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『俺は誰だ』
保健室から教室に向かう道すがら、もやがかかった様な頭を振る。登校する迄は普通だった。そこから記憶が無い。登校中倒れて保健室に運ばれたと、たまたまそこに居たクラスメートに教えられた。ずっと意識を失っていたらしい。
言われれば、夢を見た、ような気がしないでも無い。ずっと試合をしていたような、異様な緊張感を常に持ち続けていたような。内容は分からないが、疲れる夢だった事には違いない。
眠りの中で、急に、急にだ。「起きなくては!」という強い意志があった。導かれるままに起き上がり、ベッドの横に置かれていた自分の荷物の中から竹刀を取り出して、打った。須田愛海を。
何故?
戸惑いが頭の中で膨らむ。1年の、後輩の女の子を、だ。訳が分からない。
しかもそこからが異常だ。1つの体に2つの意志が有るとでも言うかのような感覚だった。自分では無い何者かが俺の体を操る。そう、正に言葉で表すならばそれだ。
そのもう1人の『誰か』は、2年の女子を守りたいと思っていた。
水川弥生。
話した事も無い、かろうじて名前を知っている程度のその女子の事を庇う為に、俺は須田愛海に竹刀を打ち込んだ。しかも須田愛海は受身を取って俺に向き直り、威嚇なのだろうか、猫の如く声を発した。空気が割れ、肌がビリビリと電撃を浴びたように痺れた。
その時、俺の口が勝手に動いて声を発した。
「ミアナに手を出すな」と。
『ミアナ』というのが水川弥生だとすぐに理解する自分。最優先で守らなければならない大切な人。愛する人だと思った。
そこから、水川弥生とミアナが重なって見え、次第に1人になる。俺と『誰か』が重なって1人になる感覚。
抱き締めて感じた彼女の温もり、その温度、感触、匂い。
ああ、生きている。
そう思って安堵した。
その後、教室に向かって歩いている訳だが、何の為にミアナと別れて別の場所に向かっているのか、理解出来ないと言う自分と、午後の授業を受ける為教室に向かっている、これは至極当然の事だと言う自分が同時に居て、考えが纏まらない。反する意見、共に自分の考え。そもそもミアナとは?俺は、誰だ・・・。
「ア、スラン様・・・」
教室に入った時、クラスメートにそう声を掛けられた。
そうだ。俺の名は『アスラン』。警備隊の隊長。市民を守る為に、身を挺して戦うのが俺の仕事だ。
声を掛けたクラスメートと、他の生徒達も、その名を呼びながら近づいて来る。その場に居るほぼ全員、クラスの総数の半分程度だろうか。
「アスラン様、どうなっているのでしょうか、この、我々の体は」
喋るクラスメートに、別の姿が重なる。
「ああ、どうかお助け下さい」
守るべき市民の姿。何とかしなくてはいけない。俺が。
何故俺が?
俺は警備隊長だから。市民と市を守らなくてはならない。そうしなくてはミアナを守れない。ミアナは俺の全てだ。
そうだ。ミアナは、俺は・・・。
ミアナが産まれたのは、俺が10歳の時だった。現市長の孫として、全市民に祝福されて産まれた。普通の赤ん坊より小さく産まれた彼女は、それでもすくすくと育った。他の子より少し小さいだけ、そう思っていたが、成長するに連れて少しずつおかしな所がみえ始めた。
まず周囲が気付いたのは、極端に眩しがる、という事だった。目が見え始める頃から、日の当たる所で目をぎゅっと瞑り、それでも足らずに両手で目元を覆う様に隠す仕草を繰り返す。
医師に見せると、瞳孔による光の調節が上手く出来ていないので、強い光の下では過ごし難い、と言われた。俺の住む市は、腕の良い医師に恵まれていなかったので、それ以上は分からないままだった。彼女は日の当たる所には出されなくなった。
次の異常は、食事を摂り始めた頃から。何かを口に入れる度に体中が赤く染る。虫に刺された様に腫れ上がり、痒いのだろうむずがり暴れた。少しすると引いて行くものの、酷い時は口の中、喉の奥迄腫れるのか息をするのも大変そうな様子が見られた。これは、食べる物によって腫れたり腫れなかったりする事が徐々にわかり、大丈夫な物だけを食べる事で解消された。だかそのせいで食べる量が足りなかったのだろう。産まれ付きの小さな体は、その後もずっと小さなままだった。
小さいながらも成長し、2本の足で立ち、歩く様になってから次の異常は現れた。息切れをすると直ぐに咳込んでしまうのた。激しく動いたり、感情が昂った時も同じ。咳込んで止まらず、ヒューヒューと不安を煽る様な音を立てて苦しむ。その為、ゆっくりと動き、安静に過ごす事を強要されるようになった。
そんな彼女に訪れた最大の不幸は、突然の両親の死だった。
市長の仕事を手伝う為、彼女の両親はよく彼女を俺の母に預けて行った。市では、6歳から教養を、12歳から男子は警備隊で訓練を受ける事になっていた。それらが無い日は、俺もよく彼女と遊んだ。
そんなある日、彼女の両親は、祖母である市長と移動中に、襲われた。奴等に。
蝙蝠の様な羽を持ち、美しい女の顔と体で見る者を惑わせる。奇妙な匂いで人間の行動を鈍らせて、狩っていく。
魔物、と俺達人間は呼んでいた。魔物は、突然現れたらしい。詳しくは分からないが、俺が産まれた時にはもう人間の脅威となっていて、警備隊が魔物から人間を守るようになっていた。
市長の移動に付いた警備隊は全滅。市長を守る為に身を投げ出したミアナの両親も。生き残ったのは市長ただ1人だったと言う。
まだ何も分からないミアナを残して、彼女の両親の命は奪われてしまった。
以来、ミアナは家で引き取る事になった。
ミアナの両親の仇を討つために、俺は警備隊の訓練に精を出し、警備隊長にまで登り詰めた。
出掛ける度に「行かないで」と甘えてくるミアナの姿。体は弱いながらも頭は良いようで、みるみる教養を身につけて行くミアナ。得意げに「試験の成績、1番だったのよ」と自慢する顔。
世襲制では無いが、今迄ずっと親族で守ってきた市長の座が、両親の死と彼女自身の「弱さ」によって受け継がれないかも、と言うプレッシャーに苦しむ顔。
全て見てきた。兄のように、父のように。
成長するに連れて美しくなって行くミアナへのその感情が、家族のそれから男女のそれに変わるのは当たり前の事だった。
そして今・・・。
何かが起こっている。知らない場所で知らない体。元の持ち主にとっては寝耳に水の出来事であろう事は間違いない。だが、市民が居て、ミアナが居る。俺は、守らなければならない。
「状況を整理しよう」
俺はそう言った。
ドアが開く。午後の授業が始まる時間だ。担当の教師が姿を見せる。数学だ。
教師は室内を見回し、俺と目が合うと一瞬固まる。
そして、敬礼をする。部下だ。
「慌ててはいけない。一つずつ順を追って、なすべき事を成していこう」