潮風は、都会での失敗から逃げてきたアオイの心を、容赦なく冷やした。
アオイ、27歳。デザイン会社を辞め、
東京から祖母が営んでいた海辺の小さな喫茶店「海猫(うみねこ)軒」を継ぐためにやってきて、三週間が経っていた。
店は潮風と時間が運んだ砂に覆われ、全てが時の流れから取り残されていた。
アオイが再開に向けた掃除をしている中で、最も異様だったのは、店の奥、壁際に置かれた錆びた郵便ポストだ。
鉄製で重厚、長年の潮風で塗装は剥げ、まるで動かない化石のようだった。
「どうしてこんなものが…」
投入口は固く錆びついていたが、下部の取り出し口の蓋だけが、わずかに歪み、隙間が空いていることに気づいた。
好奇心に負けて引っ張ると、ギチギチと音を立てながら、蓋は開いた。
中には、蜘蛛の巣と埃、そして一通の古びた手紙が入っていた。
手紙は、無地の大学ノートをちぎったような紙。震えるような子供の筆跡で、こう書かれていた。
「未来の誰かさんへ。海猫軒ポストより」
そして、日付。2015年9月30日。ちょうど10年前の日付だ。
アオイは迷った末、手紙を開封した。
未来の誰かさんへ
はじめまして。僕はナギといいます。 僕はもうすぐ、この町を出て行きます。
親の都合で、遠い、知らない町に。 不安です。今の学校では友達がいません。
新しい町でも、きっと一人ぼっちになると思います。
海猫軒のおばあちゃんが、「大切な想いを届けるポスト」だって教えてくれました。
*未来の誰かさん、*僕みたいな孤独な人間*でも、未来で*笑っていられますか?
どうせ届かないだろうけど、もし読んでくれたなら、どこかに返事を書いてくれると嬉しい
手紙を読み終えたアオイは、全身に鳥肌が立つのを感じた。
12歳の少年の切実な孤独な想いが、10年の時を超えて、今、都会で夢を諦めた自分の心に直接触れた。
アオイは、居ても立っても居られなくなった。届かないはずの手紙に、抗いがたい衝動で返事を書いた。
「ナギへ。未来から返信します」
ナギへ
君の手紙、確かに読みました。私は君がいる未来、2025年にいるアオイという者です。 まず、君に伝えたい。
君は一人ぼっちじゃない。10年後の今、君の想いは、この海猫軒に確かに届きました。
*今は辛くても、どうか希望を捨てないで。*孤独を経験した人は、誰かの優しさに気づける強い人間になれる。
君は、未来で必ず笑っていると、私は信じています。
いつかまた、君がこの海猫軒に戻ってきてくれることを、心から願っています。
未来より、アオイ
アオイは手紙をポストに入れ、蓋を閉めた。どう考えても過去に届くはずのない、感傷的な行為だ。
しかし、誰かのために何かを成し遂げたような、清々しい気持ちだった。
翌朝、コーヒーの準備のために店に出たアオイは、ポストを見て、息をのんだ。
昨日閉めたはずの蓋が、わずかに開き、その隙間から、白い紙が覗いていた。
ポストを開けると、中にはまたしてもナギからの返信が入っていた。
日付は、昨日アオイが手紙を入れたはずなのに、またも「2015年9月30日」。
未来のアオイさんへ
*驚いています。本当に、*未来からの返事が届きました! 昨日の夕方、ポストを覗いたら、アオイさんの手紙が入っていたんです。 信じられない。僕の想いが、本当に時を越えたなんて…。
*アオイさんの「君は必ず笑っている」という言葉を読んで、涙が出ました。*アオイさんは、僕の最初の理解者です。
僕の未来を、教えてくれてありがとう。
アオイは、大粒の涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。
自分の感傷的な一歩が、過去の誰かを救い、その感謝の言葉が、都会で傷ついた今の自分自身を癒している。
時を越えた文通は、こうして、奇跡的に始まったのだった。
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