テラーノベル
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枯れ木の洞に潜む黄色い目の魔性が他所者を惑わさんと囁く森の中を、男女がより木の葉の茂る方へと歩みを進めていた。
男の方は、戻る河川の支流にほど近い広がり森と呼ばれる村に営む狩人の一人だった。鳥獣を追い、罠を仕掛け、猟犬をけしかけ、矢を射る眼光鋭き狩人、というにはいささか頼りない様子だ。身を庇うように背を丸め、せわしなく辺りに視線を払い、気配も知れない何かに怯えている。
一方女の方は、南の雨の多い土地で好まれる頭巾のついた狩り装束を身に纏い、頭巾の内に美貌の女を象った黒檀の仮面を着けている。使い込まれた大きめの巾着袋を腰に下げ、手には黒檀の弓、背には矢。勇ましい、という顔つきでもないが恐れや怯えは微塵も感じさせずに男の背中を追っている。
今年の夏の遅れを取り戻そうと今が盛りと木の葉が茂り、熱く眩しい日差しは森の中に届くことなく、疎らな下草は昼を過ぎても朝露に濡れている。薄暗く、そして妙に静かだ。
「そういえば、あんた、その黒檀の籠手に貼っている札は何だい?」男は女がついてきていることを確認しながら、恐れを誤魔化すように尋ねる。「南の方ではそういうのが流行ってるのか? 言っちゃあ何だが、少し馬鹿々々しく見える」
「これ? 何だろうね? これ。早駆けさんは知ってる?」
そう言うと黒檀の仮面の女は緩やかな裾を引っ張って黒檀の手の甲を露わにする。そこから現れたのは一枚の紙札だった。五芒星の形の紙札が黒檀の手の甲にぴたりと貼り付けてある。その中心には戯画化したずんぐりした鳥が弓を構えている絵が描いてあった。
「俺が知るかよ。あんたは何も分からずにそんなもの貼ってるのか?」とメダンは呆れたように笑う。
「そんなことより、ねえ、疲れたわ。まだなの?」と黒檀の仮面の女は不満そうに言う。
「まだだよ」とメダンも煩わしそうに言う。「というか、言っておくが最後まで連れて行くわけじゃないからな? 俺が案内するのは谷の入り口までだ」
「何でよ。その先で迷子になったらどうしてくれるの? 最後まで案内しなさいよ」
「しないよ、馬鹿。何度も言っただろ。森に入るだけでも危険を冒しているんだ。谷は奴の縄張り、その手前までいくだけでも危ういんだ」
「お金は払ったでしょ」
「だから谷の入り口までの金だろうが」
「魔法使いのところまで案内できないならお金を返しなさいよ」
「ふざけるな! あんまり我が儘を言うようならここに置いていくぞ!」
女はふと立ち止まり、メダンを凝視し、獣の威嚇するような重い声で問う。「何ですって? 我が儘? それは私のことを言ったの?」
「ああそうさ!」メダンの声が張り詰める。「わがままで、自己中心的で……」
「ちょ、ちょっと待って」女はそう言って巾着袋から書字板と尖筆を取り出して、蝋に言葉を刻み込む。「わ、が、ま、ま。それに、自己中心的、と。他には?」
「な、何だよ。そんな言葉を記して、何に使うんだ」
メダンは女の意図も狙いも分からず、困惑するばかりだった。
「だから、私が何だって言いたいの!? 全部言いなさいよ」と女に責められ、気味が悪くなってきたメダンは押し黙る。女も押し黙り、しかし何かに気づいたように森の奥へ視線を向ける。
「……ん? ど、どうした? なんだ?」とメダンが声を震わせ、何かを見ている女に問いかける。
「ちょっと静かにしてよ。集中してるんだから」と女が軽やかで涼やかな声で窘めた。
「おいおい、嘘だろ。脅かすなよ」と言ってメダンは見たくないものを見つけようと周囲に目を配る。「出たってのか? なあ、あんた、分かるのか?」
