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にこにこ
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#キャラ崩壊注意
#投稿🐢
yozakura🌸
684
昼のスタジオは、妙に明るかった。
昨日と同じ場所。
同じ鏡。
同じ床。
同じメンバー。
なのに、タイキにもルイにも、全部が少しだけ落ち着かなく見えた。
理由は分かりきっている。
分かりきっているからこそ、余計に厄介だった。
「おはよー」
カノンが先に入ってきて、軽く手を上げる。
「今日もやるかー」
「おはよ」
ゴイチも続いて、タオルを肩にかける。
「……あれ、ルイ珍しく早いじゃん」
ルイはすでにスタジオにいた。
タイキも、その少しあとに入ってきた。
あえて時間をずらしてスタジオ入りしたのだ。
「……おはよ」
「おはよ」
アダムが壁際から短く返す。
一見、何も変わらない。
表向きは。
でも、変だった。
ルイが最初にやらかしたのは、音源確認の時だった。
いつもなら絶対に間違えない立ち位置の番号を、ひとつ飛ばした。
しかも自分で言った直後に、「あ」と小さく止まる。
「珍し」
ゴイチがすぐ笑う。
「ルイがそこ間違える?」
「……ちょっと寝不足」
ルイが何でもない顔で返す。
「昨日の合同練習、だいぶ長かったもんな」
カノンがすぐ納得したように頷く。
「さすがに響いてる?」
「まあ」
ルイは短く返して、視線だけを一瞬逸らした。
その“寝不足”の理由を知ってるのは、当然タイキだけだ。
タイキはそれを聞いた瞬間、変に胸がざわついて、持っていたペットボトルを開けようとして手元を滑らせた。
「うわ」
キャップが半分開いた状態で、水が手元からこぼれる。
床に小さく散る。
「何してんだよ」
カノンが吹き出す。
「今日はそっちもかよ」
「……っ、いや、別に」
タイキは慌ててタオルで拭こうとしゃがみこむ。
耳が少しだけ熱い。
ルイが一歩だけ動きかけて、でも止まる。
それを見てしまったタイキは、余計に落ち着かなくなる。
「大丈夫?」
ゴイチが笑いながらタオルを投げてよこす。
「二人とも珍しくぽやっとしてんな」
アダムがそのやり取りを静かに見ていた。
そして、ほんの少しだけ口元を動かす。
「昨日の合同練習が響いてるな」
声は淡々としている。
でも、その言い方には妙な含みがあった。
タイキとルイは、同時にほんの少しだけ動きを止める。
カノンとゴイチはそこまで気づかない。
「あー、それで疲れてんのか」
カノンがすぐ笑う。
「確かに昨日、精神的にも体力的にも重かったしな」
「納得」
ゴイチも頷く。
「合同練習って変に気遣うし」
「……まあ、そんなとこ」
ルイが落ち着いた声で返す。
タイキも「……多分」とだけ言って、視線を落とした。
心の中では、二人とも同じことを思っていた。
ある意味、響いてる……。
昨日の合同練習も、たしかに響いている。
でも今の寝不足も、ミスも、落ち着かなさも、その続きの夜と朝のせいだ。
それを言えるわけがない。
だから、何でもない顔をする。
仕事の顔に戻る。
戻るつもりでいる。
それなのに。
ルイが目の前で小さなミスをするたび。
タイキがひょんなところで動揺を出すたび。
二人の中だけに分かる熱が、余計にじわじわ広がっていく。
カノンは笑いながら「今日ほんと変」と言うし、ゴイチも「昼入ってまだ起きてねぇのか?」と茶化す。
アダムだけが何も言わずに、ただ少しだけ分かってる目で二人を見ていた。
スタジオの空気はいつも通り。
仕事もちゃんと進む。
誰にもバレるほどじゃない。
でも、タイキとルイの中だけでは、全然いつも通りじゃなかった。
ルイが視線を上げる。
タイキと目が合う。
ほんの一瞬。
それだけで、今朝の額へのキスも、ベッドの近さも、腕の熱も、全部一気に思い出してしまう。
タイキは無意識にペットボトルを握り直した。
ルイはいつもより半拍遅れて目を逸らす。
それだけで、またカノンが笑う。
「なに、二人とも今日ほんとに変なんだけど」
「うるさい」
タイキがすぐ返す。
「お前もな」
ルイも続く。
その返しだけは妙に揃っていて、今度はゴイチまで笑った。
「そこだけ息ぴったりなの何なんだよ」
それにも二人はまともに返せなかった。
返したら、たぶん余計に顔に出るから。
だから、また何でもないふりをして、仕事の空気に戻っていく。
でも胸の内側では、二人ともずっと同じだった。
昨日の合同練習、だいぶ響いてる。
でも、本当に響いてるのはそのあとだ。
そう思いながら。
音は流れている。
メンバーもいる。
雛子は端でタブレットを見ながら、スタッフと小さく確認を取っている。
一見、いつも通り。
なのに、タイキだけは何度もルイを見てしまっていた。
そのせいもあって、タイキはルイの異変に気付く。
何かがおかしい。
明確にミスしてるわけじゃない。
踊れてないわけでもない。
でも、ルイの動きがほんの少しだけ鈍い。
「……ルイ?」
曲間、タイキが小さく呼ぶ。
ルイは壁際でペットボトルを持ったまま、ゆっくり顔を上げた。
「ん?」
声は普通だ。
低くて、落ち着いていて、いつものルイ。
でも、焦点が合うのが少し遅い。
タイキは眉を寄せた。
「流石に静かすぎない…?」
「そうか…?」
短く返して、ルイは水をひと口飲む。
それも、いつもなら流すはずの仕草なのに、今日はやけに喉が動くのが見えた。
「次、頭から通すぞー」
スタッフの声が飛んで、それ以上は聞けない。
タイキは自分の位置へ戻ったけれど、そこから先はずっとルイのことが気になって仕方なかった。
通しが終わる。
