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二章
その日は、あの頃の夢を見た。
たった半年前なのに、ずいぶんと懐かしかった。
都の右京四条には、糞小路という名のあぜ道が通る。
本当の名は具足小路らしいけど、糞小路の名がお似合いの貧民窟。
都大路の側ならご立派な建物も建つのに、都然としているのはそこまでだ。外れの方には大きく汚い池もあって、辺りは賊や浮浪者が蟻のようにたむろしている。
そしてわたしも、かつてそこの住人だった。
いつから住んでいたか覚えていない。自分の年も知らない。忌み子として棄てられていたと話は聞いた。
産んだ親を恨みにも思ったけど、鬼女なんてどこもそんな扱いらしい。
ただそんな忌み子でも、拾ってくれた女がいた。
女はもう子が産めない体で、わたしを死んだ我が子と思い込んで育てた。毎日毎日よく殴られたが、逆らいはしなかった。人よりも体が頑丈だったし、耐えていると少しは飯が食えたからだ。でも心の中じゃ、阿父や阿母やきょうだいや友に囲まれた安寧に過ごす生活を、いつもいつもずっと夢見ていた。
そんな日々が続き、何度かの暑いと寒いを繰り返した。
ずっとそうして過ごすのかと思っていたけど、貧者の命は短い。やがて女が死ぬと、わたしは繋がれていた縄を千切って外に出た。腹が減っていた。
あの瞬間はよく覚えている。太陽が眩しく直視できなかった。
外の世界ではわたしを汚らわしく扱う者が大勢いたけど、育ててくれた女と違って恩もない。
生まれつき備わった力で縛り上げ殴ってやると、誰もがすぐにわたしに従った。そうして子分を増やしていき、わたしは子供の頃から夜盗を率いて暮らしていた。
主に貴族を襲った。殺しはしなかったが、たくさん奪った。奪ったものはメシと銭貨に変えてみんなで分けた。
わたしは馬鹿だから一人ではすぐ捕まっただろうけど、野盗には鬼女がもう一人いた。あの頃では唯一、友達と言えた者で、頭の切れる鬼女。
わたしもそいつも、あの頃はまだ名前がなかった。
ただわたしはカミ、そいつはスケと仲間に呼ばれていた。
月明かりさえ雲に隠れた真っ暗闇。
わたしはスケと一緒に、六条で南北に流れる川の泥に身を伏せていた。
既に子分たちも各々の持ち場に付いている。報せでは間もなく旅から帰る貴族の牛車が通るはずだ。どっかの寺に泊まりで参った帰り、もう朽ちた河原院を眺め『あはれ』を感じながら帰るという。
あんなものに風流を感じる趣味はよく分からないけど、手に入れた沙汰ではかなり有力な貴族ということだ。それだけに警備の随身は腕利きだろうが、鬼女二人と腹を空かせたならず者たちに敵うわけがない。
「まだかなぁ、遅ぇなぁ」
わたしは頭だけを上げ、東院大路の向こうに目を凝らす。
川に沿って南北に伸びるこの路の四条から北は、公家や皇族の邸宅が並ぶ都でも花形の地域。比較して南のこの辺りは荒れ地も目立ち、夜は特に人気がない。襲って逃げるには絶好の場所だ。
「ここを通るのは間違いねぇ。男衆が報せの文を手に入れてきたからな」
スケはわたしの視線の逆を警戒しながら注意を促した。
「だからよ、カミ。こっちはただ待てばいんだよ。当面は最後の盗みになる。気ぃ抜くなよ」
「……なあ、スケぇ」
わたしは彼女の袖を引っ張る。
「それ考え直さない? その気になれば、吾たちはもっと稼げると思うんだ。なにも散り散りになるこたないよ」
「だけど使庁もだいぶ警戒してる。しばらくは潜らないと捕まっちまうぜ。しくじって使庁のクソどもに拷問されるなんてゴメンだね」
「……潜るんなら、吾も一緒に連れてけよぉ。一人になりたくねぇ……」
「言われなくても一緒にいるつもりだって。こんな地べたに這いつくばる、泥とクソまみれの生活はうんざりだ。ツノ隠して生きてえなあ」
