君はペット~いわふか編~
残業帰りの夜道。
会社でまた理不尽な指示を押しつけられて、上司に嫌味まで言われた俺は、肩を落としてマンションのエントランスにたどり着いた。
「……最悪の一日だった」
疲れきってエレベーターに乗ろうとしたそのとき、視界の端に、何かが見えた。
ダンボール箱。大きめの。
『拾ってください』――そんなふざけた文字が、油性ペンで書かれている。
「……いや、今どきそんなの本当にある?冗談でしょ……」
犬、猫、もっと他の動物か…。
かわいそうに。いや、今の俺よりはかわいそうじゃないかもしれないな。
好奇心と同情からかつい中を覗いてしまう。
「え?」
なんと、その箱の中には、なんと人が入っていた。
背の高い青年が、膝を抱えて丸まっている。
濡れた髪。震える肩。
……そして、どこかで見たことのある顔。
「ちょっと、君……」
声をかけると、ゆっくりとその男が顔を上げた。
「……ふっか?」
その瞬間、ふっかの頭が真っ白になる。
だって、そこにいたのは――数年前、弟みたいにかわいがっていた後輩、岩本照だった。
「……え、照? なにしてんの……てか、どうしたの、その格好……」
「……住むとこ、なくなっちゃって」
「は?」
「俺を……飼ってくれない?」
「…………は?」
―――――――――時が止まったと思った。
冗談だよな・
けれど、照はいたって真剣な目で、俺を見つめていた。
どうかしてる。
いや、本当に。どうかしてる。
そう何度も頭の中で繰り返しながら、俺は濡れたダンボールごと、岩本照を家の中に入れていた。
「……そこ、座ってて」
部屋の中に冷たい空気が入ってくるのを感じながら、扉を閉める。
その音がやけに重たく響いて、現実に引き戻された。
「マジで……なんでうち来たの、照」
ふと見やると、ソファの隅に遠慮がちに腰を下ろした照が、ぬれた服のままで小さくうなずいた。
「家、追い出された。仕事も今、ない」
「はぁ……」
「
俺は軽く相槌をうつも、キッチンに向かう。
とりあえずタオル。あと、暖かいお茶ぐらいは出してやらないと、って思ってる自分が甘すぎて嫌になる。
けど、目の前の男は、昔よく笑ってたあの照じゃなかった。
痩せた頬、濡れた髪、落ちた肩。
見て見ぬふりできる状態じゃなかったんだよ、たぶん。
「あのさ」
俺はタオルを照の肩にかけながら、ふと疑問が湧いて口にした。
「なんでさっき、“飼ってくれ”なんて言ったの? 意味わかんないよ」
タオルの端を握りしめたまま、照が少しだけ笑った。
けど、それは疲れた犬みたいな、安心したような、そんな顔だった。
「ふっかが、優しそうだったから」
「……いや、なんだよそれ」
苦笑しながら言い返したけど、喉の奥がきゅっと締まる。
優しそう、って。
そんな風に見えたんだ、俺。
何してんだろ、俺。
でも、追い出せるほど冷たくもなれなかった。
「……今夜だけだぞ」
そう言うと、照が小さくうなずいた。
それはもう、まるで言葉の意味なんか理解してないみたいに、静かな表情だった。
――――――
朝だ。
目覚ましより早く目が覚めるなんて、年に何回あるか。
でも今日は理由がある。いや、理由しかない。
俺の家に――俺の部屋に――照がいる。
……夢じゃなかったらしい。
静まり返った部屋。
掛け布団を抜け出してリビングに行くと、ソファの上で丸くなってる照の背中が見えた。
毛布をかけたはずなのに、器用に蹴っ飛ばしてる。寒くないのか。
近づいて、そっと声をかけた。
「……おい、照。朝だぞ。……っていうか、起きてた?」
その背中が、ゆっくりと動く。
そして、振り向いた照の顔は――なぜかやけに真剣だった。
「ふっか」
「……なに」
「俺、本当のペットになる」
「…………は?」
寝起きの頭に突き刺さるような言葉だった。
