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第三話 音のない教室
昼下がりの教室に入ると、昨日までと同じ机と椅子が整然と並んでいた。
しかし、空気の重さが昨日より濃い。
紙のざわめき、チョークの擦れる音、佐野くんたちの声――
それらが一切届かない。
晴明は静かに教壇に立ち、手元の教案を開いた。
ページをめくる指先がわずかに震える。
なぜなら、文字はそこにあるのに、意味が薄れて見えたからだ。
「……不思議です、学園長」
小さな声で呟く。
廊下の向こうから、学園長の足音が近づいてくる。
「晴明くん、今日もお勤めご苦労さまです」
一歩、また一歩。
声はいつも通り優しいのに、胸に落ちる圧力は増していた。
「教室の音が……届かないんです。生徒の声も、チョークの音も」
晴明は視線を教室全体に巡らせる。
しかし黒板の前に立つ学園長の姿だけは、妙に濃く鮮明で、
周囲の世界との境界が異様にくっきりして見えた。
「……ああ、それは自然なことです。
貴方と私にとって、必要な静寂なのですから」
学園長は微笑み、机に手を置いた。
その掌は温かく、確かに存在する。
しかし空気の密度が厚くなるにつれ、
まるで他の存在は“影”になっていくようだった。
「必要な……静寂……ですか」
晴明は肩をすくめ、心臓がひとつ深く落ちるのを感じる。
昨日よりも現実の輪郭が薄れている。
窓から差し込む光も、校庭の音も、すべてが遠い幻のようだった。
学園長は教壇を回り、晴明の横に立つ。
その視線は、世界の歪みよりも、むしろ晴明自身の胸に注がれていた。
言葉は甘く、穏やかで、しかし鋭利な刃のように胸に刺さる。
世界のざわめきが消え、二人の影だけが長く、濃く伸びた。
机や椅子の影は、まるで引き延ばされて歪んで見える。
晴明は息を呑む。
教室の窓の外、子どもたちは遊んでいるはずなのに、
光も音も、すべてが届かない。
そして学園長の手が、ゆっくりと晴明の肩に触れる。
その瞬間、世界の端がぐっと押されるような感覚がした。
日常の輪郭が揺らぎ、現実と幻の境界が消えかけている。
「晴明くん、もし他の世界が消えたとしても、、、
貴方は私と共に歩み続けてくれますよね?」
声は優しい。
しかしその奥に、世界を閉じ込める力が潜んでいた。
晴明はただ、学園長の横顔を見つめる。
温もりと重圧の間で、心臓が深く脈打つ。
外界の存在は消えかかり、二人だけの世界が濃くなる。
教室の空気は、昨日よりさらに静かだった。
そして世界の色は、ますます白く滲み――
晴明と学園長の影だけが、鮮やかに残った