【君の目線】
隣の席のあの子から貰ったメモと、バクバクと脈打つ自分の心臓を握りしめて約束の場所に向かって走った。
歩くなんて悠長にはしていられなくて、すこし予定よりも早く着くかもしれないけど、それでもいいから、と走った。
「ふふ、あはは!やったぁ!あははっ!」
込み上げてくる笑いが止まらなかった。
山の斜面をいつになく素早く登った俺は、そこで良い方法を準備して待っているであろうあの子との幸せなサイゴを想像して、満面の笑みで飛び出した。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
飛び出してから、あんなに楽しみで飛び跳ねていた心臓が凍り付いたのを感じた。
「はぁ、はぁ、はぁっ…」
走ったせいか、妙に酸素が足りなくて息苦しくなった俺は、行きにそうしたようにギュッと胸元を握りしめた。
「はっ、はぁっ、は…!」
目の前の光景が、目を焼くように痛いと感じるのに、なぜか目が離せなかった。
今目の前のあれは、あの光景は夢なんじゃないかと考える。
「は、はっ、は…ぅ…お、え…」
びしゃびしゃと地面に広がった吐瀉物の据えた臭いを感じながら、それを遥かに超える悪臭に涙が止まらなくなった。
あの子の足元に大きな水たまりを作っているそれのむせかえるような匂いが、目の前の光景が決して夢ではない事を俺に突きつけていた。
「ぅ…あ……ぁぁあ…」
違う、と頭のどこかで夢見がちだった俺が両手で目を塞ぎながら叫んでいた。
想像していたのは、こんなのじゃなかった。
もっと、ふたりでもっとしあわせなおわりかたをするはずだったの、と。
その場に座り込んでいた俺は、濁ったあの子の目を見て引き攣った悲鳴をこぼした。
『ねぇ、約束でしょ?』
そんな言葉が、聞き慣れたあの子の可愛らしい声を使って頭の中で作られた。
被害妄想が止まらなかった。
俺のせいじゃないという言葉がいくつも列を作った。
「ぅわぁぁあっ!!」
俺はその光景に背を向けて走り出していた。
家に飛び込み、長い間そっぽを向いて突き放したせいで関係の悪くなった母親にしがみついて、何度も言葉に詰まりながら助けを求めた。
何かがおかしいと気がついた母親が約束した場所に置き去りにしたあの子のところへ行って、青ざめた表情のまま電話をしてからは目まぐるしく全てが流れていった。
「お話を聞かせてくれる?」
やけに子供扱いしてくる警察に、あの子との話を全て吐き出していたら、知らない男の人が同じ部屋に入ってきて、俺の前にしゃがみ込んだと思ったら、悲しそうに笑って俺の頭を撫でた。
「生きててよかった」
慌てた様子の警官に連れてかれてしまってからのことはわからない。
唯一わかっている事といえば、俺はあの子のことを何も知らなかったし、あの子は最初から俺と死ぬつもりは無かったのだという事。
俺の自殺願望の犠牲になったのは、隣の席に座るあの子の未来と、俺の心中に空いた大きな穴と、それからいくつかの事柄だけだった。
・ ・ ・
高校二年生、春。
シンプルな作りの部屋に設置された二段ベッドから降りた俺は、鍵のない窓から覗く遠くの桜をぼんやりと見つめていた。
あの事件以来、何かを完全に無くしてしまった俺は精神の病と診断されて施設に預けられている。
不思議と悲しいとは思わなくて、景色が流れていくのを車から無感動に眺めていた。
「おはよう、調子はどうかな?」
「…はい」
診察と称した観察を終えてからいつものように部屋に戻ろうとしたところを呼び止められる…面会が一件あるけど、どうしたいかと言われて俺は首を傾げた。
母親は随分と前に面会してからもう来ないでほしいと自分から遠ざけて以来、一度も来た事がない。今更こんな俺に会いに来るのだろうかと疑問に思っていた。
「貴方のお友達のお父さんが、会って直接話を聞きたいそうなのだけど…どうしたい?」
ひぅ、と喉から同じな音が鳴った。
久しく忘れていた感情が強く揺さぶられる痛みに立っていられなくなって壁に手をつく。
「大丈夫…!?面会はお断りしましょうか?」
「……い、え…しま、す…」
カラカラに乾いた喉が張り付く。
舌がもつれそうだった。
