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ユカリたちの前に深奥の扉が開いている。頭の少し上くらいの高さから暗黒の滝が地面に降り注いでいるようだ。じっと見つめていると魂を引きずり込まれそうな真の暗闇が、廃れた目抜き通りの真ん中で静かに渦巻いている。
深奥の扉にジニが入ってからしばらく経った。
「心配しすぎですよね。一度潜ったことがあるのに」とユカリは不平を呟く。
「親とはそういうものだろう」と半透明蛇カーサは諭すように話す。「そして彼女は優秀な魔法使いだ。安全確認を任せるに越したことはない」
「カーサさんもそうでしょう? エイカの代わりに働かされていたんでしょ? 魔法使いでもある次席焚書官殿の本当の力だったんだから」
カーサは消えかかった残り火のような舌を出し入れしながら暫し沈黙し、その後、呟く。「エイカのこと、幻滅したようだな」
「……幻滅、まあ、そうですね。でも私が期待しすぎていたってのはあります。振り返ってみれば義母はエイカのことを包み隠さず話していましたが、私は母との冒険を夢見るうちに幻想を抱いていました。要するに普通の女性だったってだけなのに」
「エイカは普通か?」
「……普通ではないかも。そうじゃなくて、別に英雄でも聖人でもないってことです」
ようやく深奥の昏い扉からジニが顔を出す。「いいよ。おいで」
ユカリはむすりとした表情になる。安全確認を人任せにした冒険など聞いたことがない。かといって安全確認してもらっておきながら文句を言う訳にもいかない。だからただむすっとするのだった。
「何だい? 言いたいことがあるなら言いな」
「良いんです。というか前に言ったことですから。それより随分時間がかかりましたね。まさかアギムユドルの街中全部見てきたわけじゃないですよね?」
「一度来たなら知ってるだろ? 話には聞いてたけどさ。深奥での感覚に慣れてたんだよ」
「私より時間がかかったみたいですね」とユカリは得意そうな顔になる。
「そうだね。深奥の扉を開けるより難しかったよ」
ユカリはむすっとした表情を止め、【笑顔】で魔法少女に変身して「じゃあお留守番お願いします」とカーサに言い残し、深奥の真っ暗闇に勢いよく跳び込む。
前よりもずっと円滑に深奥での感覚を得る。魂を感じ取る感覚が異次元の空間を把握する。
深奥のアギムユドル市はレウモラク市とはまた様子が違っていた。レウモラク市と同様に破壊される前の往年の姿、魂のような内から光り輝く姿ではある。しかしまるで街の一部だけが切り取られたかのようだ。
おおよそアギムユドルの南の辺りにユカリたちはいた。それは深奥でも同じだったが通りの向こうが寸断されたように闇に包まれている。空は緑でも青でもなく、月も星もない夜のような真っ暗だ。
ただし彼方に『死霊も通さぬ堅き門』が見えた。その魂だ。太陽も月も星もない虚ろな空で偉大な門だけが圧倒的な存在として聳え立ち、世界の始まりのように光輝を放っている。茫漠と広がる虚空にアギムユドルの街の一角と、何も隔てていない壮大な門だけが存在している、ように見える。
一方でジニはいつもの通りのジニの姿だった。ユカリは前回と同じく狩人の娘と魔法少女を混ぜ合わせたような姿になっている。しかしジニの姿は現世と全く変わらなかった。とはいえ、その若々しい姿自体がユカリにとっては見慣れない姿なのだが。
ユカリは初めて見たかのように目を見張る。深奥においては魂の姿が剥き出しになるのだろう、と朧気な仮説を立てていたのに、義母の存在そのものがユカリの想像を否定しようとする。
「どうやってるんですか? それ!」
「そもそも元の姿も幻を見せているって言ったろ?」
「そうですけど……」
つまり安全確認していた時にわざわざ自身の魂の姿を隠したということだ。