「いや、待って。昨日のあれは冗談っていうか、ただの勢いだったよな? お前も疲れてただけで――」
「違う。ちゃんと考えた。俺、働ける場所もないし、家もないし、迷惑かけるのも嫌だし……でも、ふっかのそばにいたい」
照はソファから立ち上がって、まっすぐこっちを見た。
その目には、冗談も甘えもなかった。
本気だ。
――ってなんでそこだけ本気なんだよ。
「ごはん出されたら“いただきます”って言うし、吠えないし、部屋も汚さない。あと……ちゃんと待てとかも、できるようになる」
「ちょ、お前……マジで何言ってんの!?」
「だから、俺をペットとして――飼って?」
照の口調はどこまでも静かで、優しかった。
まるで、俺の拒絶さえも包み込むみたいに。
けど俺は、完全にフリーズしてた。
自分の中に浮かんでくる感情が、困惑なのか、笑いたいのか、どこかで期待してるのか――判断がつかなかった。
ただ一つ思ったのは、
――……冗談で言ってるなら、笑って流せたのに。
これはやっかいなことになるかもしれない、ってことだけだった。
「……本気で言ってんの……?」
自分の口からその言葉が漏れた瞬間、頭の中がますます混乱する。
まっすぐな目。
冗談を言う時の、あのいたずらっぽい笑みじゃない。
むしろ今のほうが、照らしい気さえして――それが一番、困る。
「俺さ、ふつうに人間として扱ってくれていいんだぞ?っていうか、ペットって……」
「ふつうじゃ無理だと思うから言ってる」
間髪入れず返ってきたその言葉に、息が詰まった。
「……なんで?」
「俺、人としてはふっかのそばにいられる自信ない。でもペットだったら、いられるかもしれないと思った」
照の声は淡々としてたけど、言葉の奥にある感情は複雑だった。
その強がりに、やけに胸がざわつく。
追い出せない。
今すぐ「ダメだ、出てってくれ」って言えば、たぶん照は従うんだと思う。
だけど――言えなかった。
「……今だけな」
そう言った自分の声が、驚くほど静かだった。
「マジで、今だけ。お前がちゃんと次の仕事と家、見つけるまでな。……それまで“仮”で、ってことで」
照は目を丸くして、ゆっくり頷いた。
どこかほっとしたような、嬉しそうな顔をして。
――なんだよ、その顔。
かわいすぎんだろ、おい。
自分の中で、なにかがひっくり返る音がした気がした。
―――――――――
出勤の支度をしながら、ソファの上にいる照を横目で見る。
スウェット姿のまま、毛布に包まってうとうとしてるその姿は、どう見ても“人間”じゃなかった。
完全に……なんというか……でかい犬。
「……鍵かけとけよ。絶対、変なとこ触んなよ」
「わかった。待ってる」
返事だけはやけに素直で、なんか余計に引っかかる。
そんなに素直なら、ちゃんと働けると思うんだけどな……と思いつつ、結局何も言えずに家を出た。
通勤電車はいつも通りの混み具合で、職場もいつも通りのピリピリした空気だった。
昨日のあの上司――部長の佐伯は、朝からすでに不機嫌そうな顔で資料を机に叩きつけてきた。
「深澤くん、これ昨日の数値、間違ってるでしょ?何回確認したの?」
「いえ、確認はしてましたけど……指示された数値が変更になってたんで――」
「はあ?それを早く言わないからこうなるんだよ!言い訳する前に修正しなさい」
うん、今日も絶好調に理不尽だ。
俺のせいじゃねーよ、って喉まで出かけた言葉を飲み込む。
反論する気力もない。
大人って、ほんとつまんない。
昼もそこそこに済ませて、残業。
終わる頃には頭も目も重くなってて、自分が何のためにここにいるのかもわからなくなっていた。
「……あー……やだな、帰りたくねぇ」
会社を出て、歩きながらふとつぶやいたけど――その言葉に、少しだけ引っかかった。
帰りたくない?
