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#王子
すっこ
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碧星_Aoi
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その日の夜、一恵は幸人へ連絡を入れた。
『……奥様は、取り繕っておられるようには見えません』
電話越しにそう告げても、幸人はすぐには答えなかった。
『乃亜様も、奥様に心を許し始めています。それだけではありません。今日は自分から私のところまで絵を見せに来てくださいました』
一恵の声には、以前のような迷いはない。
『奥様との関係が変わったことで、乃亜様自身も少しずつ変わり始めているように思います』
数秒の沈黙のあと、幸人は短く答えた。
『……そうですか』
それ以上、何も言わなかった。
けれど、通話を終えたあとも一恵の言葉は、幸人の中に残り続けていた。
***
夜も更けた頃。
浅い眠りの中で、詩乃はふと目を覚ました。
喉の渇きを覚え、隣で眠る乃亜を起こさないよう、そっと布団から抜け出す。
暗い廊下を抜けてリビングへ向かい、壁のスイッチへ手を伸ばした。
ぱちりと明かりが灯った瞬間、詩乃は息を呑む。
ソファに、幸人が座っていた。
「……っ」
予想もしなかった人影に思わず声を漏らすと、幸人がゆっくりと顔を上げた。
「……驚かせましたか」
「少し……」
詩乃はまだ速い鼓動を落ち着かせながら答える。
テーブルの上には仕事の書類が開かれていたものの、幸人の目はそこへ向いていない。
どこかぼんやりと考え込んでいるように見えた。
「……眠れないんですか?」
「ええ」
短い返事だった。
詩乃はそれ以上踏み込むべきか迷いながら、キッチンへ向かう。
グラスへ水を注ぐ音が、静かな室内にやけに大きく響いた。
「……何か、考え事ですか?」
水を一口飲んでから尋ねる。
幸人はしばらく答えなかった。
「……そうかもしれません」
曖昧な返事に、詩乃はグラスを持ったまま振り返った。
視線が重なる。
昨夜、壁際へ追い詰められた時とは違う。
疑いが消えたわけではない。それでも今の幸人からは、詩乃を責め立てようとするような張り詰めた空気が薄れていた。
やがて、幸人が静かに口を開く。
「……あなたは、以前は乃亜に触れようともしなかった」
詩乃の指先が、グラスの表面で止まる。
「俺が海外へ行く前、泣いている乃亜を放って、男と電話していたこともあった」
声を荒らげているわけではない。
だからこそ、その言葉は重かった。
詩乃の知らない、果穂の過去。
乃亜があれほど母親を怖がっていた理由を、また一つ突きつけられた気がした。
(果穂……あなたは……)
何を思って、あの子をそこまで放っておいたのだろう。
けれど今、その答えを求めても意味はない。
詩乃はグラスを握り直し、ゆっくりと息を吸った。
「……人は、変われます」
幸人の視線がわずかに動く。
「今までのことがなかったことになるとは思っていません。でも……少なくとも乃亜は、今ここにいます」
あの子が抱えてきた傷も、不安も、消すことはできない。
それでも、これから与えられるものまで諦める必要はないはずだ。
「だから私は、今できることをしてあげたいんです」
幸人は何も言わず、詩乃を見つめていた。
嘘を見抜こうとしているのか、それとも本心を確かめようとしているのか。その表情から読み取ることはできない。
長い沈黙のあと、幸人がぽつりと言った。
「……あなたは、“母親の顔”をする人ではなかった」
心臓が強く打つ。
昨夜と同じだ。
今の自分と、幸人の知っている果穂との違いを見抜かれている。
けれど、続いて落ちた言葉は、詩乃が予想していたものとは違った。
「……あの人なら」
幸人はそこで一度言葉を切った。
ほんのわずかに、その眼差しから鋭さが消える。
「あなたの姉は、そういう目で子どもを見ていた」
詩乃の呼吸が止まった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
幸人はその反応を気に留めることなく、遠い記憶を辿るように視線を落とした。
「顔合わせの日、庭で子どもが転んだ時です。着物が汚れるのも気にせず、すぐに駆け寄っていた」
覚えている。
あの日のことを、幸人も覚えていたのだ。
「ほんの短い時間しか話していません。それでも……あの人となら、普通の家庭が作れるのかもしれないと思った」
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
詩乃は何も言えなかった。
幸人の口から語られているのは、自分のことだ。
あの日、子どもを抱き起こしたのも。
保育士になるのが夢だったのも。
幸人から結婚を申し込まれ、頷いたのも。
全部、自分だった。
けれど今の幸人は、それを知らない。
果穂の顔をした自分の目の前で、もうこの世にはいないと思っている“楠木詩乃”について話している。
不思議な感覚だった。
嬉しいはずなのに、胸が苦しい。
あの日の自分を覚えていてくれたことが嬉しくて。
同時に、その“詩乃”にはもう戻れないかもしれない現実を突きつけられたようで、息が詰まりそうになる。
(……綾咲さん……)
幸人は、ふっと視線を逸らした。
「ですが、それはもう終わったことです」
わずかに柔らいでいた声が、再び冷静さを取り戻す。
「あの人はもういない。あなたがその代わりをすると言ったのでしょう」
その言葉が、今度こそ深く突き刺さった。
――あの人はもういない。
自分は、ここにいる。
こんなにも近くにいるのに、幸人には届かない。
詩乃はグラスを握る指へ力を込めた。
「……そうですね」
どうにかそれだけを返す。
深夜の静けさの中、二人の間には再び沈黙が落ちた。
けれど詩乃の中では、幸人が語った言葉だけが、いつまでも消えずに残り続けていた。
***
同じ頃。
消毒液の匂いが漂う夜の病室では、一定の間隔で電子音が鳴っていた。
白いシーツに沈むようにして、一人の若い女性が横たわっている。
管に繋がれた身体は細く、頬からは血の気が失われている。
その顔は――楠木詩乃のものだった。
ベッド脇では、看護師がカルテへ記録を書き込んでいる。
モニターを確認していた医師が、ふとその手を止めた。
「……脳波に、わずかな変化が見られます」
看護師が顔を上げる。
「目を覚ます可能性があるということですか?」
医師はすぐには答えず、もう一度モニターへ視線を向けた。
「現時点では、まだ何とも言えません。ただ――」
規則正しい電子音が、静かな病室に響く。
「可能性がゼロではないことは、確かです」
ベッドの上の女性は、何も答えない。
閉じられた瞼も、指先も、今はまだ動かなかった。
けれど、詩乃が別の身体で新しい人生を歩み始めたその裏側で、置き去りにされたはずの身体にも、確かな変化が起こり始めていた。
コメント
1件
毎回、この作品の持つ空気感に引き込まれます。今回は特に、幸人が詩乃(果穂だと思っている相手)に向けて「あの人なら——」と本音を漏らす場面が胸に刺さりました。本人が目の前にいるのに、もういない人として語らざるを得ないこの構造、切なすぎます。そして最後の病室のシーンで、また物語の歯車が動き出した感じがして、次話が待ち遠しいです。