何も言わない女にしびれを切らし、メダンは背を向けて元来た方へ駆けだそうとしたが、女に足を払われ、倒れたところを背中から踏まれる。
「てめえ! 何しやがる!」とメダンは凄むが声は相変わらず震えていた。
「まだ案内は終わってないでしょ。逃げられても死なれても困るから大人しくしてて」と言って、女は背の矢筒から矢を引き抜く。
女は頭巾の裏の耳を鏃のように鋭く研ぎ澄まし、葉擦れの音も漏らさず全ての音を聞き取り、聞き分けようと集中するためにゆっくりと眠りに就くように俯く。迷い込んだ風の音。男の逸る呼吸。穴熊の鼻のひくつき。朝露の滴り。部外者との距離を保ち、測る妖精の忍び足。
そして爪を隠そうとしない獣の足音。
黒檀の仮面の女は瞬時に矢を番え、細腕には引き出せるはずもない力で弓を弾き絞る。鋼糸のように固い弦が殺意に満ちた音で軋み、女の細指を包む黒革の弓懸から魔を秘めた矢が放たれた。自由を得た矢は風を貫き、狙い定められた通りに真っすぐに木の幹に突き刺さり、しかし引き裂き、勢い衰えることなく飛び過ぎて、次の木の皮を掠めただけで抉り、圧し折り、なお真っ直ぐに飛んで、女たちの元からは目に見えない所にいたはずの巨体の獣、異形の猪を穿った。そして、剛毛に覆われた肉体が泡のように弾け飛んで血肉をぶちまける。
女は矢の軌跡を追い、踏みつけから解放されたメダンは少し迷った後、目にした惨状に恐れ戦きながら、罪無き木々を踏み越えて、異形の猪の元へと向かう。
異形の猪は、尋常の成体の猪の五倍ほどの大きさだった。無数の牙はまるで槍衾のように猪の顔を覆っていて、女に足音を察知された鋭い蹄は肉食獣のそれのように禍々しく枝分かれしている。
哀れな獣の生前の形を成しているのはそれだけだった。膨れていた体は無数の肉片となって辺りに飛び散り、異臭を放っている。
ただ森に静かに生きていただけの気取られぬ者たちは黒檀の仮面の女に沢山の呪いを浴びせかけるが、女の身に着けたささやかな護符を奪うことさえできなかった。
女に追いついたメダンは呆けたように口を開いて、異形の猪の頭を見下ろす。
「一体あんた何者だよ」とメダンは喉につっかえつつも何とか尋ねる。「化け物猪を、一撃で……」
「これが例の縄張りの奴?」と女は興味もなさそうに言う。「それじゃあもう安心。魔法使いのところまで案内してよね、安全な森を」
「いや、その必要はなさそうだ」とメダンは言った。
そこへ、森の奥からまた一人、狩り装束の男がやって来た。年若く、痩せていて、無精ひげに覆われ、しかし村の狩人メダンに比べれば幾分理知的な眼差しを湛えている。
「いや、肝が冷えた。というか肝が破壊されていますね。しかし、これは酷い。とんでもない者が来たかと思えば、これほどとは」
若い男は猪の首を見、周りの惨状に目を見張る。
メダンはその若い男に丁寧に挨拶した。「白銀の月先生。お久しぶりです。急にすみません。この女、旅の者なのですが、どうしても優秀な魔法使いに会いたいと言うもんですから。ここら辺だとコーディス先生がいると伝えたらば案内しろとうるさくて」
「なるほど。それでただで案内したんですか。滅多に近寄らないように村長と約束したはずなんですがね」とコーディスは爽やかな笑みを浮かべて言った。
メダンはため息をつき、「もちろん初めからそのつもりでしたよ」と言うと銀貨を一枚、コーディスに投げて寄越した。
「ご苦労様です。村の皆によろしく伝えてください」と言ってメダンを見送ると、猪の首の後ろに回り込んでしゃがむ。「さて、一体何をしたらこうなるのやら」
そう言うとコーディスは猪の傷口に両手を突っ込み、頭の中を弄り始める。