いや、違う。
昨日までなら、確かにそう思ってた。
けど今は――家に、照がいる。
俺を「待ってる」って言ったあいつが、ソファで丸まってる姿を思い出して、なんかほんの少し、肩の力が抜けた気がした。
「……なんなんだよ、あいつ……」
そうぼやきながら、早くシャワー浴びて、早くソファに沈みたいって思ってる自分がいた。
こんな疲れた日は、なんも考えずにだらっとしたい。
誰かがいてくれるなら、なおさら。
ドアの前で、ひとつ息をついた。
重たく感じるカバンの紐が、肩に食い込んでる。
靴のままソファに倒れ込みたいくらいの疲労感。
けど、今日は――いつもと、少しだけ違う。
鍵を差し込んで、ゆっくり扉を開けた瞬間だった。
「ふっかーー!!」
――――――ドン!!
「……はあっ!?いったたた…」
目にも止まらぬ勢いで、ソファから照が飛んできた。
でかい図体のまま、そのまま俺の胸に体当たり。
俺は壁にもたれてなかったら、確実にひっくり返ってた。
「ちょ、バカ……おま、いきなり何すんだっ!」
「おかえり!おかえり!すっげー遅かった、心配した」
俺のシャツの裾をぐしゃっと握りしめて、顔をぐいっと近づけてくる。
真っ黒な瞳がきらきらしてて――正直、犬にしか見えなかった。
「帰ってくるって言っただろ。ちゃんと帰ってきただろ」
「でも寂しかった」
「……お前なぁ……」
怒るべきなのか呆れるべきなのか。
けど、ふと気づけば、自分が笑いそうになってるのが悔しい。
部屋の中はほんのりあたたかくて、ほんのりカレーの匂いがした。
テーブルの上にはレトルトだけど、あったかいカレーと炊きたてのごはんが置かれてる。
「飯……作ったの?」
「作ってない。温めただけ。でも、タイミング合わせたから、今ちょうどいい」
胸を張って言う照が、なんか無駄に誇らしげで笑える。
こんなの、誰にでもできるって突っ込めばいいのに――なぜか口に出せなかった。
言われるままにスーツを脱いで、手を洗って、席に着いた。
テーブル越しに座る照が、じっとこっちを見てる。
「……なに?」
「ふっかが帰ってくると、安心する」
ぽつんと照が言ったその言葉に、心のどこかがじん、とあたたかくなった。
――俺が、帰ってくると安心する。
そんなこと、今まで言われたことなんてあったか?