ただ、あの子の父親からも逃げるのは、ダメな気がしたのだ。
「こんにちは…えっと……」
少しおどおどした、あの子に似てすこしアンニュイな雰囲気の男の人の声が降ってくる。
俺は面会室に入る前から限界まで俯いたまま、ずっと顔を上げられずにいた。
「こん、に…ちは…俺、その…ごめんなさ_」
「待ってくれ」
謝罪を遮られた途端、酷い罵りと、どうして、と問い詰められることを想像してぎゅっと身を固くした。
「本当に、申し訳なかった…」
「……え?」
想定していなかった言葉に、思わず顔を上げてあの子の父親の目を見る。
あの子の父親は、少し疲れた顔であの子のことを、あの子との関係を、俺が何一つ知らなかったあの子のことを、全て話してくれた。
「あの子は、きっと妻の…あの子の母親の真似をしたんだと思っているんだ……」
・ ・ ・
あの子は_みどりの母は、みどりが生まれて少ししないうちに自殺してしまった。
元々一途で愛の深い人だった…それに対して、俺は全てに対して酷くネガティブな人間だった。どうにも、疑わずにはいられない性格をしていたんだ。
『子供が生まれたのに…』
『あなた、大丈夫。貯金もあるし、私だって働ける…みどりはしばらく母さんたちに見て貰えばいいのよ』
勤め先が倒産して、俺はたくさんの理由から精神を病んでしまい…自殺を仄めかすようになった。
『もう死にたい…無理なんだ、辛いんだ…』
『そんな…』
『…俺が死にたくなったら、一緒に死んでくれないか?』
今思えば、本当に最悪な夫だったと思う。
妻は、少し驚いた後、いつもの優しい笑みを浮かべて俺の言葉に頷いた。
冗談のつもりで吐き出したんだ、病んでいる人間の自殺したいだなんて言葉が、冗談の一言で済むはずがなかったのに。
『もう、ダメだ、死のう、一緒に死のう』
『…包丁は危ないわ、ね?』
ある日限界が来て、薄暗い部屋の真ん中で譫言のように呟く俺を見た妻は笑ったんだ。
もっと確実に死ねる方法があると妻は俺の握る包丁を押さえながら囁いた。
その言葉を信じた俺は、翌朝痛い目を見た。
『ぅ、うわぁぁぁっ!!』
妻が約束よりもずっと早く死んでいた。
血だらけで、惨たらしい死に方をしていた。
そのことをきっかけに、俺は随分と死を恐れて、妻の姿を思い出す自殺からは徹底的に目を背けた。
妻の忘形見である、みどりと共に。
・ ・ ・
今なら妻の考えが、散々放置していたみどりの考えが、手に取るようにわかるんだ。
妻は、俺に自殺を諦めさせたかったんだろう。
なんの因果か、母は自殺したとしか教えていないみどりのほうが、俺よりも早く今は亡き母の意図に気がついていた上に、それを真似て君にトラウマを与えてしまった。
あの二人の考え方は一貫しているんだ。
『愛する人に死んでほしくない、そのためなら、自分が犠牲になることも厭わない』
そんな、呪いのように一途な愛が。
私はみどりに好きな子ができたことすら知らなかった。ずっと知らんふりをしていたから…所謂、ネグレクトだ。
ずっと我慢して俺からの仕打ちに耐えていたあの子は、君の境遇を知って共感して、君の強さに惹かれたのかもしれないね。
・ ・ ・
涙が止まらない俺を前に、同じように涙を流すあの子の…みどりの父親が笑った。
「生きてて良かった…あの子が愛した君が、今ここに生きていて、本当によかった」
あの時の、見たことない男の人と、今目の前にいるみどりの父親の顔が重なった。
「…うぁぁ…なんで…」
今でも忘れられない。
グロテスクな光景と赤く濡れた体と虚な瞳。
全てが呪いのように脳裏に焼き付いている。
「もっと、早く気がつけてたら…」
みどりの孤独に、みどりの愛に、もっと、もっとはやく、失う前に…わかっていれば。
孤独を理解している者同士、支え合えたかもしれなかったのに。
一緒に、またくだらない話ができていたかもしれなかったのに。
「あの子の分も、生きてくれないか」
泣きじゃくり後悔ばかりを口にする俺に向かって、みどりの父親は言った。
ボロボロ涙を流しながらも、俺の目を見据えて、ハッキリと言った。
「あの子の救い上げた命で、君の好きなことを探しながら生きてくれないか」






