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シンシンと静寂の音が聞こえる夜の事でした。
月に誘われ、縁側をおりて下駄を履き庭へ出たのです。
なんて事無い話でございましょ?
元々私は寝れずの病を患っておりまして…
幾夜もそうして過していたのですが、
その時は、妙な予感が在ったのです。
月明かりを頼りに庭の石灯籠脇の椿に口付けを。
ひんやりとしたその感触に、今日もまた易々と眠れずに過す事を確信致しまして。
それでも…分かりきっている結末など、誰が喜んで待ちましょう?
少しでも自分の体に睡魔を呼び込める様に努力すべく、
庭から家の門へ…門から外へ…月夜の散歩と歩を進めました。
本当に真丸なお月様が武家屋敷の並ぶこの通りを照らし
昼間とは違う珍妙な陰影を描いておりました。
私も女ですから、その様に少しばかり怯まなかったと言えば嘘になりますが…
かといえ、家の敷地内に在ったとして、何の物事が進みましょうか…
また庭を徘徊しては床に入り、目を瞑っては眠りを諦め、また徘徊する……
そんな阿呆の繰り返しなど…月夜が見せる奇妙な幻想と対峙する方が
よっぽど利口であると、その時の私は愚かにも思ったのです。
武家屋敷の通りを抜け、竹林を潜り抜け、石橋を渡ろうとしたときでした。
橋の下に身を滑り込ませた小川の流れの中に白っぽい漂流物が
月明かりに照らされて、点々として見えたのです。
もしこれが私でなかったら気がつかなかったでありましょう。
何より眠れぬ夜の時間を持て余していた私ですから
橋の脇の土手を注意深く下り、流れに近づき、黒いその漂流物の一つを
手に取りました。それがまぁ、なんだったとお思いになりますか?
月明かりでぼんやりと見える宝珠咲きの…あれは紅乙女ですわね。
このあたりの方には愛されておりました華ですから。
それが小川の一面にまるで水玉を散らすように流れておりました。
川面に映る満月の上を次々流れていく様はまこと現実とは思え無いほど
幻想的でございまして
幾つか流れるそれを手にとって不思議に思ったのですが、
その椿は枯れて落ちた様でもない、凛として盛りの真っ只中の椿の漂流
その美しさたるや寝れずの病に困り果ててる私を哀れんだ神か仏の
粋な計らいかと、思うほどでした。
誰だっておかしいとお思いになるでしょう?つい好奇心に駆られて
この漂流の源を突き止めてみたくなりまして川上へ向かって歩を進めてまいりました。
するとどうでしょう、ずっと川上に歩いた所に土手から土手へ掛かる橋がありまして
その丸く盛り上がった頂に迫ってきそうなほどの真丸なお月様を背に
一人の男性が立っておりまして……
声を掛けるのも憚られるほどの張り詰めた空気を感じましたもので、
ただただその光景を黙って見つめていたのですが、
その男に、女性らしき影が引き寄せられるようにフラフラと…
嗚呼これが巷で聞く隠れた逢瀬というものかと興味をひかれ
つい…その……覗き見をするかの様に、その様子に魅入ってしまいました。
するとどうでしょう、近づいた女が男に向かって抱擁を求めるように
手を広げさらに近づくと一瞬、閃光がクルリと輪を描いた瞬間女の姿勢がゆらりと・・
均衡を崩しそうになった刹那、まるで華が突風で散るかのごとく
その姿をバラバラに飛散させ 影が跡形もなく消えうせてしまったのです。
呆気にとられ、立ち尽くしているとまた、女らしい影が、男に引き寄せられて
先ほどの光景を、又繰り返した訳です。
何度も何度も目の前で起きる光景に徐々に自分の見ているこの景色が、
まるで夢か何かのように思えてきまして
その妖しい美しさに…つい引き寄せられて近づくと
今度は今まで斬られ続けていた女とはまた雰囲気の違った女性が
男に何やら話しかけておりまして、男に掴みかかり、
何かを必死に訴えている…そんな風に見えました。
そしてしばらくそのやり取りが続いた末、
また閃光がクルリと輪を描いた瞬間女の姿勢がゆらりと…
ただ、先ほどまでとは違うその影、飛散などせずにフラフラと動き
橋から落ちた…と思うとダブン…と水音が……
自分からさほど遠くない場所で聞えたのです。
今までとは違うその状況に呆気にとられて立ち尽くしてると
橋の上の男がその水音の元を見ようとこちらに目をやると
月明かりに照らされた男の冷たくそれでいてこの世のものとは思えない
そんな美しい顔が苦悶に歪むのが見えました。
もちろん、月明かりの下での事なので、鮮明に見えたかと言うと
そうでもないのです。ただ、あのぞっとする位美しい男の
悲しい瞳の色が頭から離れませんで…
恐ろしくなりまして、私はそのままクルリと踵を返して
そのまま家に帰り、興奮を押し殺してその日は床に着きました。
警部様…私の見たあの男は…人殺しだったのですね…
閃光は…刀…でも…でもですよ?私が見たあの閃光は
何人も…何人もの女性の体を撫でました。
が…今回あの川下に上がった躯は確か一体だとお伺いしました…
では、私の見たそれ以前は一体なんだったのでしょうね…?
帽子を目深に被ったその一件無骨そうに見える男は肩を竦め、女に問う
「分かりません……それより貴方がご覧になった男の顔は
もし、昼間に逢っても分かる位に鮮明に覚えておいでですか?」
そう静かに問われ、女は大きく被りを振って返した。
「分からない…と思います。もう一度出会うかもしれないなんて…」
そう思うだけで心の芯がカァッと熱くなった事に違和感を感じた。
何故熱くなるのか…戦慄ならば…冷たく凍りつくものではないのか…
思い出すは月明かりの下 怖ろしく冷たい横顔…
その美しさに目を奪われた時間
心の奥底からザワザワとした何かが這い登ってくるのを感じる
次に出逢うと殺されるのは唯一の目撃者である私であろう事は
容易に想像がつく…が心の中のそのザワザワしたモノは
それでも…と望んでいる。
そんな予感がした。
あの美しく冷たい殺人鬼に逢いたいと望むのか?そもそもアレは…
ヒ ト で 在 っ た の か ……?
脳裏を過ぎるのは月明かりに照らされた川一杯に浮かぶ紅乙女
幻の様な人事の逢瀬に一瞬見せた妖しく暗い…あの瞳
あの時から自分の時間など何一つ動けない……拘束された心
それでなくても寝れずの病を抱える自分にとって
その一つの想いがきっと毎晩毎晩グルグルと螺旋を描いて繰り返されるだろう
そして焦げていく想い……
もう一度…否、もう……
胸をしくしくと刺す痛みに顔を歪ませ瞳を閉じると
その様子を見ていた男がボツリと呟く
「深追いなどするもんじゃない……」
「え……今なんと?」
「いえ…何も……いや、大変貴重なお話を聞けて良かった。また、何かございましたら何時でもご連絡を…」
そういって深く被った帽子のつばをグイと更に下へ引きながら丁寧に頭を下げると玄関に背を向ける男の目に宿る 妖しく悲しい光に女は気が付くよしも無かった。
終