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心だけが、少し遅れて。
夏の入り口に差し掛かった、とある体育館。
地域のマーチングクラブの練習は、学校とはまた違う空気が漂っていた。
真剣さと、少しの緊張と、音が混ざり合った独特の空気。
サックスを抱えた僕ーー中学二年。
そしてその数メートル先には、クラリネットを持った中一の彼女。
僕たちは同じクラブにいるのに、ほとんど話したことがない。
去年、僕が中一だった頃もそうだ。当時、彼女は小六だった。
結果としては、県大会、支部大会で金賞。
そして、全国大会は銀賞。
これだけ見ると、とても頑張ったと思う人もいるだろう。
たしかに、頑張らなかったなんてことはない。
でも、あの頃はただ必死で、周りを見る余裕なんてなかった。
まして、同じ列に並ぶ小さなクラリネットの子の表情まで気にする余裕なんて。
「サックス、もっと音大きくして!しっかり楽器に息を吹き込む!!」
このクラブ、部活の中心となるサックス出身の顧問の先生の声が、体育館に響く。
厳しいけれど、その分だけ音がまとまっていくのが僕たちにも分かる。
そして、その隣ではトランペット出身の女性の先生が、顧問の先生と小さく言葉を交わしながら部員の様子を見ている。
少し離れたところでは、パーカッションの男性の先生が静かにリズムを刻んでいた。
そんな中でふと横を見ると、少し離れた場所に立つ彼女が視界に入った。
彼女は、視線を譜面に落としたまま、ほとんど表情を変えない。
けれど時々、ほんの一瞬だけこちらを見る。
でもそのたび、目が合う前に静かに逸らされる。
……別に、気になるわけじゃない。
ただ、去年より少しだけ気になる。それだけのはずなのにーー。
その“少し”が、どうしようもなく気になった。
でも、話しかけるきっかけなんてない。
学年や年齢、パートという距離もある。
それに話しかけるのが恥ずかしいし……正直、怖かった。
一歩が踏み出せなかった。
そして、そんなことを考えてるうちに練習が終わり、片付けに入る。
クラリネットのケースを閉める音が、近くで聞こえた。
ふと振り返ると、彼女がほんの一瞬だけ僕を見た。
……やっぱり話しかけたい。
でも、彼女の周りにはクラリネットの人たちが沢山いて。
僕はそのまま何も言えず、ケースを抱えて下を向いた。
言葉はまだ交わさない。
音も、まだ重なる場面は少ない。
でも――今年は、少しだけ去年と違う気がした。
まだ形にもなっていない、小さな予感だけを胸にしまったまま、僕は楽器を肩に掛けた。
心だけが、やっぱり少し遅れていた。