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坤鬼舎。
これからはそこに住めと、安倍晴明と名乗るその男は言った。
それは坤鬼舎で働く女官となり、そして裏鬼門を鎮護する私兵を意味すると説明を受けた。婢という意味だろうか? よく分からない。
よく分からないがどうやら陰陽師というのは不自由で働ける間口が限られ、怪異などへの措置はどうしても僧任せになるらしい。その現状を名折れと考えた陰陽寮が組織した武官が陰陽仗だとか。公にはなっていないようだけど。
確かに怪異や災いが発生したら、それは公方の政が悪いせいだとよく聞く。上としては怪異の芽は早めに潰し、悪政の追及を逃れたいのかもしれない。
「お前が入れば五人の鬼女がいることになるねえ。愛憎で揉めないようにね、仕組みやしきたりは考えているし、心配しなくても手ごめになどしない。納得しなきゃ入らなくても構わないし、嫌になったら出てもいい。我慢はよくないから」
「そりゃ……、どうも」
確かに昔から富める男は女を何人も持つし、そうでなくとも自由に色々とやっているのも知っている。この世の中じゃ常道だけど、五人とはまた……。
「もちろん戦いだけこなして、私と寝なくてもいいよ。さっき言ったように出て行ってもいい。お前の心の持ちようは尊ぶ。自分の心に従ってくれ」
「…………ああ」
遠回しに言っても分かっている。物好きそうなこの男だって、小便まで垂れた汚い鬼女との睦事はお断りだろう。そもそも穢れの鬼女なんか誰も女人と見ないし、生きるのに精いっぱいで無自覚だった。
わたしは桂川で体と着物の泥を落とすと、晴明と共にその坤鬼舎に向かう。晴明は馬でこっちは徒歩だが、特に縄で繋がれたりはされなかった。
「ま、逃げられたらしょうがないさ」
晴明はわたしの行動を意にも介さない。不思議な男だと思った。
暗闇の中で、しばらく二人の間は無言だった。草を踏みしめる音と虫の音が、桂川をうしろにした草原の風に消えていく。
「お。夜が明けるな」
やがて晴明はのんきな口調で呟き、遥か先の地平を見た。
そこでは空と山の境界をこじ開けるように、太陽が眩い光をこの空の下に与えようとしていた。夜を払う淡い輝きは撫でるようにこの汚れた身にも光を注いでくれ、日の出など見たのは久しぶりかもしれないと、わたしはぽかんと眺めていた。
「なあ夜火」
晴明は馬を停め、山から生まれたばかりの太陽を眩しそうに見た。
「お前の罪の理由は分かっているよ。人などがのさばる塵世は鬼女には生き辛い」
溶けるように柔らかい声で、晴明はこちらに語りかけた。わたしは自分の全てが見透かされているようで、ひどく恥ずかしかった。
「だがこれからは違う。お前が私に手を貸せば、代わりに居場所を与えてやろう」
「……吾に?」
この汚くて、穢れで、罪業にまみれた、鬼女であるわたしを?
「そう。お前の夜は明けたのだ」
背に浴びる陽の輝きで縁取られた晴明に、わたしは自分が包み込まれていくような不思議なものを覚えた。彼に触れてみたいと、そして汚れたこの体が恥ずかしいと初めて自覚した。
「あの、あの、なんで吾を、なんでこんな汚い鬼女の夜盗を、あの……」
「お前がどうあるかなど枝葉に過ぎないよ。大切なのは魂だと私は思うね」
「魂……」
「嫌なら去って構わない。しかし承知したならいま、私の馬を引け。共に日輪の下を歩こう」
※
そしてわたしの眠りは破られた。
たった半年前なのに、ひどく懐かしい夢だった。
「晴明様……」
夜の闇が染まる虚空にむかって呼びかける。
わたしに居場所を与えてくれた人。わたしに優しくしてくれる人。わたしを日輪の下で歩けるようにしてくれた人。そして鬼女を愛してくれる人。
ただ、愛しい。
起きて、握りっぱなしの手を開ける。そこに眠るザクロの種は、ただものも言わずにじっとわたしを見つめていた。
※
「夜火! あんたまだ庭の掃除終わってないの!」
翌日。内廊に霞姉さまからの叱責が突き刺さる。
尖った声だけど、夜盗たちの蛮声に比べればまだ可愛いもの。わたしはこれこそが平和であると安らぎをしみじみ実感するけど、うんうんとやっていたら目に角を立てた彼女に尻を蹴っ飛ばされた。
「早く終わらせて次は水汲み! 仕事は山ほどあるのよ! ウチは都の凶方にあるんだからね。清めを怠ればすぐに穢悪が出てきちゃうでしょ!」
「まあまあ。怒らないでくださいよ」
「怒らせないで!」
霞姉さまはキーッと食いしばった歯を見せ威嚇する。
彼女はこの坤鬼舎で上から二番目の古株。
わたしよりは年上だろうけど、三つ四つくらいだろう。
ちょっと茶味がかった髪に、気の強さを思わせる眼差し。
そつなく女房仕事をこなし、坤鬼舎を仕切るできた鬼女だ。
不幸にも『うっかり者の夜火』の叱り係になってしまったけど、でもそれだってわたしのことを考えてくれているんだと思うと、なんだか並々ならない好意が湧く。嫌われていて、ちょっと寂しいけど。
「叱られてなにをニヤニヤしてんのよ! よく考えたらあんた、亜鐘の手習いもまだでしょ! さっさとする!」
「うひ~」
と、軽い悲鳴を上げた側から、
