テラーノベル
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兄が戻ってこない日が続くと、家の空気は思ったより簡単に悪くなる。
最初のうちは、みんなまだ余裕があった。
どうせすぐ戻ると、頭を冷やせば帰ってくる。
せいぜい叔父のところか、どこか近場で拗ねているだけ。
そんな風に考えていたんだと思う。
でも、それが三週間を越えても変わらないと、少しずつ苛立ちが滲み始めた。
父は露骨だった。
「まだ連絡はつかないのか?」
「学校にはちゃんと行ってるらしいけど……」
「ならなおさら面倒だな」
面倒――父は最近、その言葉を隠さなくなった。
母も表情こそ柔らかいままだったけれど、声の端に疲れが混じるようになっていた。
「どうしてこんなことするのかしら……」
「……兄さん、昔からそういうとこあるし」
「そう、そうよねぇ……」
そう言うと、母は少しだけ困ったように笑った。
その笑い方が、昔から変わらない。
兄がいなくなっても、この家は兄の話をする時だけ妙に息苦しい。
心配している、というより、思い通りに動かないものへの苛立ちに近い。
姉も、前ほど無関心を装えなくなっていた。
「さすがに長くない?」
「でも、学校には来てるんでしょ?」
「……それが余計に意味分かんないんだけど」
そう――意味が分からない。
家を出たなら、そのまま崩れていくはずだった。
今までの兄なら、そうだった。
生活を立て直す力も、どこかにうまく潜り込む器用さもない。
放っておけば、勝手に困って、勝手に疲れて、結局戻ってくるはずだった。
――なのに兄は違った。
学校へは来ている。
顔色もそこまで悪くない。
目も死んでいない。
それが、僕にはたまらなく不快だった。
教室の中でも、最近の兄は前と違う。
前みたいにちょっとした言葉で揺れないし、周りの視線にも過剰に反応しない。
静かなのは同じなのに、沈んでいない。
僕としては、もっと削れていてほしいのに。
そう思った瞬間、自分でも少しだけ驚く――でも、嘘じゃない。
兄には苦しんでいてほしかった。
少なくとも、僕の知らないところで平気そうな顔なんてしてほしくなかった。
昼休み、教室の後ろで西園寺たちと話している時も、僕の意識は何度も窓際へ向いていた。
兄はパンを齧りながら、文庫本を静かに読んでいた。
僕はそんな兄の姿を見つめながら、そして違いを見つめていた。
ほんの些細な違いだ。
でも、僕は兄をずっと見てきた。
見下ろしてきたと言ってもいい――だから分かる。
生活の匂いが、変わっている。
前の兄は、家の中で擦り減ったまま学校へ来ていた。
顔色も悪くて、目も濁っていて、朝からもう疲れ切っていた。
今は違う。
疲れていないわけじゃない。
でも、削られていない。
(やっぱり、叔父さんの所にいるのかな……?)
兄に”居場所”を提供している人物がいるのではないかと考えさせられる。
それがあるとしか思えなかった。
「瑠亜くん?」
玲奈の声で我に返る。
「最近元気ない?」
「ええ?そんなことないよ」
「本当?あんまり気にしない方がいいよ、ああいうの」
ああいうの――つまり兄のことだ。
玲奈はたぶん励ましているつもりなんだろう。
でも、その言葉は全然足りない。
気にしないわけがない。
兄は変わってしまった。
しかも、僕の知らないところで。
放課後、校門の外へ出る兄の後ろ姿を少し離れて見た。
追おうと思えば追えた。でも、しなかった。
今はまだ、見つけることはしたくなかった。
兄が本当に僕の知らない場所へ帰っていくところを見たら、多分僕は思っている以上に気持ち悪くなる。
家へ戻ると、父の機嫌はまた悪かった。
夕食の席でも、兄の名前が出るたび空気が重くなる。
「学校には来てるなら、なおさら帰らせるんだ!」
「智明さんのところなのかしら……?」
「だったら連れて帰ればいい話だろ!」
父は簡単に言う。
母は困ったように笑う。
姉は面倒そうに黙っている。
でもそのどれも、兄がどうして戻らないのかを本気で考えている顔じゃなかった。
ただ、”世間体”を気にしているだけだ。
そのくせ、僕の中には別の苛立ちがあった。
戻らないことが嫌なんじゃない。
兄が、戻らなくても平気そうな顔をしているのが嫌なのだ。
夜、自分の部屋へ戻ってから、僕は机の上に肘をついて考えた。
全部、少しずつ違う。
挑発しても崩れない。
前みたいに怯えない。
それどころか、こっちを見返してくる。
何があったの。
誰がそうしたの。
どこでそんな顔を覚えたの。
――胸の奥が、すごくざらつく
元気になってよかった、なんて少しも思えない。
兄には、ちゃんと兄のままでいてほしい。
僕の知ってる、簡単に傷ついて、簡単に黙って、最後には僕の下へ戻ってくる兄のままで。
僕の知らない”居場所”なんて、持たないでほしい。
ベッドに倒れ込んでも、なかなか眠れなかった。
頭の中に浮かぶのは、最近の兄の顔ばかりだ。
前よりましな顔。
前より死んでない目。
前より、僕を怖がらない顔。
気持ち悪い――ほんとうに、気持ち悪い。
知らないままなのが、何より嫌だった。
薄暗い部屋の中で、僕は小さく呟く。
「……兄さん、どうしたら、昔の兄さんに戻ってくれるの?」
返事はない――でも、その沈黙の向こうに、僕の知らない何かがある気がした。
それが、たまらなく許せなかった。
コメント
1件
わあ、第35話……瑠亜くんの視点、すごく重くて引き込まれました。 兄が苦しんでほしいと思う弟の心情って、なかなかストレートには描かれないですよね。「昔の兄に戻ってほしい」の裏にある執着というか、支配欲にも似た感情がゾワッとしました。特に「気持ち悪い」という言葉が瑠亜くん自身の不安を映していて、読んでて胸が締め付けられました。aohanaさん、繊細な心理描写、本当に上手いです……!
京太郎@ドラマ部門1位獲得
2,215
#成り上がり
aohana
1,109
#魔法
彼岸花
38