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月の穴が好きな人
#カントリーヒューマンズイラスト
ななはま
412
とが
505
#Country Humans
月の穴が好きな人
97
冬将軍の行進がこの牢のすぐ横を通り過ぎ
木枯らしのマーチと共に辺りを占領する。
小さな窓一つしかないこの場所が
冬の寒さを寄せ付けないのだと
一体いつ考えたのだろうか。
コンクリートから染み入る
刺すような寒さ。
身を縮めても、寒さが体を蝕み続ける。
あの雨の日から、ずっと経った。
偶に薬や食料を渡しに来る米帝の
しつこいボディタッチを除けば
ここの暮らしも大分慣れたものだった。
…イタリアが尋ねてくることはなかった。
偶にすぐ近くで何かを話す声が響いたり
走り抜けてゆく足音が響いたり。
懐かしい声色を聞くことはあっても
その音の元の人物に会うことは叶わず。
痛み続ける脚がどこまでも不快なだけだ。
それに…
誰かを愛したあの時の温かさ。
誰かに愛された、快さ。
指を絡ませた時のあの心地よい感覚が
どうしても、忘れられないのだ。
この床で眠るのも、随分慣れた。
土と違ってほくほくと暖まるような
そんな優しい温かさは得られない。
染みるような痛みに近い寒さが
腰から脚…それに胸の中まで刺して回る。
手を擦り、服の下で温める。
一段と冷え込む夜だった。
澄んだ空気を吸い込めば、肺が痛む。
思わずむせれば、脚がひどく痛んだ。
無理やりに目を閉じ、朝を待つ間。
重そうな鉄戸の外から
擦るような足音が僅かに聞こえる。
泥棒か?盗賊だろうか?
無理やりに足音を消そうと試みるような
そんな雰囲気の感じる足音だ。
鍵が差し込まれ、回る音…
ナチも。
…多分、イタリアも。
私を助けようと思うような者は
全員いなくなったのだ。
なら誰だ?
私を酷く恨むものだろうか。
この胸にナイフや拳銃を突き立てて
満足気に笑う…誰かだろうか?
「……起きていたか」
「日帝。久しぶりだな」
一筋の月光の元。
輝かんばかりの金色の瞳が見据える。
ソビエト。
敵か味方かの区別もできないような
なんともいえない雰囲気が漂う奴で…
少なからず。
私に危害を加える気がないことだけは
辛うじて分かる。
「…脚。どうして庇う」
「やましいものでも隠しているのか?」
「怪我をしているだけだ」
「……脚を?この牢中で…?」
「気になるなら見ればいい…」
「…あと。何の目的でここへ来た?」
「…その脚見るまでは決まっていないな」
靴を脱がされ、ズボンをたくし上げる。
青紫や嫌な黄色味を帯びた跡。
最近気が付いたのが、
折れた骨が変に付いたのか
僅かに脛が凹むようになっていること。
それを見たソビエトは顔を顰め、
あからさまに肩をすくめる。
「…自分で折ったのか?」
「はっきり言って…馬鹿だな…」
「私ではない。米帝だ」
「……」
「…そうか」
ふいと遠くを見やるその目。
すぐ近くで見るそれは
金色…というよりも、瓜の花に近い色で。
夏の日の川辺に咲く向日葵にも見える。
しかし色濃い黄昏月のようでもある。
なるほど。
これを俗に、美しい目と言うのだな。
ナチの言う…アーリアンの青い目のような
箱に入れて飾りたい、芸術の眼球。
「…さぞかし冷えるだろうな」
「ああ。まあ…慣れっこだ」
「……イタリアの願いを叶えるために」
「…ここに来た」
「…イタリア?」
「アイツはもう死んだ…処刑された」
「…だが、その前」
「連行する係の俺に…願いを託した」
「……その願いとはなんだ?」
「日帝を寒さで殺すな、と。」
「…アメリカの配慮のなさへの言葉か」
「はたまた。お前への情か…」
「……はは。よく言う…」
「…罪人の願いを叶えるのか?」
「叶えなきゃいけない…仲間ではあった」
「…しかし…ここには布がない」
「それに茶を入れてもすぐ冷める…」
「……貴様らの布団を寄越せ」
「度胸あるな。やらんが…」
「…ナチに相談したんだ」
「ナチ?ナチは生きてるのか?」
「…話を遮るな」
苦虫を噛み潰したような顔。
話を遮ったことが随分気に食わなかったか
そのまま会話が途切れた。
吹き込んだ風の寒さに思わず身震いする。
私のその様子を見て、ソビエトは笑った。
「…ふん。哀れだな」