ゴイチがタオルで首を拭いて、カノンは床に座り込み、アダムは壁にもたれて息を整える。
その中で、ルイだけが一歩下がった。
「……ルイ?」
タイキが今度ははっきり呼ぶ。
ルイが返事をする前に、雛子が先に近づいた。
「ちょっと待って。顔上げて」
「平気」
「平気な人はそういう顔しないのよ」
ルイが少しだけ眉を寄せる。
でも言い返す元気もあまりないらしく、雛子に言われるまま少し顔を上げた。
雛子の手が額に触れる。
その瞬間。
「……熱っ」
空気が変わった。
タイキの心臓がどくっと鳴る。
ゴイチが「え」と顔を上げて、カノンも立ち上がる。
アダムだけが静かに目を細めた。
「ルイ、お前熱あんの?」
タイキの声が思ったより強く出る。
ルイは視線を逸らした。
「……朝から、ちょっとだるかった」
「朝から!?」
タイキが一歩詰める。
ルイはその勢いに少しだけ目を上げたけど、そこで初めて、いつもの余裕がない顔をした。
その顔が見えた瞬間、タイキの中で何かが完全に切り替わる。
「何で言わないんだよ」
掠れた声で出たその一言に、ルイは少しだけ目を伏せた。
「言ったら、休まされるだろ」
「当たり前だろ」
即答だった。
タイキは自分でも驚くくらい、本気で怒っていた。
でもそれ以上に、焦っていた。
ルイが弱ってる。
その事実だけで、頭の中がうるさくなる。
「帰れ」
アダムが短く言う。
「今日もう無理」
「送る」
タイキが即座に言った。
早すぎるくらい早かった。
迷いが一切ない声音。
ルイはそこで、ようやくタイキの方を見た。
少しだけ熱のこもった、ぼんやりした目。
「……いい」
小さく首を振る。
「お前、ここ抜けたらだめだろ」
「でも」
「でもじゃない」
ルイは少しだけ眉を寄せる。
「合同の締め、お前いるだろ。流れ、崩したくない」
タイキの喉がつまる。
その顔でそんなことを言うな、と一瞬思う。
送らせてほしい。
せめて家まで。
今すぐタクシー呼んで、一緒に乗って、玄関まで上がって、ちゃんと寝かせたい。
でも、ルイの言うことは正しい。
ここでタイキが抜けたら、合同練習の空気が崩れる。
周りにも迷惑がかかる。
分かっているからこそ、何も言えなくなる。
「俺、タクシーで帰る」
ルイが言う。
「家着いたら連絡する」
「一人で大丈夫か?」
ゴイチが聞く。
「タクシー乗れば平気」
ルイは短く返す。
「ちょっと寝ればたぶん落ち着く」
「たぶん、って言い方やめろ」
カノンが眉を寄せる。
「ちゃんと水飲んで、薬あんなら飲めよ」
「うん」
アダムはすでにスマホを取り出してタクシーを呼んでいた。
そういう時、誰より静かで早い。
「五分」
短く告げる。
「ありがと」
ルイはそう言って、でも立ち上がる時に少しだけふらついた。
タイキの手が反射で伸びる。
肩に触れる。
触れた瞬間、ルイがほんの少しだけ力を抜いた。
「……タイキ」
「何」
「ちゃんとやれよ」
そんなことを言う。
熱があって、だるそうで、それでも最後に言うのがそれで。
タイキは一瞬だけ言葉を失った。
「……それ、今お前が言う?」
「言う」
ルイは少しだけ笑う。
「帰ったら、連絡するから」
その“するから”が約束みたいに響く。
タイキは触れた肩に入る体温を感じながら、小さく頷いた。
「……分かった」
少し間を置いてから、低く続ける。
「絶対出ろよ、電話」
ルイが少しだけ目を丸くする。
それから、熱のある顔のまま、ほんの少しだけやわらかく目を細めた。
「……うん」
⸻
タクシーに乗り込むルイを、タイキはスタジオの外まで送った。
本当は家まで行きたかった。
助手席じゃなくて隣に座って、途中で眠ったら肩を貸して、玄関まで連れていきたかった。
でも、そこはルイが許さなかった。
だからせめて、ドアが閉まる瞬間まで目を離さない。
「着いたら連絡」
タイキがもう一度言う。
「分かってる」
ルイは少しかすれた声で返す。
ドアが閉まる。
タクシーが走り出す。
見えなくなるまで、タイキはその場を動かなかった。
「……行った?」
後ろからカノンの声がする。
タイキは小さく息を吐いて、ようやく振り返った。
「うん」
「お前も顔色やばいけど」
ゴイチが言う。
「大丈夫か」
「大丈夫」
タイキは短く返す。
「やる」
その声で、カノンとゴイチはそれ以上何も言わなかった。
アダムだけが、タイキの顔を一瞬だけ見て、何かを察したように目を伏せる。
⸻
そこからのタイキは、本領発揮だった。
むしろ、だからこそだった。
ルイがもうここにいない。
体調を崩して帰った。
家に着くまでは気が気じゃない。
今すぐにでも連絡したい。
本当は仕事どころじゃない。
でも。
だからこそ、早く終わらせる。
ちゃんと終わらせて、電話する。
それだけのために。
タイキの集中は、逆に研ぎ澄まされた。
無駄がない。
確認も反応も、一拍で入る。
トレーニーが詰まれば明るく空気を切らずに直し、先輩アーティストとの動線確認も一度で通す。
場の温度を読みながら、必要なところだけテンポよく引っ張っていく。
さっきまでルイのことで頭がいっぱいだったのが嘘みたいだった。
「……うわ」
カノンが途中で小さく漏らす。
「入ったな、タイキ」
「うん」
ゴイチも頷く。
「今日一番仕上がってるかも」
アダムは壁際でその様子を見ながら、静かに思っていた。
たぶん今のタイキは、仕事のために集中してるんじゃない。
仕事を終わらせるために集中してる。
その先に、別の目的がある。
タイキの目が変わっていた。
揺れてはいる。
でも迷わない。
一秒でも早く全体を締めるための、真っ直ぐで鋭い目。
「そこ、もう一回」
タイキが短く言う。
「今のタイミングだけ揃えて終わる」
誰も逆らわない。