それなのに俺の口から出たのは、ただのひと言だった。
「……バカ」
結局自分でもよくわからない。
「……はあ~~~、うめ……」
レンジで温めただけのレトルトカレー。
なのに、何でこんなに沁みるんだろうな。
食べ物の味って、精神状態で変わるんだろうか。
目の前で照が楽しそうにカレー混ぜてるの見ながら、そんなことをぼんやり思った。
「で? 今日はどうだった?」
照がスプーンをくるくる回しながら、さらっと聞いてくる。
俺の顔を見ずに、でもちゃんと耳はこっちに向いてる感じで。
「……まあ、いつも通りだよ。ってか、いつも通りが最悪なんだけどな」
口をついて出たその言葉に、自分でちょっと笑った。
食事中に仕事の愚痴なんてみっともねぇ、と思いながらも、言い出したら止まらなかった。
「今日も部長に怒鳴られてさ。しかも、完全にあっちの指示ミスなのに。
“言われた通りにやった”って言っても、“言われる前に気づけ”とか、無理だろそんなの」
「理不尽だな、それは」
「な。で、まわりもみんな見て見ぬふりよ。俺、完全に的当ての的」
照は、頷きながら黙って聞いてた。
こういうの、うまいんだよな。
変に口を挟んでこないし、かといって無反応でもなくて、ちゃんと“そこにいる”って感じがする。
「ほんと、俺なにやってんだろって思うよ。毎日詰められて、疲れて、
帰ったら1人で……いや、今は照がいるけど」
「……俺、役に立ってる?」
「まあ……話くらいは聞いてくれてるな」
ああ、これだけで、こんなに楽になるんだな。
誰かが“帰ったらいてくれる”って、こんなにも大きいんだ。
なんかさっきから、心の奥の方がほんのりあったかい。
ふと、思ったことが口に出た。
「……そういえばさ、照って、なんで捨てられてたんだっけ?」
カレーをすくっていた照の手が、ぴたりと止まった。
スプーンを持ったまま、ふわっとした笑みを浮かべて――でも目だけは笑ってなかった。
「さあ、なんでだろうなあ。たぶん、飽きられたんじゃない?ペットだし」
冗談っぽく言うその口調が、やけに軽くて。
逆に、触れちゃいけないものに触れた気がした。
「……そっか」
「まあ、捨てられてよかったよ。じゃなきゃ、ふっかに会えなかったし」
「……バカ」
「これでバカ2回目」
「くっ…」
はぐらかされたのはわかったけど、それ以上は聞かなかった。
照が笑うたびに、どこか遠くを見てるみたいな顔をするのを、俺は知ってる。
――だからたぶん、まだ“ペットごっこ”じゃ埋まらない何かが、あいつの中にはあるんだろう。
それでも俺は、そいつを追いかけてみたくなる。
明日もたぶん、会社は最悪だ。
でも――帰ってくる理由が、ひとつだけ、できてしまった。
―――――――――――
朝起きて、顔を洗って、トーストを焼く。
そんな何でもない朝の一コマに、照がいるのが、もう当たり前になりつつある。
「ふっか、トースト焦げてる」
「……あー、やっべ。やり直そ……」
「そのまま食べるなら、ジャム塗るとごまかせるよ」
「焦げ担当かよ」
横でちゃっかり座って、何もしてないくせに“飼い主”みたいな顔してアドバイスしてくる。
正直うっといしいけど、俺が口に出す前にコーヒーを淹れてくれてたりするから、文句も言いきれない。
洗濯を干してたら、照が隣に並んでタオルを渡してきた。
干し方、わりと几帳面。意外。
買い物に行けば、かご持ってくれるし、俺が悩んでると横から「それ割引だから買っとこ」とか言ってくる。
あいつ、どこでそんな生活力身につけたんだ。
夜、疲れて帰ってきたときには、玄関の明かりがついてて、ソファに丸まって待ってる照がいて――
俺が無言でカバンを置くと、「今日もお疲れ」って、当たり前みたいに言ってくる。
あいつ、ほんと“空気読む”のうまいんだよな。
何も聞かれないのに、ちゃんと癒されてる自分がいて、それが逆にこわい。
「……照ってもしかしてほんとにペットなの?」
「ん?」
「いや、なんでもない」
気づけば、歯磨きする時も、テレビ見てる時も、晩メシ食べてる時も、
目線の端っこにあいつがいるのが自然になってて。
いない日のことが、もう思い出せない。
きっと、これは一時的なもの。
“仮”のペット。“仮”の同居人。
でも、ふっかの中ではすでに、照が“日常”に溶けはじめていた。
それを自覚するには――もうちょっとだけ、時間がかかりそうだった。
「準備できた?」
「できてるよー」
鏡の前で髪をいじりながら、照が返事する。
休日、珍しく晴れ。
せっかくだしどっか行くかって、俺がぽつっと言ったのが始まりだったのに――
なんであいつの方が張り切ってんだよ。
「ふっか、服それで行くの? ちょっと地味じゃない?」
