下部が無言で画面を見ている。
木崎が近づく。
「どうした」
日下部が画面を向けた。
《毛髪試料》
《榊原梓・保存DNA資料》
《一致可能性・極めて高》
完全な正式判定ではない。
だが、捜査上十分だった。
木崎がカプセルを見る。
「いたんだな」
城ヶ峰も空の内部を見る。
「ここに」
榊原梓は
確かにこの場所で生きていた。
意識が別の世界へ飛ばされたまま。
身体だけが。
何年もここに置かれていた。
だが今はいない。
◆ ◆ ◆
「いつ動かされた」
城ヶ峰の言葉で捜査の方向が変わった。
日下部が生命維持装置の停止履歴を確認する。
「完全停止が一回あります」
木崎が見る。
「いつ」
日付が表示される。
数か月前。
梓の身体がこの場所から消えた時期。
ただ。
時刻だけ不自然だった。
午前二時十三分。
木崎が言う。
「夜中か」
「はい」
「保守?」
「その日は保守予定なし」
「停電は」
「なし」
城ヶ峰が聞く。
「再稼働は?」
日下部が首を振る。
「ありません」
その日を最後に。
生命維持モードは一度も使われていない。
つまり。
装置が壊れたのではない。
不要になった。
身体がここからなくなったから。
日下部が別の記録を開く。
「同じ日の搬入口記録を探します」
「カメラは?」
「削除されています」
「車両記録」
「今見ます」
木崎が言う。
「道路側も洗え」
「はい」
城ヶ峰は空のカプセルから目を離さなかった。
◆ ◆ ◆
しばらくして。
日下部が別の数字へ目を止めた。
「待ってください」
「何だ」
「この日付」
生命維持停止日。
別の資料と重ねる。
以前。
クロスゲート社から押収した。
物資搬送記録。
その中に同じ日の深夜。
一件だけ。
不明な搬送。
送り元。
湾岸地区。
送り先。
記載なし。
木崎が画面を睨む。
「これか」
「可能性はあります」
「車は?」
「医療搬送用の大型車両です」
「会社名」
「これもダミーです」
城ヶ峰が聞く。
「追えるか」
日下部はすぐに答えた。
「追います」
「どこまで」
「道路記録、防犯カメラ、給油、ETC、整備記録。残ってるもの全部」
木崎が頷く。
「やれ」
◆ ◆ ◆
城ヶ峰はもう一度
空のカプセルへ近づいた。
透明な蓋。
人が眠っていた跡。
固定具。
髪の毛。
血。
生命維持の記録。
全てある。
なのに、本人だけがいない。
木崎が横へ来る。
「悔しいか」
城ヶ峰は少し考えた。
「いや」
「そうか?」
「ああ」
空のカプセルを見る。
「ここが空だったからって、外したわけじゃない」
木崎が目を向ける。
「むしろ逆だ」
城ヶ峰は言った。
「榊原梓が、ここにいたことが分かった」
そして。
「ここから先へ動かされたことも」
木崎が頷く。
「なら次は、その先だ」
「そういうことだ」
二人の後ろで
日下部が新しい搬送経路の解析を始めている。
画面上
湾岸の施設から一本の線が伸びる。
まだ行き先はない。
だが
榊原梓の身体は消えたのではない。
誰かが
もう一度運んだ。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深部】
白峰律は
現実側から届いた報告を聞いていた。
《旧再生医療研究施設》
《榊原梓の生体痕跡確認》
《生命維持装置・長期使用》
《身体・現存せず》
《数か月前・搬出の可能性》
白峰は
長い間何も言わなかった。
榊原梓の光も
静かだった。
やがて。
白峰が聞く。
「数か月前」
カシウスを見る。
「あなたが動かしたんですか」
カシウスは答えない。
「私が身体を預けたあと、一度だけじゃない」
白峰の声が低くなる。
「さらに動かした」
沈黙。
それが。
答えだった。
白峰は目を閉じる。
「なぜです」
カシウスがようやく口を開く。
「必要だったからだ」
「何に」
「保存に」
「嘘ですね」
カシウスの目が僅かに細くなる。
白峰は
榊原梓の光を見る。
「保存だけなら、ここで十分だった」
現実側の資料が示している。
電力。
酸素。
生命維持。
設備。
問題なく続いていた。
それなのに。
身体を動かした。
「何から隠したんです」
カシウスは答えない。
白峰は静かに続けた。
「雲賀匠からですか」
梓の光が
僅かに揺れた。
カシウスは。
それでも。
何も言わなかった。
コメント
1件
第321話、読み終えた感想をありがとう。 ついに榊原梓の痕跡が確定したな…。空っぽのカプセル、生命維持の記録、そして「S.A.」の手書きメモ。全部あるのに、本人だけがいないという非情な状況がたまらなかった。城ヶ峰の「ここが空だったからって、外したわけじゃない」って返し、熱いよな。白峰とカシウスの静かな緊張感もゾクゾクした。 身体が動かされた「数か月前」、雲賀匠から「隠した」って流れ、ここからどう転がるんだろう。まだ終わらせたくない気持ちでいっぱいだ。続き、ずっと待ってる🔥