その声に、自然と全員が従う。
音が流れる。
確認。
修正。
もう一度。
揃った。
「よし。今日はここまで」
スタッフが言うより少し早く、空気がまとまる。
最後の挨拶も、きっちり揃う。
タイキは終わった瞬間に、ようやく肩の力を少しだけ抜いた。
でもそれでも、休む前にまずスマホを取る。
画面を見る。
ルイから、短いメッセージが入っていた。
「着いた。薬飲んで寝る」
その一行だけで、胸の奥に少しだけ呼吸が戻る。
でもまだ足りない。
声を聞かないと、足りない。
タイキは荷物をまとめるより先に、スマホを握り直した。
カノンが「帰るぞー」と言いながら通り過ぎる。
ゴイチが「タイキ、先出るぞ」と声をかける。
アダムは何も言わず、ただ一瞬だけタイキのスマホを見た。
タイキは短く「うん」とだけ返した。
それから、少し離れた廊下側へ歩く。
人のいない場所。
そこで、迷わずルイの名前を押す。
ちゃんと仕事を終わらせて。
ルイに電話する。
今のタイキには、それだけだった。
、
スタジオの外に出ると、夜の空気は少しだけ冷たかった。
さっきまであれだけ身体を動かしていたのに、熱はもうほとんど感じない。
そのかわり、胸の奥だけがやたらとうるさい。
タイキはスマホを握ったまま、ルイの名前をもう一度見た。
さっき送られてきた短いメッセージ。
“着いた。薬飲んで寝る”
それを見た時は、少しだけ安心した。
ちゃんと帰れた。
薬も飲むつもりでいる。
じゃあ、大丈夫かもしれない。
そう思ったのに。
電話に出ない。
呼び出し音。
しばらく待つ。
切れる。
もう一回。
また、出ない。
「……」
タイキは、スマホを耳から外した。
画面が暗くなる。
スタジオの下。
人通りはそこまで多くない。
なのに、ひとりだけ取り残されたみたいに落ち着かなかった。
ルイだって子供じゃない。
そんなこと、わかってる。
熱があるからって、いちいち大騒ぎする歳でもない。
ちゃんと家に帰って、薬も飲んで、あとは寝るだけ。
たぶん、それが正解だ。
看病に行ったところで、無理して起きてるなんてことになったら逆効果だよな。
そう思う。
思うのに。
(でも……)
弱いところは見せないの、知ってる。
しんどくても「平気」って言う。
熱があっても「ちょっとだるいだけ」って言う。
聞いたところで、大丈夫って返すのも目に見えてる。
それも、知ってる。
だから余計に困る。
(食事、ちゃんと取れてなかったら……)
薬は飲んだって書いてあった。
でも、水だけで飲んでたら?
ゼリーとかも食べてなかったら?
あいつ、帰った瞬間に面倒になって、そのまま寝てそうだし。
(それだと、余計治んないだろ……)
タイキはもう一度スマホを見る。
電話する理由なんて、いくらでも作れる。
水飲んだか確認とか。
熱計ったか確認とか。
食べたか確認とか。
でも、その全部の奥にある本音は別だ。
顔、見たい。
ちゃんと見て安心したい。
弱ってるなら、そばにいたい。
そこまで言ってしまったら、もう自分でも止めづらい。
「……っはぁ」
小さく息を吐いて、タイキは足元を見る。
帰るか。
行くか。
悩みに悩む。
ほんとに、くだらないくらい悩む。
だって、ルイはたぶん嫌がる。
大丈夫って言う。
寝てるなら寝かせとけって顔もする。
でも。
出ないんだよな、電話。
それだけが、タイキの理屈をどんどん削っていく。
⸻
一方その頃、ルイはタクシーを降りていた。
玄関の鍵を開ける。
扉を閉める。
そこでようやく、緊張が切れた。
「……っ」
額に手を当てて、そのまま玄関の壁に寄りかかる。
思っていたより、しんどい。
スタジオではまだ、持っていた。
持っているつもりだった。
帰って薬を飲んで、少し寝れば大丈夫だろうと、本気で思っていた。
でも、家の中に入った瞬間、身体が一気に重くなる。
熱がある時の、骨の奥がだるい感じ。
立ってるだけで地味にきつい。
「水……」
声に出してみても、誰も返さない。
当たり前だ。
ルイはふらりと靴を脱いで、そのままキッチンへ向かった。
いつもなら、帰ってきてからやることなんて山ほどある。
バッグを片付ける。
服を整える。
風呂の準備。
軽く部屋を見て、明日のことも少し考える。
でも今日は、何ひとつやる気が起きない。
冷蔵庫を開ける。
ペットボトルの水を出す。
その冷たさが気持ちいい。
キャップを開けて、何口か流し込む。
「……っは」
喉は少し楽になる。
でも、それだけだった。
食べるもの。
薬。
着替え。
頭の中では順番がわかってる。
でも、身体がついてこない。
このままベッドに行ったら負けな気がする。
勝手に、そう思った。
何に対してなのかは自分でもよくわからない。
でも、ベッドに入ったら本当に終わる気がして。
そこまで行ったら、明日のことも何も考えられなくなる気がして。
だからルイは、ソファーに向かった。
深く腰を下ろす。
「……ちょっとだけ……」
それだけ、のつもりだった。
背もたれに頭を預ける。
手に持っていたスマホは、いつの間にか横に落ちた。
水のボトルはローテーブルの端に置いたつもりで、少し傾いて止まる。
目を閉じる。
ほんの少し休んで。
ほんの少しだけ。
そう思ったところで、意識はもう落ちていた。
⸻
スタジオの下で、タイキはもう一度電話をかけた。
コール音。
長い。
出ない。
「……ルイ」
小さく名前を呼んでも、当然返事はない。
タイキは通話を切って、しばらくそのまま画面を見つめていた。
行くべきか。
いや、寝てるなら起こすのよくない。
でも、こんなに出ないのはやっぱり気になる。
着いたって連絡のあとに倒れてたら?
薬だけ飲んで、そのままソファで寝てたら?
食べてなかったら?