「ナチのことが気になる気持ちは分かる」
「アイツも、お前のことを気にしていた」
「会えるのか?」
「ナチは…寒さに震えてないか?」
「…さあな。俺とは喋ってくれない…」
「さて。お前には借りがあったな?」
「…借り?」
またソビエトは鼻で笑い、
おもむろにすぐ隣に腰を下ろす。
チャリ、と鍵束が音を立てるが
不思議とそれを取ってまで逃げようとは
思えなかった。
視線を送り、話の続きを促す。
「…ナチを尋問する時」
「お前のことを引き合いに出したらな」
「なんでもベラベラ喋ったんだ…」
「薬を打っても口を開かなかったのに!」
どこか恍惚とした表情でこちらを見やる。
少し紅潮した頬が興奮を露わにする。
煌く瞳がより一層潤み、感動が顕著だ。
節の太い指が床に弧を描く。
もう片手が私の顔の半分を鷲掴みにする。
「お前のお陰だ!日帝……!」
「アイツの、アイツの弱みを…」
「……俺は完全に握った」
狂気的な笑顔。
見ていても恐怖はしない。
ナチのこととなると…いつもそうだった。
勢いのまま私の手を取り、頬にキスする。
悦楽の表情を浮かべて、声を上げて笑う。
心の内は純粋そのものなんだろうが
その行動は澱みきったドブ。
自身の純粋さを理解していない幼稚さが
狂気をより引き立たせる。
「…私は惚気を聞きたい訳じゃない」
「この寒さをどうにかして欲しいんだが」
「……まあ、そうだな。悪い…」
「俺のコートをやろうと思ってな」
「…お前の?」
「ああ。俺は着込んできたから構わない」
「…ありがとうなあ?日帝…」
キャメルのコートを肩に掛けられる。
内に残った僅かな温かさが心地よい…
だが…何故だろう?
すごく、…すごく重い。
コート一枚で大きな鉛一塊のような重み。
このコートが重いのか?
それとも…私が、鈍ったのか?
体が潰れてしまいそうだ…!
「…重い…!…助けてくれ…重すぎる…」
「……どういうことだ?」
「これは…ただのコートのはずだ」
「分からん、分からんがとにかく…」
「…重すぎる…苦しいくらいだ…」
疑問の表情を浮かべながら
ソビエトはコートを脱がせた。
体が軽く、重圧から開放されたようだ。
骨が軋むような感覚だった。
…どうして?
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が溢れる。
知らないうちに…衰弱したのか?
「…まあ、一日に缶一つの食事なら」
「確かに…こうもなる」
「アメリカの気が知れないな」
ぜいぜいと息をする私の背を
暖かく大きな手がさする。
すごく疲れた…何故だ?
眠い、眠いのに、…寒さが身を刺す。
睡魔とは違う…穏やかな眠りの感覚。
ゆったりとした低音に焦りが見え始める。
「…日帝?…おい、…」
「……ああ、クソ!返事!」
「…あ?……なぜ焦る…」
「…」
「お前、今…瞳孔が開いてる…」
そこからは多少が曖昧で、
確か…眩しい光に目が眩んだ気はする。
私が今、目を閉じたまま起きられないのは
極度の飢餓による衰弱だそうだ。
聞き覚えの無い声が耳元でそれを告げ
その後からは…
偶に椅子がキイキイなる音や
紙に何かを書く音だけが聞こえる。
…誰がそうしているかは分からない。
そんな状態が続いた。
近くには窓があるようで
ちらちらと瞼越しの光が眩しかったり
吹き込む風が頬をちりちりと冷やした。
違和感に気付いたのは…
吹き込む風が柔らかくなってからだった。
目を開いている筈であるのに
視界には僅かな明暗しか映らず
黒か、灰色だけが…私の世界になった。
…目が、見えない。
知らない場所で、見えなくなった。
何もかもがわからない恐怖を、
誰も頼ることのできない絶望を。
私はどうすれば?誰を頼れば良い?
姿が見えず、声も出さない同居人か?
一体、誰なのだ。
「…こんにちは」
「どなたか、そこにいらっしゃるようで」
「………」
返事はなかった。
ただ、椅子がキィ、と回る音。
その人物は椅子から立ち上がり
革靴の足音を威厳なく鳴らして歩く。
窓側に立ったようで、視界が暗く濁る。
すぐ側に居るが…何も喋らない。
「…名前を、伺っても?」
「……」
喋らない。
僅かに服が擦れる音。
私の横たわる寝具が僅かに軋む音。
風が窓を揺らす音。
不意に、…暖かい感覚。
抱擁か?
