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遥は、動けなかった。
声は出せたのに、足も手も、思うようには動かなかった。
背中が焼けるようだった。
あの言葉──「壊れてても、おまえがそこにいるなら」で、
なにか決定的な“境界”が、音もなく踏み越えられてしまった気がした。
「……おまえ、バカだろ」
かすれた声が、喉の奥から漏れた。
「そんなふうに言われたら……余計、逃げられなくなるだろ」
日下部は何も言わない。
ただ、そこにいる。
遥の言葉を否定もしないし、肯定もしない。
でも、“引かない”という意志だけは、はっきりとそこにあった。
「俺、おまえが思ってるよりずっと汚いよ」
遥はうつむいたまま、口を開いた。
「……蓮司に抱かれてるとき、時々、ホッとするんだ」
「痛いし、怖いけど……“あ、これなら、俺だ”って。ちゃんと“俺の役割”があるって思える」
「“壊される自分”が一番、居場所としてしっくりくるんだよ」
「最低だよな……それ、わかってんだ」
言葉が、喉の奥で震えた。
自嘲でもなく、挑発でもない。
ただ、ひとつずつ、自分の中にある“触れてほしくなかった場所”を、指差すように。
「そんな俺を……おまえは、壊したくないって?」
遥は首を上げた。目が、やっと日下部をまっすぐ見据える。
「……それって、“見てるだけ”より残酷なんだよ」
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙。
その沈黙の中で、日下部の目がわずかに揺れていた。
彼は今、自分の中で何かを飲み込もうとしている──遥は、そう直感で感じ取った。
「おれは──」
ようやく、日下部が口を開いた。
その声は、ひどく低く、掠れていた。
「……おれは、過去におまえを壊した。黙って見てた。何もしなかった」
「だから……今、おまえを壊さないって決めたのは、自己満足かもしれない」
遥の肩が、ピクリと動いた。
「それでも、おれは……おまえが“壊れたこと”で終わってほしくない。
“壊されてる途中”で、全部決まったことにしてほしくない」
「おまえの目が……今の目が、“全部だった”なんて言わせたくない」
それは、呪いに似た言葉だった。
誰にも投げられたことのない、
遥の中にすら存在を許されなかった、
“もしも”の形をした、救いの幻。
遥は、肩を震わせた。
「……そんなこと、言うなよ」
「そんなの、……ずるいだろ」
もう、どちらの声かわからなかった。
自分の心か、日下部の声か、遠くの物音か。
いっそ全部、錯覚だった方が、ずっと楽だった。
「じゃあ、どうすればいいんだよ……」
ぽつりと漏れたその一言に、日下部は答えられなかった。
「“壊れててもいい”って言ったの、おまえだろ……?」
「だったら、なんで──そんな顔するんだよ……」
遥は、日下部の目を見たまま、嗤うように笑った。
「結局……同情だろ。……哀れみだよ」
「そうやって、“おまえはまだやり直せる”って……上から、言ってんだよ」
「そうじゃない」
日下部の声が、ようやく返った。
「そうじゃない。……ただ、おまえが、ここにいてほしい」
「それだけで、理由になるんだ。……おれにとっては」
遥は口を閉じた。
もう、何も言えなかった。
それが優しさなのか、希望なのか、都合のいい嘘なのか。
遥には、もう判別がつかなかった。
ただ、胸の奥に何かがぐらりと傾きかけている。
言葉ではない、それは感情ですらない、
それでも確かに「生きてる」とだけ言える何かが──