スケはざっくり切った短い髪を揺らし、わたしに笑いかけた。わたしも笑って安堵を示した。わたしはスケの、この勝気で鋭い瞳が大好きだった。
一人になるかと心配していたけど、やっぱり友達だ。この仕事が終わったら、しばらくはこの鬼女と一緒に大人しくしておこう。貯めた銭貨は両腕に抱え切れないほどある。あれを綺麗なべべと交換して、その辺のあばら家を修繕して……。穏やかな生活は夢にまで見た……。
「来たんじゃねぇか、カミ」
スケの言葉に、わたしは耳を澄ます。車の音に牛の足音、あとは随身の馬の蹄か? 地面を鳴らして近付いてくる。だが。
「――カミ。おかしくねえか?」
スケは泥から飛び出そうとするわたしの肩を掴んだ。
「なにが」
振り返り、問いかける。
「……思っていたより、足音の数が多い」
「お偉い貴族さまなんだろ」
「それにしても」
なにかがおかしい。スケの目はそう言っている。
そしてわたしも耳を澄まし、スケの言葉の意味を解した。
足音が、緩慢でだらしない貴族の雰囲気と、どこか違う。隙がない。
「どうする、スケ」
「……中止しよう。なんか変わった道を通ると思ってたんだ。偽の報せに踊らされたかもしれねえ。男どもに合図して」
「クソ。分かったよ」
返事をすると手を動かし、こちらを見ている子分たちに合図した。しかし……。
「奥の木陰に三人だな」
よく通る声が、暗闇に響く。
わたしとスケは、声に縛られ金縛りみたいに動けなくなった。
いっそう気配を消し、泥の深くに身を沈める。
路を凝視していると、やがて雲の切れ間から月が姿を見せた。淡く澄んだ月光が路をぼんやり照らすと、まるで煙る霧から出てきたように悠然と、狩衣の男が馬に乗って姿を現した。
「手前の柵に二人」
張り詰めた闇に、また声が走る。
見ていると男は鼻梁が通り、紺碧の目をした色白の優男だった。うしろには下人を多く連れていて、手には細い棒キレ。牛車も引き連れてはいるが、中に人の気配はない。――やはり謀られた。
「んー。そっちの櫓の陰には二人。柵の陰にも三人。そして……」
男の目はこっちを向いた。隠れ遊びで獲物を見付けた子供のように、爛々と輝く恐ろしい瞳だった。
「川にも二人潜んでいるね。そちらのお前たちが鬼女か?」
「お前、使庁の役人かよ!」
わたしは泥から跳ね起き、男に向かって突進する。
時間を稼ぐから子分どもを連れて逃げろ。スケには目でそう合図した。こういうときの段取りも定まっている。そしてだいたい上手くいく。何故なら鬼女に敵う人間なんてそういないから。
「騙しやがって!」
地面を蹴って大きく跳ね、私は馬上の男へクモの巣みたいに髪を飛ばした。放免どもが動く暇は与えない。これで縛り上げてその間に……。
「髪を武器にするか。イキのいい鬼女だ」
男は口元に笑みさえ浮かべ、避けるどころか伸ばした髪を素手で掴む。
ウソだろと髪を引き戻そうとするが、少し遅かった。男は間髪入れず強い力で髪ごとわたしを胸元へ引っ張り込み、この拳を棒キレで叩いた。まるでハエでも払うかのように、パンと。
口から呻きがもれる。有り得ないくらいの痛みが手に走った。
髪を収めて、激痛が脈打つ手の甲を見る。朱色に腫れて、痛みはまるで火に炙られたようだ。
「……お前、なにしたんだよ。なんだ、その枝」
わたしは手を抑え、慎重な口調で問いかけた。話している間に目を左右して逃げ道を探すが、既に放免どもが回り込んでいて隙間はなさそうだ。
「こいつかい? そこで拾った木の枝だよ」
男は下馬すると、その棒キレで自分の肩を叩いた。顔には余裕が滲んでいる。
「ウソつけ! ただの棒キレで叩かれて、こんなに変な痛みなわけねえ」
「木の枝だって、祈祷を込めれば立派な武器さ。私のおまじないはねえ、都じゃ恋と物の怪に効くと評判でね」
男はにこやかに話しながら、歩を緩めず距離を詰めてきた。