「地味でいいだろ。別にデートじゃないし」
「でも俺の飼い主なんだから、もうちょい堂々としたほうがいいと思う」
「……照、飼われてる自覚ほんとにある?」
照はにやっと笑って、俺の目の前まで歩いてくると――ぽん、と俺の首元を指差した。
「じゃあ、今日は外出用に首輪でもつける? リード付きで」
「はあ!? やめろバカ、通報されんだろ!」
「ちゃんと迷子札もつけとく。『深澤のペット・ひかる』って」
「絶対ヤダ」
冗談にしか聞こえないのに、
あいつの目が妙に真っ直ぐで、一瞬だけ言葉に詰まった。
首輪とか、リードとか、そういうのは冗談だ。
けど――“つながっていたい”っていう、
あいつのちょっとした本音みたいなのが、見えた気がして。
「……もう、なんか照って、ほんと犬みたいだよな」
「……嬉しい」
「いや褒めてないから」
なのに、こいつはそのまんま素直に受け取る。
まるで俺の言葉を、撫でられるのと同じくらいに感じてるみたいで――
それが、ちょっとだけ苦しかった。
支度を終えて、ドアを開ける。
照が自然と隣に立って、外の空気を吸い込むみたいに大きく伸びをする。
こんなふうに誰かと外に出るの、いつぶりだろう。
隣にいるやつが“彼氏”でも“友達”でもなく、“ペット”って、よくわかんないけど――
まあ、悪くないかもな、って思った。
―――――――――――
「とりあえず、駅前でも行くか」
「おっけー」
照が、俺のちょっと後ろを歩く。
並んで歩けばいいのに、何となく一歩引いてついてくるその感じが、
ほんとに犬みたいで笑いそうになる。
駅前は、休日のせいか人が多かった。
カップルも家族連れも、友達同士も、みんな思い思いに歩いてる。
俺たちの関係は、たぶんそのどれにも当てはまらない。
「なあふっか、あれ食べたくない?」
「……クレープ?」
「うん。うまそう」
じっとショーケースを見つめる照。
中身より、明らかに「一緒に食べたい」って顔してる。
「……まあ、いーけど」
「やった!」
子どもかよ、ってツッコみながら、俺はチョコバナナクレープを二つ頼んだ。
照は両手で大事そうに受け取って、ニッコニコしながら食べはじめる。
「……甘っ」
「うまっ!チョコ最高!!」
嬉しそうな顔を見て、なんか負けた気がした。
べつに俺、クレープ食いたいわけじゃなかったのに。
あいつの「うまい!」が見たくて、買っただけだって、思う。
クレープ片手に、ふたりで公園に寄り道した。
ベンチに腰掛けて、ぼんやり空を見上げる。
春の気配が少しだけ混じった風が、心地いい。
「なあふっか」
「ん?」
「俺、ちゃんと“ペット”できてる?」
照がクレープを食べながら、ふいにそんなことを言った。
ふざけた調子だったけど、どこか本気にも聞こえた。
「……まあ、悪くはないな」
それが今の、俺の精一杯の答えだった。
“ペット”ってなんだよ、って内心では思ってるけど。
こいつがいるだけで、俺の日常は、確実に変わってる。
「じゃあ、今日の散歩は合格ってことで!」
「はいはい」
照が嬉しそうに笑った。
その笑顔に、心の奥がふっと軽くなるのを感じた。
気づかないふりをしてるけど、
たぶん俺は、もうこいつなしの生活に戻れない。
それが、ちょっとだけ怖かった。
――――――
「ふー、疲れた……」
玄関に靴を脱ぎ捨てて、リビングに倒れこむ。
休日にしてはだいぶ歩いた。
照も同じくソファにぐたっと倒れ込んで、床に転がったクッションに顔を埋めた。
「なあ、今日なかなか頑張ったよな」
「うん、楽しかった」
照の声は、ちょっとくぐもってる。
その無防備な姿を見て、思わず笑いがこぼれた。
さて、シャワーでも浴びてサッパリするか。
そう思ってバスルームに向かいかけたとき――ふと、気づいた。
「あれ、ボディソープ、もうなかったっけ……?」
この間使い切った記憶がある。
買い忘れてた。
どうするかな、と思ってると、ソファからひょいっと照が顔を上げた。
「じゃあ、俺、買ってくるよ」
「え、別にいいって。あとでまとめて買えば――」
「すぐそこだし、俺が行った方が早いって」
言うが早いか、照は立ち上がり、財布をポケットに突っ込んで、パーカーを羽織った。
スニーカーをひっかける音。
ドアが開く音。
「あ、気をつけて――」
俺の言葉を、ドアの閉まる音がかき消した。
……ま、コンビニまでだろ。
5分か10分もあれば帰ってくる。
そう思って、ソファに寝転んでスマホをいじりはじめた。
―――――――5分経った。
―――――――10分経った。
―――――――15分経った。
「……おっそ」
思わず声に出た。
コンビニって、もっと近かったよな。
なんでこんなに帰ってこないんだ?