そもそも何故幻の若かりし頃の姿を見せられているのか。その理由を知らない。若さに固執していたはずはないが、とユカリは過去を思い返すが馬鹿々々しくなってやめる。尋ねたところでどうせユカリのためだとか何とか言われるのだろう。話せることは聞かれなくとも喋るのがユカリの義母なのだ。
ユカリは改めて王都アギムユドルの魂のその一部に過ぎないはずの空間を眺める。
「ところで、これ、安全なんですか?」ユカリは不安になってジニに尋ねる。
「見たところ危険はなさそうだけど。前と違うのかい?」
ふとユカリは思い返す。そもそも深奥においてどう見えるかは人それぞれなのだ。人同士の縁が見た目に影響するのであれば、人と街の関係にも影響してもおかしくない。何せジニはこの街に来たことがある。
「義母さんにはどう見えてますか?」
ジニは辺りを眺めながら逐一言葉にする。その説明を聞く限りではユカリの見え方と大体同じだった。ユカリもジニも。街の一部だけが切り取られたかのように、孤立して存在しているように見えている。切り取られた他の区画はどうなっているのだろうか。消滅したのか、ただ見えないだけなのか。後者であることをユカリは願う。
「どう思います? これが呪いでしょうか?」
「おそらくね。でもどういう呪いなのかはよく分からないね。そもそもあたしたちに作用しているのかどうか」
「あたしたちにって、私は魔導書で変身しているからともかく、義母さんは防げてるんですよね?」
「未知の呪いを防げるわけがないだろう。何の毒かも分からない内に解毒剤を作るようなものだよ」
ユカリは呆れて言葉を失う。そして義母ならばそれが出来ると思い込んでいたことを反省する。
「心配しなくても街ごと人を死なせるような呪いがあれば世間に知れ渡ってるさ」とジニが補足する。ユカリは何か反論しようとするがジニが声を上げる。「あんた! 純真かい!?」
ジニの視線を追って振り返るとユカリにも街角からこちらを覗いている者が見えた。
ゼレタと呼ばれた女は驚いた様子で一度顔を引っ込め、もう一度顔を出す。やはり深奥に沈む者らしく魂を光り輝かせた姿だ。陰影がなくて凹凸が不明瞭になってしまう深奥では顔立ちがはっきりとしないが、見た目にはエイカと同世代のように見える。ユカリほどではないが背が高く手足が長く、しかしこじんまりとした佇まいだ。身構えるように両腕を胸の前に上げ、背を曲げ、今にも走って逃げだしそうな及び腰だ。なだらかな大河のように真っすぐに伸びる長い髪が少しの身動きでたなびく。
「こ、来ないで! な、なぜ私を知ってるの!? あなたたち、に、人間なの!?」ゼレタは声を震わせながらも勇気を振り絞っている様子だ。
「あたしだよ! ジニだよ! あんたからエイカを、赤ん坊を預かっただろう?」
「ジニ? やっぱり人間じゃないんだ! 私を騙そうったってそうはいかないわ。あの人はそんな幼い見た目じゃなかったわよ!?」
「ああ、そうだった。あの時はね。どこから説明しようかね」とジニが呟くのをユカリは聞き逃さなかった。
「違うんです!」とユカリが代わる。「ジニはすごい魔法使いなので若返りの魔法を使ったんです!」
「いや、これはただの幻で――」
「細かいことはいいんですよ」とユカリは義母をたしなめる。仮に幻を解いてもゼレタには見覚えのない老女のはずだ。「貴女も含め、アギムユドルの人々を助けに来たんです! 話を聞かせてください!」
ゼレタは暫く躊躇ったのち、建物の陰から出てきて小走りにやってくる。しかし警戒は解かれていない。
