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放課後のざわめきが残る廊下で、伊織はいつものように壁に寄り添うようにして歩いていた。分厚いレンズの奥の瞳は床を見つめ、手には読みかけの文庫本を抱えている。彼の存在は、まるで風景の一部のように、誰もが素通りしていく。それが、伊織にとって日常だった。
そんな彼の前に、突然、影が差した。顔を上げると、そこに立っていたのは、まばゆいばかりの光を放つ人物──クラスの人気者、藤堂蓮だった。
藤堂は、金髪を揺らし、端正な顔立ちに余裕の笑みを浮かべていた。女子生徒たちの憧れの的であり、男子生徒からも一目置かれる存在。彼と伊織は、学校というヒエラルキーの最下層と最上層に位置する、決して交わることのない点と点だったはずだ。
「よお、伊織」
藤堂の声が、伊織の耳に届く。普段、自分に声をかける人間などいないため、伊織は一瞬、自分が幻聴を聞いたのかと思った。しかし、目の前の藤堂は、確かに伊織に話しかけている。
「……藤堂、くん?」
か細い声で問いかける伊織に、藤堂はにこやかに答えた。
「その『くん』はなしな。俺たち、同じクラスだろ?」
そう言うと、藤堂は伊織の肩にポンと手を置いた。その瞬間、伊織の心臓は激しく跳ね上がった。藤堂の手の温もりが、薄いカーディガン越しに伝わってくる。周囲を歩いていた女子生徒たちが、一斉にこちらに視線を向け、ざわめき始めたのが聞こえる。伊織は、居た堪れない気持ちで俯いた。
「どうした? そんなにビビるなよ」
藤堂は、伊織の反応を面白がるように笑った。
「別に、からかってるわけじゃない」
伊織は信じられなかった。藤堂が自分に何の用があるというのだろうか。自分と話すことで、彼の輝きが曇ってしまうのではないかと、伊織は不安になった。
「あの、何か用事ですか?」
伊織が恐る恐る尋ねると、藤堂は少し考えるような素振りを見せた。
「んー、そうだな。強いて言うなら、お前と話してみたかった、ってとこか」
伊織は、さらに困惑した。自分と話す? なぜ?
「いつも一人で本読んでるだろ。面白いのか?」
藤堂は、伊織が抱えている文庫本に目を向けた。その視線に、伊織は慌てて本を隠そうとする。
「あ、これは……」
「隠すなよ。ちょっと見せてみろ」
藤堂はそう言うと、伊織の手からするりと本を抜き取った。伊織は抵抗することもできず、ただ見ているしかなかった。藤堂は、本のタイトルを見て、ふっと笑った。
「へえ、意外だな。お前、こういうファンタジー小説読むんだ」
伊織は恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じた。自分の趣味を知られるのが嫌だったわけではない。ただ、藤堂のような人間には理解できないだろう、と勝手に思い込んでいたのだ。
「……いけない、ですか?」
蚊の鳴くような声で伊織が尋ねると、藤堂は伊織の頭に優しく手を置いた。
「いや、全然。むしろ、いい趣味してると思うぜ」
その言葉に、伊織は驚いて顔を上げた。藤堂の瞳は、からかいの色もなく、ただ優しく伊織を見つめている。
「藤堂くんは……本とか、読まないですよね?」
藤堂は苦笑した。
「あんまりな。でも、お前がそんなに面白いって言うなら、読んでみてもいいかもな」
藤堂はそう言うと、伊織に本を返した。その指先が触れた瞬間、伊織の全身に電気が走ったような感覚が走った。
「そ、そんな、俺なんかが勧めるなんて……」
「なんでだよ。お前、この本の主人公みたいに、なんか秘めてるだろ?」
藤堂の言葉に、伊織は再び顔を赤くした。秘めているものなんて、自分には何もない。ただの冴えない男子高校生だ。
「……そんなこと、ないです」
「あるって。俺にはわかるんだ」
藤堂は自信満々に微笑んだ。その笑顔は、伊織の心を揺さぶった。これまで誰からも気にも留められなかった自分が、藤堂という光のような存在に、何かを見出されている。それは、伊織にとって初めての経験だった。
「なあ、放課後、この本の話、しないか?」
藤堂の誘いに、伊織は目を丸くした。藤堂が、自分と?
「え、でも、藤堂くんは……」
「いいから。俺がお前に興味があるんだ。じゃあな、また後で」
藤堂はそう言い残すと、颯爽と去っていった。残された伊織は、その場に立ち尽くすしかなかった。藤堂が触れた肩は熱く、心臓はまだ激しく脈打っている。
藤堂蓮という光が、伊織の灰色だった世界に、突然差し込んできた。それは、伊織にとって、一体何を意味するのだろうか。