いつものように、これといった予定もなく、僕は朝からぼ~っと暇を持て余していた。
れれが、いつものように、パタパタとスリッパの音を立てて忙しそうにやって来ては、ノックもせずに押し入れの戸を開け
た。
―あれ? まだご飯の時間には早すぎるけど。
れれは、何も言わずに僕の前に小さなふかふかの黒い固まりをそっと置いた。
ー何だ?
所々に茶色の渦巻き模様が見える。
鼻を近づけて確かめようとした途端、それは微かに動いた。
ー猫だっ!
僕は、全身の毛が喜びで逆立ち、体中の血液が興奮で逆流するのを感じた。その黒い固まりも、同じように感動で全身の毛を
逆立てている。
次の瞬間、僕と黒い固まりは、鼻と鼻をくっつけて、親友の契りを結んでいた。
―ああ、こんな風に猫と触れあったのは、いつ以来だろう。
ずっと不安と孤独の中で生きてきた僕にとって、この新しい仲間の登場は、まさに地獄で もらった天国への引っ越し券だ。
れれは、僕たちの大喜びシーンをしばらく見ていたが、何も言わずに出て行った。
しばらくじゃれ合って、大いなる親愛の情を確認し合った後、僕たちはお互いの身の上を語り合った。といっても、この黒い
固まりは、まだ人生経験も何もない赤ん坊みたいなやつだから、話すほどの大した身の上は、何もない。
お母さんのお乳を飲みながらウトウトしていたら、いつの間にかツツジ の植え込みの中にいた。
ミーミー泣いていたら、人間がたくさん集まって来て、そのうち一人が抱き上げ、僕の所に連れてきた。とても単純でシンプ
ルで、一分以内に話し終わるような身の上話を、舌ったらずの赤ちゃん言葉混じりで話してくれた。
僕は、ノラ時代のノラ猫集会の話や、人間の車に轢かれてしまった話、その後、人間の家の押し入れ生活が始まった話、大き
なつるつるの台に載り、包帯でグルグルにされた話、優しく声をかけてくれた体の大きなオス猫の話、そして悲しいけれど、
亀の速度でしか歩けなくなっている話などなど……自分でも感心するくらい、起伏に富んだ波瀾万丈の人生を雄弁に語った。
だけど話しながらふと、こんな赤ちゃん猫に理解できているんだろうか、とも思った。さすがに、初恋のかなわぬ恋の相手
**(お嬢さん)**のことには触れなかった。
こんなガキ猫に、恋する時のときめきなんか理解できる訳ない、と思ったからだ。
長い長い僕の身の上話が終わったあと、それまで目をまん丸にして聞き入っていた黒い固まりは、これ以上ないくらい目をま
ん丸にして、叫んだ。
「おじさんて、はらんばんじょーだねぇ!」 「え、おじさん?」
おいおい冗談じゃないよ。こんな好青年をつかまえて、おじさんはないだろう。
「じゃあ、僕これからおじさんのこと、まるちゃんて呼ぶね」と、黒い固まりは、まるでお人形さんごっこのように言った。
ーまるちゃん?
いきなり目の前の赤ちゃん猫からそう呼ばれて、僕は言葉をなくした。
実は僕、これまで名前がなかったんだ。なくても困らなかったし、欲しいとも思ったことがない。というか、考えたこともな
かったというのが一番近いかな。
もう過去のことになってしまったけれど、僕の所属していたノラ猫集団にはメンバーの呼称についての細かい規定があった。
名前に関して言えば、ボスの側近たちにだけ、名前が許されていたんだ。
そして、側近のうちでもファーストレディであるボスの彼女には、特別に、名前ではなく、尊敬の意味を込め、**(姫)**と
(お嬢さん)という称号が与えられていた。
何故二つの称号かというと、そこは上下関係のはっきりしているノラ集団のこと。
僕たち、一般ノラは、ボスの彼女を(お嬢さん)と呼び、ボスと側近は、(姫)と呼ぶことで、人間関係ならぬ猫関係の秩序
を保っていた。
そんな訳で、僕たちその他大勢は名前を持っていなかった。だからといってそれが不便だと感じた訳でもなく、用がある時
は、**「おい」とか「ねぇ」とか「ちょっと、ちょっと」**と言うだけで充分事は足りていた。
ただ普段はそれで良いのだが、一つだけ、困る時があった。
それは新しい仲間をノラ猫名簿への記入する時だ。
名簿には、個々を識別する欄が必要だった。そこで便宜上、名前の代わりに考え出されたのが、毛の色と、しっぽの長さ
**(短いのはA,長いのはB)**と、性別
**(オスは ” お ” メスは ” め ” )**をいっぺんに表す呼び名が考えられた。
例えば僕は、「しろおA」白い毛で、オスで、尻尾が短いという意味だ。
では、毛の色が茶色で尻尾の長いメス猫は、どうなるかというと **「ちゃめB」**と記載される。
じゃあ、色んな色の混じった猫はどうなるんだ、と言われそうだが……。
そう、確かに「お前一体何色の猫なんだ?」と聞きたくなるようなゴチャゴチャした猫もたまにはいたが、そこはもう、単な
る書類上のことなんで、適当で良いらしい。何となく目に付く色で決めるとのことだ。
ノラ猫名簿は、幹部の猫たちによって大切に保管されていたから、僕たち一般 猫が目にすることはほんどなかったけれど、僕
については確か名簿のサ行の欄に、”しろおA、背中に黒い丸模様がひとつ ” と記されていたはずだなんだか懐かしいなぁ。つ
い外にいた時のこと思い出してしまったけれど、もうあれは過ぎ去った遠い昔の話。