いますぐ全力で逃げるべきだ。わたしの中のなにかがそう叫ぶ。
とっさに飛び出した川へ目をやった。こちらへはまだ放免どもの手が回っていない。逃げるならここだ。地面を蹴ろうと力を込めるが、
「おっと」
男は瞬時に間を詰めると棒キレを振り下ろし、わたしの足に、またあの灼けるような痛みを与えた。短い悲鳴が走り、体がその場で崩れる。
「すまないね。逃げられたくはないんだよ」
「ひい、い……!」
わたしは惨めに地面に這いつくばって、虫が逃げるように男に背中を向けた。とにかく恐ろしいこの場から離れたかった。
「なんだ? 音に聞く四条の鬼女もこんなもんかい?」
男はこちらを冷酷に見下ろし、土を掴む腕をさらに棒キレで打擲した。熾烈な痛みでまた叫び声が上がり、そして打たれるたびに自分の内なる力が弱まるのを感じた。これも『おまじない』のなす業か。自分の敗北と終わりを悟る。
「ゆ……」
「ん?」
「……許してよう……。もう打たないで……」
わたしは降参を示し、その場で頭を抱え芋虫のように丸くなった。同時に放免どもがムシロで体を押さえつけてきて、さすがに鬼女の力でもどうしようもなかった。ムシロは鬼女に直接触れたくないからだろう。クソが……。
「お前ら、誰が指示した! 鬼女を放せ!」
激しい声が頭上で響き渡った。
見上げると声はあの優男で、この身を押さえつける放免どもに怒鳴ったようだった。
「ですが!」
「忘れるなよ、お師匠の義理で仕方なくお前たちをつれてきている。人間ごときが分を弁えろ」
ひどく酷薄な声で、男は言った。
放免どもは頭から水でも浴びたように立ち上がり、這いつくばるわたしと命じた男を交互に見やった。
「泣くほど恐ろしいか」
男が飄々と屈み込んで、わたしを見下した。
「……頼むよ。仲間は見逃してよ」
「この期に及んで仲間の心配とは健気だねえ。私は検非違使の者には非ず、悪人退治にさほど興味がないのでね、心配しなさんな。だけど……」
男は立ち上がると、路の向こうを見た。
「しがない陰陽寮の官吏でね。鬼女は見逃せないな」
「鬼女は?」
地べたに押さえられながら男の視線を追うと、なにかがこっちへ向かって来る。燃えるような敵意を背負い、凄まじい勢いで。
「カミを放せよ、てめえら!」
「スケ!」
助けてくれ! 喉まで出かかった言葉を呑み込み、
「逃げろ!」
願いと別の言葉を叫んだ。
「逃げねえよ! いま助けるから待ってろ!」
「こいつは危ない、スケ! 頼むから逃げ」
言葉を止めるように、男がわたしの腕を打つ。
だけどわたしは悲鳴も呻きも上げなかった。泥を噛んで耐えた。これまでで一番難しい我慢だったけど、声にスケが反応してしまうから。
「ほお。今度は頑張るか」
「逃げろ、スケ! 散だ! 逃げてくれ! 頼むから!」
「でも……!」
スケが足を止め、迷いを見せた。本当に危ないときの合図『散』のあとは、必ず逃げると取り決められている。しかし、
「逃がすわけにはいかないね」
棒キレを構えると男は躊躇いも恐れも見せず、見惚れるほど無駄のない動作で地面を蹴った。猪を思わせる直線の軌道でスケへと突っ込んでいく。
「行かせねぇ!」
痛みを堪えて、最後の力を髪に込める。何度も叩かれて、内なる力はほとんど残っていなかったけど……。――少しでいい。伸びてくれ!
目を閉じて、自分の中のなにかに願う。
瞬間、応えるように暗闇の中になにかが閃いた。
暗闇の中でそれはぐんぐんと明るさを増し、わたしはついに眩しさに耐え切れずに目を開けた。そして飛び込んできた光景。
髪。髪だ。
わたしの髪は緋色に染まり、爆ぜたように伸びていた。伸び切った竹よりも長くって、たぶん土壇場で出せた最後の力!
――これなら!
わたしは緋色の髪を鞭の如くしならせ飛ばす。
髪は礫の勢いで地を這い男へ迫っていって、そして――。
――捉えた!