女は特にそれについて関心を払わずコーディスに尋ねる。「貴方がコーディス。ここら辺で最も優秀な魔法使い?」
コーディスは猪の首の中を覗き込みながら答える。「ええ、まあ。田舎ですから他に魔法使いもいませんが。それで? 私に、優秀な魔法使いに遥々何の御用ですか?」
「これについて知りたいの」と言って、女は左手を持ち上げる。
コーディスは女の方をちらりと見る。疑うように目を細め、驚いたように目を広げる。
女の手は黒檀だった。黒檀の籠手ではなく、黒檀の手、黒檀の指だった。
「それは、病、あるいは呪いですか?」
その肌は黒い木目に覆われていて、質感も人間の肌と木の肌の中間のようだった。人の肌より温いのは濃い色のためだろう。
コーディスは突然思い出したように顔をあげ、女の頭巾の中を見つめる。そこにあったのも黒檀の仮面ではなく、黒檀の顔だった。
「知らない。けど原因は分かってる。これ」そう言うと女は緩やかな裾を引っ張って手の甲を露わにする。例の戯画化した鳥の描かれた絵札が現れる。
「人鳥ですかね」とコーディスは呟く。「実物は見たことがないのではっきりしたことは言えませんが」
「人鳥? 何それ」と女は不思議そうに尋ねる。
コーディスは猪首の奥を両手で検めながら言う。「その鳥ですよ。北国の鳥で飛べない代わりに魚のように上手に泳ぐそうです。その紙札が黒檀の肌の原因なんですか?」
「いや、別にそういうわけでは……というか黒檀についてはどうでもいいの。この紙札を知っているのかいないのか。それだけ教えて」
「知りませんね。少なくとも見たことはありません。どういうものなのか教えていただければ、何か分かるかもしれませんが」コーディスはさらに腕を血肉の中に押し込む。「お! あった。無事なようですね」
そう言って取り出したのは革と木を組み合わせて仕立て上げられた髑髏だった。眼窩は虚無だが、額に硝子玉が埋め込まれている。血に塗れ、糸を引いて、さらに禍々しい見た目になっていた。
「何それ」女も興味を惹かれた様子で覗き込む。
「傀儡魔術、あるいは屍魔術の一種です。猪の死体に人造の魂を埋め込んで働かせようとしたのですが。その、予期せぬ結果になりまして」
「暴走したのね」
「平たく言えばそうなります」
コーディスは髑髏に己の額を押し付けて呪文を唱える。最もありふれた雨乞いの祈りを禁忌の語群に翻訳し、また太陽神の偽装棄教者が編み出した符牒経典を付け加え、揺り籠谷の大河の河口の街ならば誰でも知っている洗濯女の仕事歌に乗せて、慈しむように髑髏を撫でながら詠唱した。
すると頭上の木の葉の間から清らかな水が滴り落ちて、髑髏の血を洗いながす。
十分に清め終わるとコーディスは立ち上がり、木の葉の間から斜めに刺す陽光を見つめる。「さあ、今から戻れば日暮れまでには村に帰れますよ」
「いえ、もう少し話を聞きたくなったわ」と女は血が付いたままのコーディスの額を見つめて言う。
「その紙札のことなら本当に何も分かりませんよ。ああ、他にも何か説明していただけるんですか?」
「それもあるけど、貴方のその魔術にも興味がある」と女は言って、何か希望を秘めた眼差しを血塗れの髑髏に向けていた。
「あのですね」コーディスは髑髏を庇うように抱え込み、迷惑そうに説明する。「魔法使いはおいそれと自分の作った魔法を教えたりはしないんですよ。それなりの、対価があれば別ですが」
「私もそれなりに魔術を知ってるから交換条件で良いでしょ?」女はそれが当然だとでもいうように言う。
「狩猟魔術は間に合ってます、いくら強力なものであってもね。でも、まあ、その札と、貴女自身への興味はありますね」
コーディスは女の黒檀の肌をじっと見つめる。