スマホを手にしたまま、落ち着かない。
何度も時間を確認する。
LINEを送ろうかと思ったけど、
『早く帰ってこい』なんてガキみたいなことを言うのもダサい気がして、送れなかった。
家の中、やけに静かだ。
照がいないだけで、こんなにも無音だったっけ。
さっきまであんなに普通だったのに、
急にぽっかり穴が開いたみたいな、妙な不安が喉元に広がった。
まるで、
最初から“いなかった”みたいに。
このまま帰ってこなかったら、って。
ありもしない想像を、必死で打ち消した。
「……バカか俺」
呟いた声が、やけに響いた。
はやく、帰ってこいよ。
「ただいまー」
玄関のドアが、やっと音を立てた。
思わずソファから立ち上がる。
顔を見せた照は、何だか少しだけ、汗をかいていた。
「おっせーよ、なにしてたんだよ」
言いながら、怒鳴るでもなく、ぐちぐち言うでもなく。
でも、声に滲んだ焦りみたいなのは、自分でもわかった。
「ごめんごめん、コンビニ行く途中でさ、迷子の子どもに声かけられてさ」
「……迷子?」
「うん。駅まで行きたいって言われて、案内してたら、思ったより時間かかっちゃった」
そう言って、照は頭をかきながら苦笑した。
手にはちゃんと、ボディソープの袋をぶら下げてる。
それを見て、ふっと胸の奥の硬さが溶けるのを感じた。
……バカみたいだ。
そんな理由なら、怒れるわけないじゃんか。
「ったく……人助けしてたんなら、しょうがねぇけどよ」
「ふふ。ふっか、俺がいなくて寂しかった?」
そう言って、にやにや笑いながら覗き込んでくる。
その顔が、無邪気すぎて、イラッとするくらいまぶしかった。
「は?別に?」
即答。
心では――違った。
正直、めちゃくちゃ寂しかった。
ずっとソワソワして、早く帰ってこいって、何度も思った。
でもそんなこと、照にバレたらきっと、またこんなふうにからかわれる。
だから、言わない。言えない。
「ふーん……」
照は何か言いたげだったけど、それ以上突っ込んでこなかった。
ただ、にやっと笑って、俺の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「じゃ、ボディソープ置いとくね」
「……ああ」
いつもの調子。
何でもないふり。
でも、心の奥で、確かに思ってる。
――お前が、いなくなるなんて、考えたくもねぇよ。
その気持ちを、
今日も、まだ胸の奥に隠したままだった。
この続きはnote限定で公開中。
気になる二人の恋の続きはこちらからどうぞ。
笑って、キュンとして、時々じれったい──
あなたのお気に入りのカップリングが、ここにきっとある
続きはこちらから
https://note.com/clean_ferret829/n/n0defd3e5c901
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