「おお?」
大きくつんのめった男は髪が巻き付く自分の足元を見たあと、意外そうにわたしに目を移す。
「いまだ、スケ! もう戻ってくんなっ!」
「でも!」
「行け! お願いだから!」
叫ぶとスケは後退り躊躇いつつ、こっちに背中を見せた。何度も何度もこっちを振り返り、そのたびにわたしは早く行けと大きな声を送った。
「あーあ。あの子も見たかったけどねえ」
男は腰に手を当て、残念そうに息を吐いた。
「仕方がないか。逃げた鬼女は人の足じゃ追いつけない。それよりも」
男は足に絡み付く髪を、手にしていた棒キレで邪魔そうに払った。来る。と感じたら、気持ちが恐れに染められた。彼は闇夜に染まる地面をひたひたと戻り、再びわたしの前で屈み込んだ。
全身に冷や水を浴びたように、恐怖で体が竦んだ。歯の根も合わない。
これからどんな拷問を受けるんだろう。
わたしは恐ろしかった。気が付くと涙がまた頬を伝い、小便をもらしていた。情けなくって惨めだ。でも鬼女の行きつく先はこんなもんだと、自分に言い聞かせた。
「そう構えなさんな。検非違使の者じゃないって言ったろう」
「うぐ、うう……」
「あーあー、ごめんよ。涙と鼻汁と泥で汚くしたねえ」
男が狩衣の袖でわたしの顔を拭き、周囲がどよめく。
わたしも驚き、そして呆けて男を見ていた。
夜盗の子分ですら力を恐れて従っていただけで、なるべく鬼女との関わりを避けていたのを知っている。ましてや穢れとされるこの身に触れることなんてなかった。なのに敵であるはずのこの男……。
「土御門どの。鬼女でずぞ。暴れたら……」
放免がうしろから、恐々といった口調で言った。
「黙れ、下郎が。鬼女は本来、人などより情が厚い。お前たちの目で鬼女を計るな」
男は冷たく言い放つ。でも次の瞬間にはその端正な相好を崩して、泥の上にあぐらをかいた。あたしの正面で微笑むその顔は人懐っこくて、紺碧の眼は月の光を妖しく映していた。何故だか強く惹かれる瞳だった。
「じゃ、鬼女。打って悪かったね。そこに座りなさい」
「……こ……、殺すのか……?」
「まさか。殺すつもりなら、最初から太刀を使っているよ。特別に帯刀の許しを賜っているのでね。今日はちょっとお前の力を見たかったんだ。座りな。旧知のように向かい合おう」
促され、慌てて正座をする。放免たちが男を恐れ見守る中、路の真ん中でわたしと男が座って対峙しているのは妙な光景だったと思う。
「うん。やっぱりね」
男は吸い込まれそうなその目でわたしをまじまじと見つめたあと、勢いよく手をパンと叩いた。
「土汚れを落としたら、なかなか愛くるしい顔になったじゃない。夜に燃えるような朱の目がいいな」
「あ、あい……」
愛くるしい? わたしが?
意味を解し、ひいっと肩が跳ねそうな恥ずかしさが瞬時に頭を沸かす。
「鬼女。信じられないかもしれないが、私はお前に好意を持っている。あのザマでよく仲間を守ろうと思えたねえ。期待外れかとも思ったが、あれはなかなかよかった。お前の名は?」
好意? 好意って……。
わたしは気が張り詰め、手を胸に当てた。口は変な形で開きっぱなしだったと思うけど、男は慌てるこっちに構わず、柔らかい表情のまま。
「ななない……。名前なんか……」
「そうかぁ」
男は思案するように黙ると、しきりにこめかみをかく。
なんの時間だろ、これ……? 落ち着かずもぞもぞとすると、やがて男はなにか閃きを得たように、わたしの瞳を覗き込んだ。
「禁中の後宮じゃねえ、父君なんかの職にちなんで、入内する姫君には女房名を付けるんだ。私のところもマネしてそうしているがね。でも他と同じようなものじゃお前もイヤだろうし。もっと雅にね」
私の、ところ? 意味が呑み込めないけど……。
「うん。夜火がいいな」
男は言った。「は?」とわたしは聞き返した。
「坤鬼舎の通例で陰陽仗の仗を足し、夜火の仗。火のように燃えるお前のその目は、夜によく映える。仲間からは夜火と呼ばれるだろう。そう名乗れ」
「よる、ひ?」
「ああ。お前は私の式神になるんだよ、夜火」
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放免は検非違使の下級刑吏を指す語で、安倍晴明は朝廷の役人で。 つまりは、政治家さんが個人で盗賊の鬼を捕まえようとしたけど、義理として警察官を引き連れていた。。。というシチュエーションなのですね。多分。だから放免と土御門様の間で仲が良くないと。 土御門家は晴明の子孫が名乗ってるイメージですけど、晴明を指すこともあるんですか。知らなかったです。 もっとちゃんと勉強してればよかなあ。

色々調べながら読んでる。 「カミ(長官)、スケ(次官)、ジョウ(判官)、サカン(主典)」は、日本の律令制(りつりょうせい)における四等官(しとうかん)と呼ばれる役職の序列」今で言う大佐とか中尉とかみたいな、階級を指す言葉らしいですね。今日を生きるのも苦しい鬼女たちに位の高さを指す語が渾名に与えられたの、皮肉ですね。