「じゃあ、それでいいわ。元々優秀そうなら話すつもりだったし」
「優秀さに関しては受け合いますよ」そう言ってコーディスは女の黒檀よりも黒い瞳を見つめる。「お名前を尋ねても?」
「狩る者と呼んで」
男はその言葉の意味を確かめるように繰り返す。「マヌウェさん。素敵な名前ですね。では、話はあちらで、谷の奥に私の屋敷がありますから」
コーディスの背を追って、黒檀の仮面の狩人マヌウェは血の臭いから逃れるように森から去る。
コーディスの隠れ住む谷は森の中に穿たれた、大地の裂傷のような亀裂だった。デュエンの村にはその謂れを伝える物語があったが、長い年月の果てに変質したそれはある勇敢な樵と化け物猪にまつわる子供のための寝物語として受け継がれている。
深い亀裂は獲物が自ら口の中に飛び込んでくるのを待つ狡猾な怪物のようで、ただでさえ日の光の遮られた森にあって昼の外にある幽境として村の者から恐れられ、亀裂はまだしも谷底までやってくる者はいなかった。草の茂りは日の光と同じく控えめで、実りといえるものは何も見当たらない土と小石の土地だ。剥き出しの土肌は今刳り抜かれた谷間であるかのように、時折土埃を零している。
「色々な魔法使いに会ってきて、大概は秘密主義者だったけど、貴方も中々のものね、コーディスさん」マヌウェは蝙蝠の潜む洞窟のように薄暗い道の先を見、不気味な谷底にも優しい木漏れ日を注ぐ細く長い空を見上げ、変わらず薄暗いやって来た方を振り返って言った。
「別に私は秘密主義というほどではありませんよ。実際にこうして家にまで案内して、場合によっては我が魔法を開陳しようというのですから。ただ魔術の分野がですね、誤解を招く、というか、魔法に疎い者たちにとっては不吉に感じられるようで」
「まあ、賢明ではあるかもね。知らないことは怖くて、知らないことを知ってる人はもっと怖い」
しばらくして頭上の森が開け、日光が差している場所にコーディスの奇妙な屋敷が見えてくる。徐々に広がり、大きな街の大通りほどの幅になった谷に幾本かの杉林があった、のかもしれない。その屋敷はまだ伸び盛りの杉を伐採することなく柱に使ったらしく、成長した杉によって空中へと持ち上げられてしまっていた。唯一入り口は木の細い曲がりくねった階段が設けられているが、それも少しだけ浮いて、微妙に揺れている。家の構造を見るに、ずっと地面の上にいるつもりであったことは間違いない。剥がれ落ちたのか、板切れがいくつか散乱している。
「何でこんなことに?」とマヌウェは尋ねる。
「わざとですよ。成長具合も計算通りです」とコーディスは胸を張って言う。
「それなら良いんだけど」とマヌウェは頷く。
「少し待っていてください。見られても良いものといけないものがあるので」そう言ってコーディスは先に階段を上って屋敷の中へと入っていった。
それを確認してマヌウェは、古くから伝わる狐狩りの追い立て声を詩形に整え、類語に置き換え、頭韻を解体した言葉を呟く。左足で三度地面を踏むと、何かを思いついたように詩の半分を倒語にして加えた。そうしてマヌウェは満足したように頷く。
再びコーディスが表に現れ、マヌウェは奇妙な屋敷へと招かれる。
屋敷の内装はさして奇妙な様子はなかった。杉の柱を除けば、素朴な間取り、質素な家具。絨毯だけは南の砂漠の緑地の国で織られる類の彩り豊かな逸品だ。ある部族の成り立ちと中興の祖の栄光が織り込まれているが、不思議や神秘の気配はない。
マヌウェは何かを言われる前に食卓の椅子に座る。その無作法をコーディスは気にしていないようだった。
「何か飲みます?」とコーディスは言った。「薬草茶か蜂蜜酒くらいしかありませんが。食べ物は、何かあったかな」