頭の中で、悪い想像ばっかりが膨らむ。
「……だめだ」
ぽつりと漏れる。
理屈じゃない。
もう無理だった。
タイキは顔を上げる。
駅とは逆の方向。
ルイの家の方角。
「……起きててほしくは、ないけど」
そう言いながら、もう足は動いていた。
途中でコンビニ寄って、ゼリーとスポドリと冷えピタ。
あと、何か喉通りそうなもの。
ドアの前まで行って、寝てるなら静かに置いて帰る。
それなら起こさなくて済む。
それなら、たぶん言い訳も立つ。
そうやって自分に言い聞かせながら、タイキは歩き出す。
でも、本当は。
置いて帰るだけで済む気が、全然してなかった。
ルイのマンションに着いた頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。
夕陽の名残みたいな赤さも、ビルの隙間から消えている。
街灯とエントランスの照明だけが、妙に白く足元を照らしていた。
タイキは片手にコンビニの袋を持ったまま、もう片方の手でスマホを握っていた。
ゼリー。
スポーツドリンク。
水。
冷却シート。
喉に通りそうなスープ。
一応、熱がある時でも食べやすそうなものを選んだつもりだった。
買いながら何度も思った。
ただ置いて帰る。
起こさない。
迷惑かけない。
それが一番いい。
そう思っていたのに、いざルイの部屋の前まで来ると、足が止まった。
インターホンを一回だけ押す。
室内から、小さく電子音が響いた気がした。
けれど、反応はない。
「……」
タイキは数秒待って、もう一度だけ押した。
やっぱり、出ない。
スマホを見る。
着信履歴。
LINE。
既読はついていない。
やっぱり寝ているんだろう。
なら、起こさない方がいい。
熱があるなら、眠れているだけで十分だ。
下手に起こしたら、逆にしんどくなるかもしれない。
そう思う。
思うのに、扉の前から離れられなかった。
「……少しだけ……」
自分に言い訳するみたいに呟いた。
買ったものだけ置いていこう。
そう思って、コンビニの袋を玄関の端にそっと置く。
けれど、そのまま背を向けることができなかった。
ただ買って、顔も見ずに帰る。
それが正しいのかもしれない。
でも、できなかった。
かといって、しつこくインターホンを鳴らして無理に起こしたいわけでもない。
ルイが本当に眠れているなら、そのまま眠っていてほしい。
タイキは玄関ドアの隣の壁に寄りかかって、ずるずるとその場に座り込んだ。
廊下の床は少し冷たい。
膝を立てて、片腕をそこに乗せる。
「……何やってんだろ、俺」
小さく笑った声は、廊下に吸い込まれて消えた。
ここ数日、ずっと一緒にいた。
一緒に帰って。
一緒に過ごして。
手に触れて。
キスして。
同じ時間を重ねて。
その全部が嬉しくて、浮かれていた。
隣にいるルイが、前より近い。
それが嬉しくて、少し調子に乗っていた。
ルイの視線ひとつで心臓が跳ねることも。
ルイが自分だけに見せる顔に、何度も持っていかれることも。
ずっと、嬉しかった。
でも。
「……ルイの体調に、気付けなかった」
喉の奥が、少しだけ苦くなる。
朝からだるかったと言っていた。
それなのに、気づけなかった。
いつもより静かだった。
水を飲む回数も多かった。
動きも、ほんの少し鈍かった。
今なら思い当たることはいくらでもある。
なのに、その時の自分はただ、ルイのことを見ていたつもりで、見えていなかった。
きっとメンバーの中でも、自分が一番に気づけるはずだった。
子供の頃から一緒で。
ルイがどんなふうに我慢するのかも、弱いところをどんなふうに隠すのかも、誰より知っているはずだった。
それなのに。
タイキはLINEを開いた。
指先が少しだけ迷う。
それから、短く打った。
差し入れ、玄関に置いておく。
送信。
続けて、もう一文。
ちゃんと、少しでも食べてよ。あと水分も。
送信。
画面を見つめる。
既読はつかない。
「……浮かれすぎ……」
苦笑しながら、立てた膝に肘を置いた。
片手で自分の髪をくしゃりとかき混ぜる。
責めたところで、熱が下がるわけじゃない。
今さら気づけなかったことを悔やんでも、ルイが楽になるわけでもない。
それでも悔しかった。
ルイの「平気」を、平気じゃないと見抜けなかったことが。
「……もう少しだけ……」
そう思いながら、タイキは壁に頭を預けた。
扉の向こうに、ルイがいる。
それだけで少しだけ落ち着く。
顔は見えない。
声も聞こえない。
でも、同じ場所のすぐ向こうにいる。
その気配だけを頼りに、タイキは静かに目を閉じた。
⸻
ルイが目を覚ました時、最初に感じたのは頭の重さだった。
まぶたの裏が熱い。
身体の芯がだるい。
喉も乾いている。
ソファーの背に頭を預けたまま、しばらく動けなかった。
「……」
部屋は暗い。
いつの間に寝ていたのか、よくわからない。
帰ってきて、水を飲んで、それからソファーに座って。
その先の記憶が曖昧だった。
「……時間……」
掠れた声で呟いて、ルイは手探りでスマホを探した。
指先がソファーの隙間を撫でる。
横に落ちていたスマホに触れた瞬間、ようやく拾い上げる。
画面をつける。
タイキからの着信が、何件も入っていた。
LINEも。
ルイはそこで、ゆっくり目を開いた。
差し入れ、玄関に置いておく。
ちゃんと、少しでも食べてよ。あと水分も。
数秒、文字を見つめる。
「……まじか」
思わず、息に混じって声が漏れた。
ここまで来たのか。
来るなとは言っていない。
でも、来るとも思っていなかった。
いや。
本当は、少しだけ思っていたのかもしれない。
タイキなら、電話に出なければ心配する。
着いたとだけ送って寝たら、きっと気にする。
差し入れくらい持ってくるかもしれない。
でも、それは困る。
こんな時間に、外で待たせていたら。
もし本当に玄関前にいたら。
ルイはソファーの背に手をついた。
身体が重い。
立ち上がるだけで、足元がぐらつく。
「……っ」
思わず眉を寄せる。
熱が上がっている。
分かる。
さっきより明らかに身体が熱い。
息も少し浅い。
それでも、行かないわけにはいかなかった。
玄関までの数歩が、やけに長く感じる。