「はっきり言ってわけがわからないわ」とゼレタは訴える。疑わしげにジニを見つめながらゼレタは説明する。「ジニが最後の赤ん坊を連れて行った後、一人一人、少しずつ街から人が減っていったの。誰も何も言い残さずに。初めはどこか別の土地に移ったのだろうと思っていたけれど。あまりに誰もが唐突にいなくなるものだから戦後の混乱に乗じて人さらいが来たのではないかと噂になっていたわ。それでみんな固まって生活するようになったんだけれど、それでも少しずつ人が減っていって。でも去って行ったり、さらわれたりするところを見た人はいなくて。気が付けば私一人になっていた。ねえ、ここはどこなの? アギムユドルに見えるけど、何かが違う。そう! 時々幽霊を見るの! 私恐ろしくって!」
ユカリはじっと耳を傾け、黙考する。この区画以外の街が消滅していることにゼレタは気づいていない、もしくはゼレタ自身にとっては消滅していないように見えるのかもしれない。これも深奥の不思議の一つなのだろうか。あるいはこれこそが呪いなのだろうか。
「まあ、落ち着きな」とジニ自身も落ち着きを見せる。「一つ一つ説明していくからさ」
深奥についての説明は呑み込めていないようだったが、アギムユドル市、ヴォルデン領、そしてクヴラフワ諸侯国連合の現状、何よりおよそ四十年の月日が過ぎ去ったという話を聞き、ゼレタはより一層ユカリたちへの疑いを深めた。
「だって、そんなの信じられるわけがない! 私がここで過ごしたのは長くても数日、いや、数週間、くらいのはず、で……」
ゼレタは黙り込む。自身の時間感覚が曖昧であることに気づいたのだろう。エイカと同じ症状だ。
「それに!」と己を鼓舞するようにゼレタは声を発する。「全然お腹が空いていないし。それどころか死んじゃうでしょ!? 四十年? 私もう六十七歳なの?」
「魂は老いないのさ」とジニが気取って言い、ユカリは同意を示すように頷く。
しかしゼレタは諦めたように溜め息をつく。
「まあ、もうなんでもいいわ。ようやく人に出会えたんだもの。とても寂しかったんだから。じゃあ時々見た幽霊は私と同じ目にあった人たちだったのかしら。でも時々人間に似て人間とは違うらしいものも見かけたんだけど」
「詳しく聞かせてください」とユカリは頼む。
人間に似て非なるものといえば克服者に違いない
「いいわ」頷いてゼレタは語る。「大概の幽霊は彷徨っているんだけど、時々、南の方から幽霊が来るの。それでその後、ここへやって来て、通り過ぎていく。そして必ず戻ってきて南の方へと去って行くわ。でも帰る時には……、上手く言えないけど、禍々しい姿になっているの。頭があって手足があって、だけど妙に太いような腫れぼったいような、芋虫みたいな感じね。正直言って見た目には区別がつかないんだけど、そう感じるの。あいつらは別物だって」
少なくとも今までユカリの見た克服者の姿とは一致しない。とはいえ、複数の姿があるのだ。見たことのない克服者がいてもおかしくはない。
「ここで克服者が造られているのでしょうか?」とユカリはジニに意見を求める。
「その可能性は高いね。ここだけってこともないだろうけど。ハーミュラーがここへ来たのだとすればより重要な魔術工房があるのかもしれないよ。ともあれかくもあれ幽霊とやらが彷徨っているのならとっ捕まえるのが手っ取り早いね」
「ちょっと待ってください。そもそもハーミュラーさんに話を聞きに来たんですよ。意図も分からない内に敵対的な行動をするのは反対です」
「何を言ってんだい。克服者には既に襲われかけたじゃないか。こっちが敵対的な行動を取られたんだよ。ハーミュラーとやらの意図がなんであるにせよ、克服者自身からも聞きたいことは山ほどあるよ」
よく考えるまでもなくユカリには返す言葉が思いつかなかった。
「分かりました。克服者を優先して探しましょう。でもできるだけ話し合いで、それが無理なら捕まえるということで」
「もちろん。話を聞きたいんだからね。それが無理ならあたしが直接調べるよ」
ユカリは身震いする。「解剖とかじゃないですよね」
「あんた怖いこと考えるね」
ユカリは腑に落ちない気持ちで唇を尖らせる。