初対面ではないということだろうか。
呼吸の音。仄かに息を感じる。
私も息を吸い込む。
…一度、感じたことのある匂い。
香水じゃない。
洗剤でもない。
私を安心と懐古に落とし込む…
優しい、…匂い。
舌が乾く。唾液を飲み込む。
…私は今、緊張している。
言葉に出して良いのか。
私が口にして、…初めて事実になる。
そんな気がしてならないのだ。
息が震える。
貴方は、…
「……気付くな」
言葉と息の塊が、喉につっかえる。
私の言葉を遮って…貴方は告げた。
その声。
確かに、貴方のもの。
会いたくて仕方がなかった人の声。
冷たい、冷たい声。
縋りたくなるその言葉の裏に
貴方の隠した残酷な愛がある。
言いたくて堪らない。
ああ、会いたかった、…と。
喉が乾いた。
手探りで貴方の顔を見つけて
その秀でた顔をなぞり
…私の渇きを満たせたら。
どれほど良かっただろう?
けれど貴方は認めない。
ずっとずっと、会いたかった。
私の気持ちを伝えることさえ許さない。
喉は乾く。
さらに渇き…渇望。
水が…水が欲しい。
「…の…喉が、…乾い、た…」
衝動的に口を出そうになる言葉を押し込め
ただ意味のない言葉を口にする。
声が震える。
静かに、部屋を去る足音。
冷ややかな風。
見えない、私の手。
…乾いた、私の手。
手探りでシーツを漁り、
寝台の、冷たい支柱に触れる。
体が起きない。
胴も、脚もある。
ふと…腹を絞める感覚…何かのベルト?
革に似た感触のそれを
赤子のように、ただベタベタと触る。
その両端は寝台の下へと潜り込み
到底取れそうにない。
ただ衝動的に。
それを取ろうと暴れる。
二方向に引っ張り、破る様にしてみたり。
体を捩って脱出を試みたり…
数十秒の格闘の末、…諦めた。
喉の乾きに気付いたのだ。
…果てしない、渇きに。
口にしたい山ほどある言葉たちが
喉を引っ掻き回すようだ。
貴方の姿を思い出そうとする脳が
ギリギリと痛み続け
歯ぎしりをすれば…足が痛んだ。
渇いた…何かが渇いた。
きっと貴方がこの部屋を去ってから
まだ2分すら経っていない。
ついさっきまで感じていた、
貴方の匂いが。
貴方の声が。
貴方の動く音が。
何年も前には当たり前だった、
火薬と貴方の肌の匂いが。
私を呼ぶ声が。
私を愛してくれる貴方が。
恋しい。
ひどく寂しい。
水の中で泡を捕まえようと藻掻くような。
明らかな空虚と喪失感。
渇いた。
心が、渇いた!
ドアの開く音。
規則的な足音。
戻ってきた。
貴方が、ここに戻ってきた。
静かに佇む気配を感じる。
今度は…先程とは反対側。
顔を向けると、息を吸う音が聞こえる。
服の布地が擦れる音…
私の背に手が回され、抱き起こされる。
「…」
もう片手が私の目に…瞼に触れる。
その手は暖かくも、冷たくもなかった。
私の輪郭をなぞる。
頬骨を撫でる。
一本の指が唇に触れ、
そのまま何本もの指がその軌道を真似る。
最後の指が唇を通る。
その指は唇の中心で止まり
僅かに下唇を押す。
爪が上唇の内側と…歯に少し触れる。
空気が揺れ、ずいと何かの近づく気配。
額が触れ合う。
肌の少し突っ張る、暖かい感触。
唇に置かれた指が、僅かに口を開かせる。
息を吐く間もなく…口が重なる。
生暖かい液体が、舌を伝って流れ込む。
僅かに口の端から垂れたそれが
顎を…首を伝う。
少しだけ飲み込む。
貴方の口の中で、少し温まった水。
それは私の渇きを癒してゆく。
もっと、…欲しい。
流し込まれる水はとっくに尽きていた。
しかれども顔は離れない。
手探りに貴方の頬を撫でる。
絡まる舌を、混ざる唾液を愛すように。
悲惨な戦争の彼方に消えた
愛の虚像を懐かしむように。
遠くで鳥が鳴く。
暖かな光が私の背を暖める。
口の中に残る唾液を、ゆっくり飲み込む。
空だった器が…満たされる。
宙をかいた私の手を、貴方の手が包む。
「…会いたかった」
どちらの声だったか。
私か…貴方か。
重なっていたか。
はたまた、声すら出されていなかったか。
私には分からない。
それはただ…私の心に染み込んだだけ。
渇いた心に、馴染んだだけ。
コメント
1件
いやあ…第3話、めちゃくちゃ重くて美しい回でしたね。ソビエトがイタリアの遺言を伝えに来たあのシーン、そして「コートが重い」という違和感が衰弱の描写に繋がる流れが本当に巧い。何よりラストの、目が見えなくなった後の――あの沈黙と匂いだけで「誰か」が判る瞬間。口移しの水で渇きが癒される感覚と、「会いたかった」の重なり。声に出せない想いを文字に乗せる技術、見事でした。接着剤みたいに心に残る話です。