いつもの部屋なのに、距離感がおかしい。
床がほんの少し揺れているみたいで、壁に手をつきながら進む。
ドアの前まで来て、鍵を開ける。
小さな音。
それから、ゆっくりドアを開けた。
冷たい廊下の空気が入ってくる。
玄関の端に、コンビニの袋が置いてあった。
そしてその横に。
壁にもたれて、座ったままうとうとしているタイキがいた。
ルイは、目を見開いた。
「……タイキ」
声が掠れた。
自分でも驚くくらい、弱い声だった。
その声に、タイキのまぶたが薄く開く。
最初はぼんやりしていた目が、ルイの姿を認識した瞬間、はっきり揺れた。
「……ルイ?」
ルイはサンダルのまま、玄関の外に一歩踏み出した。
「お前、何……」
そこまで言ったところで、身体が大きく傾いた。
足に力が入らない。
視界が一瞬、暗く滲む。
「ルイっ……!」
タイキが反射的に立ち上がった。
コンビニの袋がかさりと揺れる。
次の瞬間、タイキの腕が正面からルイを受け止めた。
熱い。
触れた瞬間、タイキの表情が変わった。
服越しでも分かるくらい、ルイの身体が熱を持っている。
「っ……熱……」
タイキは思わず声を漏らした。
ルイはタイキに支えられながら、額を少しだけタイキの肩に寄せた。
普段なら絶対にしない。
人前どころか、二人きりでも、こんなふうに体重を預けることは滅多にない。
でも今は、身体が言うことを聞かなかった。
「お前まで……風邪ひく……」
耳元で、小さく呟く。
かすれた声。
熱でぼやけた息。
それでも出てきた言葉がそれで、タイキは一瞬だけ泣きそうになった。
「病人が何言ってんだよ……」
困ったように笑う。
でもその腕は、少しも緩めなかった。
待っていてよかった。
そう思った。
本当に、よかった。
もしこのまま置いて帰っていたら。
ルイがソファーで寝たまま熱を上げていたら。
水もろくに飲まず、食べもせず、そのまま朝までいたら。
考えただけで、背中が冷える。
「ルイ、中入るよ」
「……タイキ」
「いいから」
タイキはルイの腕を自分の肩に回させるようにして、身体を支え直した。
ルイは一瞬だけ抵抗するみたいに息を吐いたけれど、すぐに力が抜けた。
本当にしんどいんだ。
それが分かって、タイキの胸がきゅっと痛む。
「歩ける?」
「……歩ける」
「今の返事、信用できない」
「……ひど」
「ひどくていい」
タイキは片手でコンビニの袋を拾い、もう片方でルイを支えたまま玄関の中へ入った。
ドアを閉める。
外の冷たい空気が遮断される。
部屋の中は、妙に静かだった。
「ソファー?」
「……ん」
「ベッド行ける?」
ルイは少しだけ黙った。
それだけで、タイキには答えが分かった。
「ソファーね。無理すんな」
ルイを支えながら、ゆっくりリビングへ向かう。
さっきまでルイが座っていたソファーには、スマホと水のボトルが置かれていた。
ローテーブルの上には、キャップがちゃんと閉まっていないペットボトル。
薬は出ていない。
タイキの眉がぎゅっと寄る。
「……薬、飲んでないじゃん」
ルイは黙った。
「飲んだって送ったよな?」
「……飲むつもりだった」
「それ、飲んでないって言うんだよ」
「……うん」
素直に認める声が小さすぎて、タイキはそれ以上責められなかった。
ソファーに座らせると、ルイはそのまま背もたれに沈み込む。
額にかかった髪が少し汗で湿っている。
タイキはすぐに袋を開けた。
スポーツドリンク。
ゼリー。
冷却シート。
水。
スープ。
「まず水分」
「……ん」
「自分で持てる?」
ルイが手を伸ばす。
でも指先が少し震えて、キャップを開けるのに手間取った。
タイキは無言でボトルを受け取る。
キャップを開けて、ルイの手に持たせる。
けれどそのままでは危なそうで、結局ボトルの底を自分の手で支えた。
「ゆっくり」
ルイは言われるまま、少しずつ飲んだ。
喉が動く。
熱い息が、ボトルの縁にかかる。
タイキはそれを見ながら、ようやく少しだけ呼吸できた。
「食べられる?」
「……いらない」
「ゼリー一口」
「……」
「一口だけでいいから」
ルイは目を閉じたまま、少しだけ眉を寄せた。
拒否したい。
でも拒否する元気もない。
そんな顔だった。
タイキはパウチのゼリーを開けて、ルイの手に持たせようとする。
けれどルイは受け取らなかった。
「……タイキ」
「なに」
「悪い」
その一言に、タイキの手が止まった。
怒りたいのに、怒れない。
なんで言わなかったんだよ。
なんで一人で帰ったんだよ。
なんで電話に出ないんだよ。
なんで薬飲んだなんて嘘みたいなこと言うんだよ。
言いたいことは山ほどある。
でも、目の前のルイは熱で目元を赤くして、ソファーに沈んでいて。
それでも最初に言うのが「お前まで風邪ひく」で、次が「悪い」だった。
タイキは唇を噛む。
「……謝んなくていい」
声が少しだけ震えた。
「そのかわり、ちゃんと頼って」
ルイが薄く目を開ける。
「聞いたら、大丈夫って言うの分かってる」
タイキはゼリーを持ったまま、ルイの前に膝をついた。
「でも、大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言って」
「……」
「俺、気づけなかった」
「朝からしんどかったのに」
「一番気づけるはずだったのに」
そこまで言って、タイキは少しだけ視線を落とした。
「浮かれてた」
小さく笑う。
でも笑えていない。
「ルイと一緒にいれるのが嬉しくて」
「近いのが嬉しくて」
「そういうことばっか見てて」
「ちゃんと見れてなかった」
ルイは黙って聞いていた。
熱でぼんやりしているはずなのに、その目だけはちゃんとタイキを見ていた。
「……違う」
掠れた声。
タイキが顔を上げる。
ルイはゆっくり息を吐いた。
「俺が、隠した」
「……でも」
「タイキのせいじゃない」
短く、でもはっきり言った。
それだけで、タイキの胸の奥が詰まる。
「……そういうとこだよ」
「何が」
「今も俺のこと庇うとこ」
ルイは少しだけ笑おうとして、すぐ咳き込んだ。
「っ……」
「ほら、喋んな」
タイキは慌てて水を差し出す。
ルイが少し飲む。
それから、今度は素直にゼリーを一口含んだ。
