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コインの弾ける音も、ルーレットの回る音も、人々の欲望が入り混じった喧騒も。
すべてが引いた営業終了後のカジノは、まるで海底のように静かだった。
メインの照明はすでに落とされており、フロアの片隅にあるバーカウンターのネオンサインだけが、気怠い紫と青の光を暗闇に投げかけている。
Mafiosoは、靴音を忍ばせて広大なフロアを歩いていた。
ふと、静寂を縫うように、ぽつり、ぽつりと不器用な音が響いてきたことに気づく。
音の出処は、フロアの奥に設置されたステージだった。
そこに置かれた古いグランドピアノの前に、見慣れた影が座っている。
Chanceだ。
Mafiosoは暗がりに立ち止まり、その姿を無言で見つめた。
彼はトレードマークのサングラスを外し、ピアノの鍵盤に向かっていた。そして、完全に目を閉じたまま、ゆっくりと指を動かしている。
弾いているのは、ひどく単純なメロディだった。
『きらきら星』。
子供が初めてピアノに触れる時に弾くような、他愛のない童謡。
普段の彼なら、絶対に人前で見せない姿だった。
常に余裕を纏い、息をするように軽口を叩き、決して本心を悟らせない飄々とした笑顔。それが、この不敵なギャンブラーが世界に向ける『仮面』のはずだ。
しかし今の彼は、あまりにも無防備だった。
閉ざされた瞼。鍵盤を探る、少しだけ覚束ない指先。
裏社会に生きるMafiosoにとって、他人の無防備は『弱み』と同義だ。いつでもその喉元に牙を突き立てられる、絶好の『隙』でしかない。
――だというのに。
Mafiosoは、微塵もそんな気になれなかった。
(……綺麗だ)
ネオンの淡い光に横顔を照らされながら、目を閉じて童謡を奏でるその姿は、奇妙なほど美しかった。
彼が弾く『きらきら星』は、軽い。
リズムは単調で、技巧なんて何もない。けれど、その音の隙間には、どうしようもないほどの『寂しさ』が透けて見えた。
誰にも触れさせない、親にすら見せなかった、彼の一番柔らかくて孤独な部分。
Mafiosoは足音を殺したまま、ゆっくりとステージへ近づいた。
驚かすつもりも、からかうつもりもない。ただ、引き寄せられた。
鍵盤を叩くChanceの隣、ほんの少しだけ距離を空けた場所に、静かに立つ。
気配に気づいたはずなのに、Chanceは目を閉じたまま、演奏を止めなかった。
ただ、口元に微かな、本当に微かな弧を描いただけだ。それはいつもの人を食ったような笑みではなく、安堵にも似た、静かな微笑みだった。
言葉はいらなかった。
ただ、暗いカジノの片隅で、マフィアの男が不器用なピアノの傍らに立っているだけ。
夜空の星に手を伸ばすような、たどたどしい旋律。
誰もが知っているはずの短い童謡が、今夜はやけに長く感じた。
そしてMafiosoは、この静かで途方もなく愛おしい時間が、永遠に終わらなければいいと、柄にもないことを思っていた。