マヌウェは悩む素振りも見せずに答える。「薬草茶とやらを飲んでみたいわ。飲んだことないから」
コーディスが囲炉裏に吊るした鍋で薬草を煮出し始めるが、できる前にマヌウェは尋ねる。
「それで、あれはどういう魔術なの?」
「ええ? 私が先に教えるんですか?」コーディスは鍋の中の草を混ぜながら言う。
「何よ。どっちが先だって良いじゃない」
「疑う訳じゃないですけど、疑わしいですよ、それは。どっちでも良いならそっちが先に教えてください」
「もう、わがままね」
「貴女には言われたくありません」
マヌウェは満足そうに微笑みを浮かべ、コーディスの背中に向けて話し始める。
「そうね、魔術について体系的に語ることはできないから私自身の記憶を順に追って説明するわ」そう言ってマヌウェは相槌を待つが、コーディスは鍋を混ぜるだけだった。「私が初めて気が付いたのは青き島々群島のとある島。黒檀の森の奥。意識は明瞭で、だけどそこがどこかは分からなかった」
「そして自分が誰かも、と」とコーディスが言う。
「ええ。でも全く、というわけではないよ。マヌウェ。多数の狩猟魔術を修めている。でもそれだけ。ある魔法使いに拾われて、でもその魔法使いにも分かることはなかった。ただ、お陰で色々と知ることができたわ」
二つの陶製の水飲みに薬草茶を注いだコーディスがそれを食卓へと運んでくる。
マヌウェはその緑に染まった湯を飲み、「苦いわね」と呟く。
「そうですね」とコーディスは満足そうに頷く。「ただまあ使う薬草次第で味が全然違いますから。今度挑戦してみてください」
「一つ分かったことは、私が人間でないこと」と言ってマヌウェは続ける。「そしてこの札が、私の存在の鍵であること」
マヌウェはもう一度五芒星に弓持つ人鳥の札を見せる。
コーディスは苦みに耐えるように眉を寄せて言う。「その話を聞いたうえで、私の魔術に興味を持たれたことを合わせて考えると、つまり貴女はその札の魔術によって意識し、話し、行動している存在、と受け取れてしまいますね」
飲み干した水飲みを机に置いてマヌウェは頷く。
「その通り、信じられない?」
「いいえ、私の目の前の結果を出すことだけなら、それほど難しくはありません」とコーディスは答える。「例えば遠隔操作している、だとか」
「もしそうならずっと私の本体の面倒をみている者がいるってことになるわね。ぞっとするわ」
「もしくは生霊か亡霊を閉じ込めている、だとか」
「その案は前にも出たわね」とマヌウェは自嘲気味に笑う。「昇天の儀式が長くて退屈だったわ」
コーディスは不快感を隠しきれずに言う。「君は君が人造の魂だって主張したいんですか?」
「そんな風に誤解する余地があった? 私は私のことを知りたいの。何かを主張したり、証明したりしに来たわけじゃないし、議論を戦わせたいわけでもない。魔法についての意見を魔法使いに尋ねて周るという私の方法論は的外れだった?」
「いや……」コーディスはため息をつく。「認めましょう。そんな魔術があったならば私の知識の及ばない高度なものです。同分野の魔法使いを何人か知っていますが、誰もそこには及んでいないはず」
「でももしかしたらその中に私を作った者がいるかもしれない。私のことを知りたいなら、私の親に話を聞くのが一番手っ取り早いものね」
「まあ、そうですね。貴女が貴女のことを知りたいなら、それが合理的でしょう」
「合理的? それは私がってこと?」
コーディスは問いの意味が分からないという風に頷く。「ええ、そういう考え方というか性格というか。魔法使いには向いてませんね」
マヌウェは再びくたびれた巾着袋から使い慣れた尖筆と手に馴染んだ書字板を取り出し、『合理的な性格』と蝋に刻む。