タイキはその様子を、祈るみたいに見ていた。
「……もう一口」
「……ん」
「えらい」
言った瞬間、ルイが薄く目を開けた。
「……子供扱い?」
「病人扱い」
「同じだろ」
「今は同じでいい」
タイキはそう言いながら、もう一口ゼリーを渡した。
ルイは文句を言う気力もないのか、素直に飲む。
その素直さが、逆に苦しかった。
「熱、計るよ」
「体温計……」
「どこ」
「そこの、棚……右」
タイキは立ち上がって、言われた場所を探す。
体温計を見つけて戻ると、ルイはまた目を閉じていた。
「寝るな、計ってから」
「……寝てない」
「その返事、半分寝てる」
体温計を渡すと、ルイは脇に挟んだ。
数十秒の沈黙。
ピピッ、と音が鳴る。
タイキが表示を見た瞬間、顔が固まった。
「……38.8」
ルイは目を閉じたまま、ほんの少しだけ眉を動かす。
「上がったな」
「上がったな、じゃない」
タイキは深く息を吸った。
「病院、行く?」
「……寝たら下がる」
「その判断を今のお前に任せたくないんだけど」
「……タイキ」
「なに」
「いて」
その一言で、タイキの中の言葉が全部止まった。
ルイは目を閉じたまま、ソファーに沈んでいる。
でもその声だけは、はっきり届いた。
いて。
普段のルイなら、そんなふうに言わない。
頼む時も、もっと整える。
冗談にするか、余裕のある顔をするか、何かしら逃げ道を作る。
でも今は、ただ短く言った。
タイキは膝をついたまま、ルイを見上げた。
「……いるよ」
返事は、すぐだった。
「いる」
もう一度言う。
「だから、ちゃんと寝て」
ルイの肩から、少しだけ力が抜けた。
その様子を見て、タイキは冷却シートを取り出す。
封を開けて、前髪をそっと避けた。
額に触れる。
熱い。
本当に熱い。
冷却シートを貼ると、ルイがほんの少しだけ息を吐いた。
「冷たい?」
「……ん」
「気持ち悪くない?」
「大丈夫」
「それは信用していい大丈夫?」
ルイが薄く目を開ける。
「……たぶん」
「たぶん禁止」
「厳しい」
「今日だけは厳しくする」
タイキは毛布を探して、ソファーの端に畳まれていたブランケットをルイにかけた。
それから薬の袋を見つけて、水とゼリーの残りを確認する。
「これ、食後って書いてある」
「……だからゼリー」
「ゼリー二口は食後じゃない」
「……厳しい」
「うるさい。もう少し食べて」
ルイは苦笑しようとして、できなかった。
でも、タイキが差し出すゼリーを、また少しだけ飲んだ。
そのたびにタイキは「よし」と小さく言う。
ルイは目を閉じたまま、掠れた声で呟いた。
「……タイキ」
「なに」
「外で寝るなよ」
タイキは一瞬、目を丸くした。
それから、困ったように笑う。
「それ言うために起きてたの?」
「……お前まで風邪ひいたら、困る」
「だから病人が何言ってんだよ」
でも、嬉しかった。
熱でしんどくても、ルイはタイキのことを気にしている。
自分の方が倒れそうなくせに。
タイキはルイの手元に落ちかけていた指先をそっと取って、ブランケットの中へ入れた。
「俺は大丈夫」
「ちゃんと中に入ったし」
「ルイもちゃんと寝ろ」
ルイは少しだけ目を開けて、タイキを見る。
「帰る?」
「帰らない」
即答だった。
「ルイが寝たら、静かにしてる」
「必要なら病院も連れてく」
「夜中に熱上がったら起こす」
「だから、今日は諦めて」
ルイはしばらくタイキを見ていた。
熱で焦点が少し甘い。
それでも、その目は柔らかかった。
「……強引」
「うん」
「タイキっぽい」
「褒めてる?」
「……たぶん」
「だから、たぶん禁止」
ルイがほんの少しだけ笑った。
それだけで、タイキは少し救われた気がした。
やっと笑った。
ほんの少しだけだけど。
「寝て」
タイキは声を落とす。
「俺、ここにいるから」
ルイは返事をしなかった。
でも、ブランケットの下で、さっき入れた指先がほんの少しだけ動いた。
タイキの手の甲に触れる。
掴むほどの力はない。
ただ、そこにいるか確かめるみたいに。
タイキはその指先を、そっと包んだ。
「いるよ」
小さく言う。
ルイはそれを聞いたのか聞いていないのか、目を閉じたまま、今度こそゆっくり眠りに落ちていった。
タイキはしばらくその手を離せなかった。
部屋の中は静かだった。
外の廊下よりずっと暖かくて、ルイの呼吸だけが小さく聞こえる。
スマホの画面は暗い。
買ってきた袋はテーブルの上。
冷却シートの白だけが、ルイの熱い額に浮かんでいる。
タイキはソファーの前に座ったまま、もう一度小さく息を吐いた。
「……待っててよかった」
誰に聞かせるでもなく呟く。
返事はない。
でも、ルイの指先がほんの少しだけタイキの手の中で緩んだ。
それだけで、十分だった。
深夜、部屋の中はひどく静かだった。
エアコンの低い音。
冷蔵庫の小さな唸り。
時々、外を通る車の音。
その全部の隙間に、ルイの呼吸があった。
熱のせいで少し浅い。
眠れてはいる。
でも、安らかではない。
タイキはソファーの前の床に座ったまま、しばらくルイの寝顔を見ていた。
冷却シートは貼り替えた。
水も枕元――というかソファー横のテーブルに置いた。
ゼリーも少し食べた。
薬も飲ませた。
これ以上できることなんて、ほとんどない。
だから、ただ見ているしかなかった。
「……」
ルイはソファーに横になっている。
ブランケットを肩までかけて、額には冷却シート。
いつも綺麗に整っている髪は少し乱れていて、汗でこめかみに張りついていた。
それだけで、胸が苦しい。
普段のルイは、隙がない。
だるそうな顔なんて見せない。
しんどい時ほど黙るし、平気なふりをする。
なのに今は、完全に熱に負けている。
それが怖いのに。
同時に、こんなに弱っているルイを自分だけが見ていることに、どうしようもなく胸が締めつけられる。
「……ルイ」
小さく呼んでも、返事はない。
代わりに、ルイの眉がわずかに寄った。
タイキは身を乗り出す。
「ルイ?」
「……ん……」
低く、喉の奥で詰まったような声。
ルイの指先がブランケットを掴む。
呼吸が少し乱れる。
「……っ」
「ルイ、大丈夫?」
タイキはすぐに膝立ちになって、ルイの額に手を伸ばした。