「まるちゃんだって? 素敵な名前じゃないか。気に入ったよ。だけど、なんで僕、まるちゃんなの?」 気を取り直した僕は、
興味深そうな目で黒い固まりを覗き込んだ。
「僕をここに連れて来た人間が、うちにはまるちゃんていう猫がいるの、って言ってたからだよ」
体中の力がいっぺんに抜けた。
これだから、赤ちゃん猫とまともな話なしができない。本気でビックリしただけ損したよ。
まるで人間の言葉がわかるような気になってる。幼いっていいよな。純粋というか、無知というか。
まあ、ここは大人の猫として、この夢見るガキ猫の空想に付き合ってやろう。
「そうそう、僕はまるちゃんだよ。そして、君は?」
**”君”**だなんて気障な言葉、今まで使ったこともなかったが、ここはちょっと粋なお兄さんっぽく振る舞ってやろう。
「僕は小さいから、ちいだよ」
そうか、それもれれが言ってたんだなと、にやにやしながら調子を合わせてやる。
「れれって?」
ちいという名の幸せ猫が、ひげをピンと張りながら僕の顔を覗き込んだ。
「れれっていうのは、君をここに連れて来た人間だよ。君と話ができるっていう、あの人間のことさ」
と(君)というオシャレな言葉を連発しながら、からかい半分に教えてやったが、
「君じゃなくって、ちいだからね。ちゃんと名前を呼んでよね!」と、注意を受けてしまった。
「ごめん、ごめん。ちい」
名前を呼びあうことに慣れていない僕は、正直ちょっと照れくさい。どうも、さっきからこの黒い固まり、じゃなくて、ちい
に先を越されている感がある。
「まるちゃんと、ちいと、れれなんだね。僕たち家族なんだね!」
ああ、なんというおめでたいやつ。そんなに浮かれてはしゃいでる状況じゃあないんだよ。人間に食べられるかもしれないっ
ていうのに。知らないってことは、幸せなことだよな。
だけど、いつ来るかわからないXデイまでは、ちいにそのこと、何がなんでも隠し通さなくては。それが、経験積んだ大人の
猫としての僕の役割だからな。
僕は、幸せのあまりうっとりとした風な顔を作り、何度もちいの鼻に自分の鼻をくっつけながら、
「ああ、それともうひとり、れれ夫というでかい人間が、夜になったら帰って来るよ」
と優しい声で付け加えた。
ちいが、どんなに勘違いの激しいノーテンキ猫であろうが、現実離れした夢追いテンネン猫であろうが、猫であることに変わ
りはない。
僕はコミュニケーションのとれる相手ができたことに、心の底から感謝した。
これから、どんな困難が待ち構えているかわからない。
それでもとりあえず今、目の前に(猫)という同種の、そして同言語で会話のできる相手が存在するという状況に、体中が
喜びホルモンで満たされていくのを感じていた。が、
「あれ?」
僕は、喜びホルモン以外の、何か奇妙なものをお腹に感じた。
「何だ、この感触は」
恐る恐る自分のお腹のあたりを見た。最初はよくわからなかったが、
「わぁ、冗談だろ。ちい」ちいが、ちいが、僕のお乳を飲んでいる。
「やめろ! 僕は男だ。お母さんじゃないぞ」と叫んでも、聞こえていない。くすぐったさが、痛さに変わってきた。
「ちい! ちい! 寝ぼけるなよ。僕だよ。まるだよ!」と、ちいの体をゆすってみても、ダメだ。完全に
**(お乳を飲む赤ちゃんとその母)**状態に陥っている。
仕方がない。痛いのを我慢して、ちいに付き合ってやるか。僕はしばらく、ちいの気持ち良さそうな顔を見ていた。
―そうか。お母さんって、こんな気持ちなんだな。僕もこうやって、お母さんのお乳を飲んで大きくなったのかな。
出るわけもないお乳を、一生懸命飲もうとしているちいが、なんだかたまらなく愛おしく感じた。
不思議なことに、僕は痛さも忘れて、この状態をずっと続けていたいと思った。
誰かに見られたら、**「ブッ!おまえら何やってんだよ」**と笑われそうなこの状態。
とてもじゃないが勘弁してくれよ、と言いたいところだが、この甘えん坊の舌っ足らずのちいに、頼られているという確信を
持ったことは、この家に来てからずっと何の生き甲斐もなく、誰に頼られるわけでもなく無駄に日々を重ねていた僕にとっ
て、何よりの喜びだった。
僕は、久しぶりに、元気が湧いてくるのを感じた。
この大切な友達は、まだ赤ちゃんから卒業できていない授乳友達だから、僕がしっかり守ってやらなければいけないんだ。
ちいの幸せそうな横顔を見ながら、僕は喜んで母親役を引き受けようと思った。
ちいは一日だいたい一時間から、長いときには三時間くらい僕のお乳を飲んでいる。
何度も言うが、僕は男だからお乳は出ない。
それで僕のお乳はかわいそうに…真っ赤に腫れ上がって、ひりひりしている。だけど、ちいの幸せそうな顔を見ていたら、痛
さなんかへっちゃらになってくる。
それまで僕は、自分のこと、もっと自己チューな猫だと思っていた。
案外良いとこもあるんだ、なんて自分を見直しながら、毎日の日課になってしまった (授乳)を続けていた。
そんなある日のこと、れれが妙な物を持って近づいてきた。
―何だ?
僕は、軽快レベルを最高に引き上げて、眉間にシワを寄せ、思い切りうさんくさいなぁ、という目つきでもって、その変なも
のを見た。
~続く
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