「それは?」とコーディスが薬草茶を啜りながら尋ねる。
巾着袋に片づけながらマヌウェは答える。「尖筆よ。ああ、書字板?」
「いえ、何を書いたんですか?」
「私のことよ。言ったでしょ。私のことを知りたいから、誰かが教えてくれたらこうして書いておくの。書字板がいっぱいになれば羊皮紙か草漉紙を買って書き写す」
「へえ、そういうものがその巾着袋に沢山あるんですか?」
「沢山って程じゃないわね。自分を知るって大変だわ。まあ、親に出逢えたなら、こんなことしても意味ないのかもしれないけど」
「そんなことありませんよ。親だって子のことを何でも知ってるわけじゃありませんから」コーディスは曖昧に首を横に振る。「話を戻すと、まあ、同分野の魔法使いを紹介はできます。今ここですぐに出せる意見はほとんどありませんが、君を保護した魔法使いや訪ねて周った魔法使いと同様に共に調べることはできます。しかし……」
コーディスは眉を寄せたままじっとマヌウェの手の甲の星型の紙札を見つめる。
「まだ信じられないってわけね。いいわ。証明するのは容易いし、信頼されるための近道だから。今ここで紙札を剥がせば私の正体は明らかよ」マヌウェは席を立ち、絨毯の上へと移動する。「でも、その分野の魔法使いならば分かっていると思うけど、これは貴方を信頼してのこと。剥がして、分かったなら、すぐに元に戻して? 良い?」
コーディスも立ち上がり、マヌウェのそばに赴く。「分かりました。私を導き給う貴き神糸車の皇子と師天への眼差しに誓って約束しましょう」
マヌウェは左手を差し出し、コーディスはその紙札の縁に爪をかける。そして、一息に剥がした。
次の瞬間、マヌウェの体は黒檀の若木になってその場に倒れた。根から枝の先まで揃っている。どうして室内でさせたんだ、と奇妙な怒りをコーディスは抱く。
「信じるどころか、想像以上でしたよ。てっきり黒檀の人形に憑依しているのかと思えば。黒檀を人間化していたとは」
コーディスは黒檀に話しかけていたが返事はない。
「というかこの場合、本体と言えるのはこちらですね」と一人呟いて、爪の間の星型の紙札を見つめる。「貼ることが魔術起動の条件だとして、今なぜわたしは操作されないのか。人間は操作できない? あるいは貼り付け面積が一定以上でなくてはならないのか」
求めた答えは返って来ない。
「眠っているのか、途切れているのか、戒められているのか」
コーディスは倒れた黒檀の隣に座り、紙札を貼り、しかし完全には貼らない。面積の二割ほどを貼ったところで、再び剥がした。
「これを貼れば元に戻れるのですよね?」コーディスの問いに返事はない。「貼らなければ元には戻れないのですよね?」
コーディスは再び立ち上がり、爪の間の人鳥を見つめて言う。
「申し訳ありません。貴女には、貴女を裏切るだけの価値がある」
これを保存するならば、と考え、コーディスは辺りを見渡すが目当てのものはない。星型の木枠を二つ作って挟み込むのが良いだろう、と考える。そうすれば何かに誤って貼ってしまう心配もない。
外へ出て、浮いた家から地面を見下ろす。家を作った際の端材がいくつか転がっている。腐っているが、間に合わせにはなる。木の階段を軋ませ、地面に足を着けたその時、コーディスの足に声にもならない激痛が走り、受け身も取れずに頭から地面に倒れ、獣のように呻いてのたうつ。
どうにもならない痛みをどうにかしようといくつかの呪文を唱えるが、痛みと混乱のせいで痛みが和らいだのかも分からない。涙に濡れた目で足を見ると、虎挟みが肉に食い込み、足を捩じり折っていた。まるで土の下から生えてきたようだった。