「朝餉の用意が済みましたよ~」
亜鐘姉さまの穏やかな声が聞こえてきて、わたしはお清めを放り出し、みんなで朝餉を頂く主殿へと足取り軽やかに向かった。
霞姉さまがお小言を口にしているけど、食欲には敵わない。
「ヨル、ついに新枕だったのー?」
命恋姉さまが放ったたった一言で、主殿に流れる朝餉の風景が止まった。
「……新枕? わたしがですか?」
ザクロの種が脳裏をよぎる。
「そうよ。違うの? 昨日の夜、あんたの局に晴明さまがお渡りしてたわよね?」
「ちちち違いますよ、いや、違わないけど違います。晴明さま、昨日は都でのことを聞きに来られただけで」
目の前で箸を振って全力で否定するわたし。あったと言えばあったし、なかったと言えばなかったんだけど、さすがに自分の立場は弁えている。
「えー。ヨルの艶っぽい声が聞こえた気がしたんだけど。違うのかあ」
命恋姉さまはわたしの答えをあまり気に留めず、「あの声、なんだったんだろ」と、雑穀粥を口に含んでもむもむと頬を回す。けどわたしは恥ずかしさで耳まで火照っちゃって、顔色を隠すようにそっと俯いた。
こういうとこあるんだよなあ、命恋姉さま。
ぱっちり開いた瞳は星屑を思わせるし、栗色で健康そうな肌は憧れでもあるんだけど、すこぶる我が道を行くので油断できない。わたしはヒビの入った雰囲気がこのまま流れ去るのを待つけれど、
「あんた」
そうはさせてくれない霞姉さまの声。
「そう言えば確かに晴明さま、昨日は私の局で、少し中座してらしたわ。念のために聞くけど、晴明さまとなにもなかったのよね?」
「え、ええ、まあ……」
恐る恐る隣の席を窺うと、彼女は穴でも開けんばかりの眼力でもってこちらを睨み付けていた。この有様をつくった命恋姉さまは無関係って顔で、もぐもぐ粥を食べている。あんたのせいだよ?
「そりゃ、あの、なにもなかったっていうか……。あの、晴明さまはわたしをからかいたかったみたいで、ちょっとイタズラされただけというか……」
「いいのよ。別に正直に言って。ウチってそのためにあるんだし」
霞姉さまが口の中のものを飲み下して続けた。
「もしなにかあったら、お祝いに強飯を炊こうと思っただけだから。殿御が妾を何人も持つなんて別に普通だし、晴明さまはお世継ぎのこともあるしね。悋気なんて坤鬼舎じゃご法度なの。でも」
「でも?」
「順番は局の並び順。昨日は私で、次は命恋。もしあんたがお手付きになるなら、その次だからね。順番の作法は、アレのときを除いて必ず守るの。もし晴明さまがお望みでも、絶対にお断りする」
「アレ?」
「アレったらアレ! 本当にあんた分かってる? 私たちは嫉まない。そのために晴明さまは、局を回ってお勤めする順番を守る。これが坤鬼舎に敷かれた絶対の作法よ。もし破ったら、あんた私のツノでぶっ刺すわよ。本当だからね」
「こわ~」
彼女の額に生えるツノは矛の切っ先みたいな鋭い形。鬼女のツノの形って、なんとなく本人の性格を反映していそうな気がする。
「話題が穏やかじゃないねえ」
考えていると気安い調子の温かい声が、簀子縁の向こうから聞こえた。
――晴明さま。
主殿の空気が引き締まり、わたしたちは横に並び三つ指を床についた。開きっぱなしの戸に現れた晴明さまに、畏まって頭を垂れる。
「はいはい。みんな頭を上げて。霞はあんまり厳しくしないでいいからね。堅苦しいのは都だけで十分だから。みんな朝餉食べてなさいよ」
「……殿の御前でなどはしたなく、また作法が……」
霞姉さまが畏まると、
「かまわない。私の前では、そういうわずらわしいのは抜きだ」
晴明さまが困ったように促すと、女房たちは恐る恐る自分の場所へと戻って行く。
それを見ると晴明さまは満足そうに笑い、亜鐘姉さまの傍らに腰を下ろした。
瞬時に彼女の頬が薄紅を帯び、気を張ったのが分かる。
「うん。どうせ刺されるなら、私は亜鐘のツノがいいねえ。子猫の耳みたいに柔らかで、こっちなら痛くないでしょう。愛くるしいツノだ」
「もったいないお言葉で……」
「ツノはいつも褒めてるじゃない。近くにあると触りたくなる」
晴明さまが亜鐘姉さまのツノを指に絡めると、亜鐘姉さまの顔がますます茹で上がる。わたしはそれを見て羨ましくもあり、でもなんだか微笑ましい心地になってしまった。
「で、ねえ、亜鐘。急なんだけど」
「なんなりと」
「さっき聞いたら命恋にアレ来たらしくてね、月の障り。明後日も私はこちらに来るが、そのときは命恋を飛ばして亜鐘の局に泊まる。いいかい?」
※
朝餉が終わり斎庭に出ると、ゾッとするなにかを肌に感じた。
日増しにこの辺りを濁す怨の気配。恐らく都でモリが言っていたのと同じ。都の飢餓や恨みが怨となりながらも穢悪とならず、いまだどこかに溜まっている。
普通なら穢悪や怨の気配なんて意識を研ぎ澄まさなきゃ分からないけど、ここまで濃いと、嫌でも異変が肌の覚えで分かってしまう。
この怨が穢悪として形を結んだら……。
悪く膨らむ想像を、頭を振って心から追い払う。
こんな心配なんて、だいたいが取り越し苦労に終わるものだ。
わたしは自分に言い聞かせ、斎庭に落ちる屑を拾っていく。
そのときまた少しだけ、怨の気配が濃くなった気がした。