5月6日(金)
ゴールデンウィーク明けの日。
なんとなく、早くに目が覚めた私は早めに学校に出勤し、部室の掃除でもすることにした。
そうして、部室に入るとそこには先約がいた。どうやら、小橋くんのようだ。
「え……先生? どうして、こんな時間に?」
小橋くんは私が部室に入ると、慌てて背を向ける。その態度を不審に思いながらも、とりあえず風邪が治って学校に出てきたことを嬉しく思う。
「小橋くんの方こそ、朝早いじゃないか。どうやら、風邪も良くなったみたいだし。私は早くに目が覚めたから、部室の掃除でもしようかなと思ってね」
そう言いながら掃除用具入れにほうきを取りに行くと、小橋くんの横顔が見える。その横顔……頬には、薄っすらとだが痣があった。
「どうしたんだい!? その頬!」
私は慌てて、小橋くんの傍に向かった。だが、小橋くんは自分の顔を隠すようにうつむいてしまう。
「なんでも……ありません」
「なんでもないってことはないだろう? 頬に痣が出来てるじゃないか!」
私は詰め寄るが、小橋くんは黙ってうつむいたままだ。
「もしかして、お父さんか?」
私のその言葉に、小橋くんの肩がビクッと震える。
「やっぱり、そうなんだね?」
静かにそう言うと、小橋くんは涙を流し始めた。
「何かあったら、いつでも教員寮までおいでって言っていただろう? 遠慮せずに、なんでも話してよ」
私がそう言うと小橋くんは顔を上げ、ぽつぽつと話し始める。
「お父さんは……帰ってきて僕が演劇部に入ったって知って『馬鹿野郎』って僕をぶちました。月曜はあんまり顔が腫れているから休まされました」
そうか、あの日の時点ですでに事は起こっていたんだ。すぐに家庭訪問でもなんでもするべきだった。
「ゴールデンウィークに入ってからも、お父さんの怒りは収まらなくて、あっちこっちを殴る蹴るされました」
小橋くんはとうとう嗚咽を漏らしながら、告白する。制服が長袖だからわからないが、体にも痣が沢山あるのだろう。
「それは、もう虐待のレベルに達してるんじゃないのかな。担任の先生にも伝えるけど、構わないね?」
私の言葉に、小橋くんは小さく頷く。そこで私は、小橋くんを連れて1年3組の担任の元を訪れた。
担任は大層驚いていたが、すぐに小橋くんを保健室に連れて行き、虐待の痕を確認しに行った。私はその間に、学園長に話を伝える。
学園長に話し終えた頃、小橋くんを連れて担任が戻ってきた。そして、確かに全身に痣があったことを報告する。
学園長はその報告に、児童相談所に通告するべきかどうか悩んでいるようだった。
「お願いです。児童相談所には、連絡しないで下さい!」
今後の対応について悩んでいる私たち教師陣に向かって、小橋くんは懇願した。
「だけど、全身に痣が出来るほど殴られているのであれば、私たちは放っておくわけにはいかないよ」
私がそう言うと、小橋くんは俯いてしまう。
そんな小橋くんを見た学園長は「児童相談所に一時保護されるのは嫌なのかか?」と尋ねる。それに対し、小橋くんは小さく頷いた。
そうか。このまま児童相談所に通告すれば、小橋くんは一時保護されて家族から離される可能性だってあるかもしれない。
そうなれば、小橋くんはせっかく仲良くなったクラスメイトとも部活の仲間とも離れ離れになってしまうだろう
「それでは、小橋くんを学生寮に入寮させる……というのはいかがでしょうか? 根本的な解決にはなりませんが、父親と離れれば暴行の心配はなくなるかと」
私がそう提案すると、学園長は小橋くんの目を見て「どうするかね?」と聞いた。
「はい! 僕を寮に入らせてください!」
小橋くんは学園長の目をしっかり見つめ返し、そう言って頭を下げた。学園長は「では、そういうことに」と頷いた。
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その夜、小橋くんの家に私と担任で家庭訪問に行き、学園側の決定事項を伝えた。
父親は何をふざけたことをと激昂したが、担任が小橋くんの体を調べた時に撮っておいた痣の写真を撮っていた。
その写真を突きつけると「こんなに痣になっていたのか」と驚き、しぶしぶ了承するのであった。
母親は帰り際「ありがとうございます。息子をよろしくお願いします」と我々に頭を下げた。
こうして、小橋くんは学生寮に入ることが決定したわけだが、今、彼は私の部屋にいる。
いきなり学生寮に入るといっても準備もある。空いている部屋はあるのだが、掃除もまだされていない。
それに、小橋くんの心の傷を考えれば、一人で部屋にするのにも抵抗があったからだ。
幸い、小橋くんは男子生徒なので、私の部屋に泊める事はそんなに難しくなかった。
これが女子生徒であれば、誰か別の先生が預かることになったのだろうが。
今は職員室で小橋くんに事の顛末を話した後、明日にでも部屋を掃除して、そこに住むことが出来ることを話した後だった。
小橋くんは自分の安全が確保されたことよりも、お母さんのことを心配していた。[お父さんの暴力の矛先が、お母さんに向かないか……ということである。
だが、暴行の詳細を両親から聞いた限りでは、母親が止めに入るとそこで暴行は収まっていたらしい。
決して父親が母親に手を上げる事はなかったということだった。
もちろん、何か問題が起こらないかは注意深く見守る必要があるが。
だが、今の私の役割は小橋くんを安心させることだった。
「大丈夫だよ、小橋くん。お母さんは仰っていた。『自分は大丈夫だから、息子をお願いします』と。実際、お父さんはお母さんに手を上げたことはないんでしょ?」
私の言葉に、小橋くんは小さく頷く。頭では父親が母親に手を上げないことはわかっている。
だが、どうしても不安を消すことはできない……そんなところだろうか。
「大丈夫。私たち学校側もお家の事はちゃんと見守っている。君は心配せず、まずは自分のことを大切にしなくちゃ」
そう言って、私は小橋くんを抱きしめる。すると、小橋くんの目から涙があふれた。
「お父さんも、僕が小さい頃はこうして抱きしめてくれました。僕が声優になりたいなんて言わなければ、お父さんはきっと優しいままだったんだ……」
「そうかもしれないね。でも、自分の夢を持つという事は決して悪いことじゃない。それがお父さんの望んだものじゃなくても」
「優しいお父さんだったというなら、いつかきっと君の気持ちをわかってくれるよ」
私は小橋くんを抱きしめる腕に力を込めた。小橋くんも幼い子どものように、私の体を抱きしめてくる。
「……お父さん」
小橋くんが小さく呟く。
「ショウ……」
その言葉に、敢えて私は小橋くんを名前で呼んだ。小橋くんは驚いて顔を上げるが、すぐにいつもの柔らかい笑みを浮かべ、こう言った。
「先生。これからは僕のこと、そうやってショウって呼んでください」
その言葉にどういった意図があったのかはわからないが、私はそれから小橋くんのことをショウと呼ぶようになったのだった。
ー 完 ー
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