「札が剥がされている時、私の意識は完全に途切れるの」と近くからマヌウェの声が聞こえる。
しかしコーディスはそちらへ目を向ける気力もなく、ただただ食いしばった歯の間から呻き声を漏らすことしかできない。
「だから主観時間的には時が過ぎる苦痛はない。だけど、再び貼られた時、数十年も経ていれば、無為に時が過ぎたことはとても悲しい。分かるでしょう? オリブンのお弟子さん」
コーディスは「よくも! 僕の足を!」と言うので精一杯だった。
「裏切りに対する罰としては寛大だと思うんだけど。私に意識があったなら、その魔術は発動する前に解除されていたんだから、その悲劇を避けることだってできた」
「悪かった! 謝るから罠の魔術を解いてくれ! 頼むから!」
コーディスは恐れ戦き、その声のする方を見上げる。
そこには黒檀の女ではなく、土塊で造形された禍々しい姿形の女が立っていた。奇妙な鳥の頭、背中には鰭のような翼、右手には黒檀の弓、左手には生きた大蠍、足の指の間には水鳥のような水掻きが張っている。新たな姿のマヌウェが身に着けている衣服は同じ狩り装束だが、弓と矢は禍々しい原初の恐怖を呼び覚ます形に捻じれている。
紙札はやはり手の甲に貼られていた。地面に落ちて、土を媒介に顕現したようだ。
コーディスは悲鳴をあげることもできず、その姿から目を離せないでいた。
「これがもう一つの姿。醜いでしょ。この姿の時、私の魔術の全ての手続は省略される」
虎挟みがコーディスの駄目になった足を離して地面の下に潜り、代わりに空から伸びてきた縄が蛇のようにひとりでに動いて、もう片方の足を縛り、その体を吊し上げた。
「私は狩猟に関する魔術であれば何でも使えるの。弓矢もそう、罠もそう、猟犬を召喚することもできるし、強力な網を放つこともできる。捕らえた獲物を血抜きして、腑分けして、皮を剥いで解体する魔術だってある」
「やめてくれ。頼む。ここまでされるほどのことを僕がしたか?」
マヌウェは首を振る。「そんなのどっちだっていいわ。私の目的はただ一つ。もう一度言わないと駄目かしら?」
「分かった! 同分野の知己の魔法使いに紹介状を書こう! それに関連する名高い魔法使いの知る限りの居場所も! 何でもくれてやるから助けてくれ!」
「良いよ。今度は約束破らないでね」
マヌウェがそう言うとコーディスは解放され、地面に落ちる。コーディスが呻く横でマヌウェは端材を持ってくる。コーディスの足を固定し、知る限りの癒しの魔術を行使する。その全てが多くの複雑な呪文や手振りを有する強力な魔術だ。
マヌウェは一人苦笑いする。「この姿でも狩猟以外の魔術が使えない訳じゃないんだよ」
コーディスは何も言わなかった。
谷底に隠れ住む魔法使いコーディスは暫く動けそうにないので、マヌウェが代わりに書けるものを屋敷から持ってくる。その際、再び媒体を土塊から黒檀に戻し、初めに出会った時の比較的人間らしい姿に戻っていた。どうやって貼り直したのかは話さない。
魔法使いの紹介状と一覧表を受け取るとマヌウェは別れの言葉を残す。
「それじゃあ、さようなら。もう会うことはないだろうし、特に求めることもないわ。誰かを裏切ったり、約束を破ったり、もっと酷いことをしても私が懲らしめに戻ってくることはないから安心して」
コーディスは憔悴した様子で一言も言葉を返さなかった。
マヌウェが歩き去り、しばらくしてから、相手に聞こえないと思ったのか、コーディスは何事かを呟いた。
マヌウェは巾着袋に手を伸ばす。そして書字板に尖筆で刻み込む。
「ば、け、も、の。まあ、言われるまでもないけどね」
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