熱い。
さっきより少し上がっている気がする。
「……やば……」
思わず声が漏れる。
ルイの唇が何かを探すように動いた。
「……たい、き……」
名前。
掠れて、熱に溶けたみたいな声。
タイキの心臓が、きゅっと縮んだ。
「いる。いるよ、ルイ」
返すと、ルイの眉間が少しだけ緩む。
でもすぐ、また苦しそうに息を吐いた。
「……行くな……」
「行かない」
「……」
「どこにも行かない」
タイキはそう言って、ルイの髪にそっと触れた。
額の冷却シートを避けるように、汗で湿った前髪を横に流す。
こめかみから耳の上へ。
頭の形を確かめるみたいに、ゆっくり撫でる。
ルイの呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いた。
「……これ、楽?」
返事はない。
でも、ルイが無意識にタイキの手の方へ頭を寄せた。
それが答えだった。
タイキは一瞬、息を止める。
「……そっか」
声が柔らかくなる。
「じゃあ、こっち」
この体勢のままだとルイの首がつらい。
そう思って、タイキはそっとソファーの端に座り直した。
ゆっくり。
起こさないように。
でも、首の角度が楽になるように。
ルイの頭の下へ、自分の膝を差し込む。
一度、ルイが苦しそうに身じろぎした。
「ごめん、ごめん。ちょっとだけ」
タイキは声を落として、ルイの後頭部を支えながら、自分の太ももの上へそっと乗せた。
膝枕。
した瞬間、自分の方が固まった。
「……」
何やってんだろ、と思う。
でも、ルイの呼吸がさっきより少し深くなった。
その事実だけで、全部どうでもよくなった。
タイキは片手でルイの頭を支え、もう片方の手で髪を撫でる。
ゆっくり。
何度も。
同じリズムで。
「大丈夫」
「ここにいる」
「寝てていいから」
小さく、何度も落とすように言う。
ルイは目を閉じたまま、熱に浮かされた息を吐いた。
「……タイキ……」
「うん」
「……さむ……」
「寒い?」
タイキはすぐブランケットをもう少し引き上げた。
肩口を包むように整える。
「これでどう?」
「……ん……」
「まだ寒い?」
「……」
ルイは答えなかった。
代わりに、タイキの膝の上でほんの少し丸まるように頭を寄せた。
タイキはその動きに胸を押さえたくなる。
普段なら、絶対にこんなことしない。
甘えたいと思っても、たぶん言葉にしない。
寄りかかりたいと思っても、一度は我慢する。
タイキが気づいて、引き寄せて、ようやく少しだけ力を抜く。
それがルイなのに。
今は、熱で余裕が削られているせいで、無意識の方が先に出ている。
「……ほんと、ずるいな」
小さく呟いた。
ルイは聞こえていない。
タイキはまた、髪を撫でる。
「俺には、甘えていいんだよ」
言ってから、自分で少し照れた。
でも、取り消さなかった。
「ルイが俺にしてくれたみたいにさ」
「今度は俺がやるから」
深夜の静けさの中で、その声だけがゆっくり落ちる。
ルイの呼吸が、また少しだけ整った。
タイキはそのまま、ずっと頭を撫で続けた。
時計の針が進む。
外の音が遠くなる。
部屋の空気が夜の底に沈んでいく。
膝の上のルイは熱くて、重くて、弱くて。
でも、確かにここにいる。
タイキは片手でルイの髪を撫でながら、もう片方の手でスマホを確認する。
時間。
熱の記録。
薬の間隔。
夜間病院の検索画面も開いたままにしてある。
でも、呼吸が少し落ち着いているなら、今は寝かせる。
タイキはそう判断して、またルイを見る。
「……寝てて」
ルイのまぶたがかすかに震える。
「ちゃんと見てるから」
返事はない。
けれどルイの手が、ブランケットの中から少しだけ出て、タイキの服の裾に触れた。
掴むほどの力はない。
ただ、そこにあるものを確かめるみたいに。
タイキはそれを見て、胸がいっぱいになった。
「……いるって」
そっと、その指先に自分の手を重ねる。
ルイはそれ以上動かなかった。
そのまま、深夜はゆっくり過ぎていった。
⸻
朝方。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。
完全な朝ではない。
夜の青さがまだ少し残っている、曖昧な時間。
ルイは、ひどくゆっくり目を開けた。
最初に思ったのは、頭が重い、だった。
次に、身体が熱い。
喉も乾いている。
まぶたも重い。
でも、昨日の夜みたいに意識が沈みすぎてはいない。
ぼんやりと天井が見える。
いや。
天井じゃない。
少し斜めの視界。
近くに、誰かの手。
髪を撫でられている感覚。
「……」
ルイは数秒、状況を理解できなかった。
額に冷たい感触。
身体にはブランケット。
そして、頭の下にある柔らかい温度。
ゆっくり視線を動かす。
タイキがいた。
ソファーに座って、少し背中を丸めたまま、眠そうな目でルイを見下ろしている。
ルイの頭は、タイキの膝の上にあった。
「……」
一気に、意識が醒めた。
「……っ」
ルイは反射的に身体を起こそうとした。
でも、熱の残った身体は思ったように動かない。
少し起き上がっただけで、頭がぐらつく。
「ルイ」
タイキの手がすぐに肩へ添えられた。
「急に起きんな」
「……いや、これ」
声が掠れている。
自分でも驚くくらい弱い声。
ルイは片手で顔を覆いかけた。
恥ずかしい。
膝枕されていた。
しかも、たぶんかなり長い時間。
頭を撫でられていた。
寝ている間に。
自分から寄った記憶はない。
ない、はずなのに。
断片的に思い出す。
暑い。
寒い。
タイキの声。
冷たい手。
髪を撫でる感触。
行かないで、と言った気がする。
「……最悪」
ルイは掠れた声で呟いた。
タイキが少し眉を上げる。
「何が」
「俺」
「なんで」
「……甘えすぎ」
その言葉を言った瞬間、ルイは自分でさらに恥ずかしくなった。
甘えすぎ。
そうだ。
甘えていた。
熱でぼんやりしていたからとか、しんどかったからとか、言い訳はいくらでもできる。
でも、それだけじゃない。
タイキがいたから。
タイキの手が冷たくて気持ちよかったから。
タイキの声が聞こえると安心したから。
だから、力を抜いた。
ちゃんと、甘えた。
その自覚が一気に押し寄せて、ルイは視線を逸らした。
「……」
タイキはしばらく何も言わなかった。
それから、ふっと優しく笑った。
「ルイも、俺にしてくれただろ。こうやって」
ルイが目を動かす。
タイキは、照れも茶化しも混ぜずに、ただ優しく言った。
「俺が寝落ちした時」
「こうやって頭、撫でてくれたじゃん」
そう言いながら、タイキの手がもう一度ルイの髪に触れる。
前髪から、頭の横へ。
ゆっくり。
落とすみたいに。
「だから、お返し」
その声があまりにも柔らかくて、ルイは何も言えなくなった。
お返し。
そう言われると、拒めない。
昔からそうだった。
タイキは時々、こうやって真正面からくる。
逃げ道を塞ぐわけじゃない。
でも、逃げなくていい場所を作る。
「……でも」
「でもじゃない」
タイキは、昨夜の自分みたいな言い方をした。
ルイが少しだけ目を細める。
「真似?」
「お返しって言っただろ」
「……ずる」
「病人に言われたくない」
タイキはそう言って、またルイの頭を撫でた。
ルイは起き上がろうとしていた力を、少しずつ抜いた。
まだ恥ずかしい。
タイキの膝の上にいることも。
頭を撫でられていることも。
それを心地いいと思ってしまっていることも。
全部、恥ずかしい。
でも。
起き上がれないほどしんどいのも本当で。
タイキの手が冷たくて、気持ちいいのも本当だった。
ルイはゆっくり息を吐いた。
「……熱、まだある?」
「あると思う」
タイキはすぐに額へ手を当てる。
「うわ、まだ熱い」
「……だよな」
「計る?」
「あとで」
「ほんとは今」
「……厳しい」
「昨日からずっと厳しいよ」
タイキの指が、ルイの髪をまた梳く。
その指先が冷たい。
額も、こめかみも、頭の奥も熱いから、その冷たさがやけに心地よかった。
ルイはぼーっとしたまま、無意識にその手の方へ頭を寄せた。
タイキの手が止まる。
「……ルイ?」
呼ばれて、ルイは自分が何をしたのか一拍遅れて気づいた。
でも、もう引く気力がなかった。
熱のせいで頭が回らない。
恥ずかしいのに、気持ちいい。
距離を取るより、触れていてほしい。
ルイは目を伏せたまま、小さく呟いた。
「タイキの手……冷たくて気持ちいい」
あまりにも素直な声だった。
タイキの胸が、きゅっと鳴った。
本当に、音がしたみたいだった。
「……」
言葉が出ない。
ルイが甘えている。
ちゃんと、自分に。
隠さずに。
整えずに。
余裕のある顔も作らずに。
ただ、気持ちいいって言った。
それだけなのに、タイキはどうしようもなく胸が苦しくなる。
「……そっか」
ようやく、それだけ返す。
声が少しだけ掠れた。
「じゃあ、こうしてる」
タイキは手のひらをルイの額からこめかみへ移し、ゆっくり撫でた。
冷たさが逃げないように、少しだけ長く触れる。
ルイは目を閉じる。
「……ん」
小さく息が漏れる。
その反応がまた、タイキの胸を締めつける。
「ルイ」
「……なに」
「こういう時くらい、遠慮すんなよ」
「……してない」
「してる」
「今は……してない」
ぼんやりした声。
でも、その言葉はちゃんと本音だった。
タイキは一瞬、泣きそうになるのを堪えた。
「……じゃあ、いい」
「うん」
「水、飲めそう?」
「……あとで」
「今ちょっとだけ」
「……厳しい」
「厳しいタイキ、嫌?」
ルイは少しだけ目を開けた。
熱で潤んだ目。
焦点が甘い。
でも、タイキだけを見ている。
「……嫌じゃない」
また素直。
タイキはもう、だめだった。
胸の奥がぎゅっと縮んで、苦しいのに、あたたかい。
「じゃあ、飲んで」
「……ん」
タイキは近くのボトルを取る。
ルイの頭を膝に乗せたまま、少し身体を傾けてキャップを開ける。
「起きれる?」
「……少し」
ルイが起き上がろうとする。
タイキは背中に手を添えて、ほんの少しだけ支えた。
いつものルイなら、自分でできると言う。
支えられることを恥ずかしがる。
でも今は、タイキの手に逆らわなかった。
それだけで、また胸が痛い。
水を飲ませる。
一口。
もう一口。
「よし」
「……子供扱い」
「病人扱い」
「またそれ」
「便利だから」
ルイが少しだけ笑った。
本当に少し。
でも、朝方の薄い光の中では、それだけで十分だった。
水を飲み終えると、ルイはまた力を抜く。
タイキはゆっくり頭を膝の上へ戻した。
「寝れる?」
「……たぶん」
「たぶん禁止」
「……寝れる」
「よし」
タイキはまた髪を撫でる。
ルイは目を閉じた。
けれど、眠りに落ちる前に、小さく口を開く。
「タイキ」
「ん?」
「……昨日、来てくれてよかった」
タイキの手が止まりかけた。
ルイは目を閉じたまま続ける。
「待っててくれて」
「……よかった」
熱のせいで、言葉が少し途切れる。
でも、その分だけ余計に真っ直ぐ響いた。
タイキは奥歯を噛んだ。
「……うん」
それ以上言うと、声が揺れそうだった。
だからただ、撫でる。
ルイの頭を。
髪を。
こめかみを。
「寝て」
「起きたら、また水」
「熱も計る」
「薬も飲む」
「で、まだ高かったら病院」
「……予定、詰まってる」
「病人のスケジュール管理」
「雛子さんみたい」
「言うな」
ルイがほんの少しだけ笑って、またタイキの手に頭を寄せた。
タイキはもう、何も言えなかった。
ただ、優しく撫で続ける。
朝方の薄い光の中で、ルイはまだ熱を持ったまま、タイキの膝の上で目を閉じている。
完全には下がらない熱。
重い身体。
掠れた声。
でも、昨日より少しだけ、力が抜けている。
タイキに甘えることを、自分で許している。
その事実が、タイキには何より大きかった。
「……いるから」
小さく言う。
「寝てていいよ」
ルイはもう返事をしなかった。
でも、タイキの手に擦り寄るみたいに、ほんの少しだけ頭を動かした。
それが返事だった。
タイキはその仕草を見て、困ったように笑った。
胸がきゅっとして、苦しくて、でも嬉しくて。
「……ほんと、熱ある時のルイ、ずるい」
聞こえないくらい小さく呟いて。
それでも手は、ずっと優しく、ルイの髪を撫で続けていた。
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