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第2章 動き出す歯車
バンカラ街の空気は未だ重く、血の匂いと破壊の痕跡が街路のあちこちに残っていた。
並行のチーターが現れ、暴れ、そして斃れたあの瞬間から数時間も経っていないのに、景色はすでに色を失っているかのようだった。
アマリリスは深く息を吐いた。呼吸をするたびに胸の奥がざらつき、乾いた痛みを訴える。犠牲はあまりにも大きかった。
戦いに勝ったはずなのに、得られたものより失ったもののほうが圧倒的に多い。足取りが重いのは疲労だけのせいではない。
その横を歩く不正者狩りの三匹、エルクス、ミア、キヨミは彼を支えるようにして並んでいた。
エルクスは相変わらず飄々とした笑みを浮かべていたが、その奥に張り詰めたものが隠れていることをアマリリスは感じ取っていた。
「なあ、アマリリス。今日とは言わずもう色々あったし、疲れただろ?しばらく俺らの倉庫に泊まっていかないか?」
軽く投げられた言葉。しかしその言葉の中には、確かに彼を気遣う温度があった。アマリリスは一瞬口を開きかけたが、すぐに閉じる。拒絶する理由はない。
むしろ今は、無理にでも足を運びたい気持ちがあった。戦場の記憶が生々しすぎて、このまま孤独に放り出されれば押し潰されかねない。だから彼は短く答えた。
「……わかった。」
ミアがぱっと笑みを浮かべた。
「よかった!拠点はちょっと散らかってるけど、慣れたら居心地いいんだよ!」
その明るさが、疲弊した空気をわずかに和らげた。キヨミは横目で彼を見て、小さくうなずくだけにとどめた。歩みが進む。
バンカラ街の中心から離れるほどに、イカタコの気配は薄れていった。夕陽が沈みかけ、空は朱と群青の境目を揺らしている。
アマリリスの影は長く伸び、舗道に沈んだ。その影を踏むように、幼い日の記憶が忍び寄ってきた。拠点。倉庫。
そう聞いた瞬間、胸の奥に冷たい感触が走った。思い出したくもない響きだ。彼の育ての親が所有していたのは確かに倉庫だった。
俺を殴り、蹴り、罵倒し、時に息が止まりかけるほどの痛みに晒したあいつら…。
流した血と涙の記憶が、倉庫という単語だけで脳裏に蘇ってしまう。嫌な予感がじわじわと強まっていく。足が自然と遅くなる。
だが、不正者狩りの三人は気づかない。エルクスは前を歩きながら世間話のように軽口を叩いていた。
「ま、最初はちょっと不気味に見えるかもしれんが、慣れれば悪くないんだ。物資も多いし、外から目立たない。俺たちが動くには都合がいいんだよ。」
アマリリスは唇を噛みしめる。嫌な汗が首筋を伝った。まさか。いや、そんな偶然が――。やがて彼らは辿り着いた。夕陽の光を浴びて影を濃くした大きな建物。鉄とコンクリートの無機質な外壁。錆びついたシャッター。
そこに立った瞬間、アマリリスの心臓は凍りついた。見間違えようがない。このロゴはそうだ。この倉庫だ。
幼い頃、何度も蹴り倒され、罵倒され、逃げ場を失った、あの腐った血と汗の匂いが染みつき、壁に叩きつけられた感覚が骨に刻み込まれている。
呼吸が乱れる。視界の端が暗くなり、過去の光景が錯乱のように浮かぶ。
育ての親の怒号。姉兄の笑い声。痛み。冷たい床。
そして「お前は道具だ」という言葉。
不正者狩りの三人は気づかず、前へ進む。エルクスが振り返り、肩をすくめて笑った。
「ようこそ。ここが俺たちの拠点だ。」
三人が動きを止め、振り向く。
アマリリスの表情は怒りと苦痛に歪んでいた。
「ここは……俺の親の会社の倉庫だ。」
空気が凍りついた。キヨミは眉をひそめ、ミアは困惑した顔でアマリリスを見つめる。二人は言葉を探すが、何も出てこない。エルクスが小さく息を吐き、静かに言った。
「……中を見せてもいいか?」
その問いにアマリリスは首を横に振りかけたが、すぐに押し殺した声で答えた。
「構わない。ただ、俺は……」
彼の声が詰まる。耐えきれなくなったように、アマリリスは視線を逸らす。ミアが不安げにエルクスを見た。だが彼は軽く頷き、柔らかい声を向ける。
「ミア、キヨミ。先に中を見てこい。中は散らかってるだろうから、片付けが必要だろ。」
ミアは戸惑いながらも「う、うん」と返し、キヨミはアマリリスを一度だけ振り返ってから無言で頷き、二人で倉庫の扉を押し開け中に入っていった。残されたのはアマリリスとエルクスだけ。
夕暮れの光が二人を包む。しばらくの沈黙のあと、エルクスは低く問いかけた。
「……君がどれほど辛い人生を歩んできたかは分からないが……。一つだけ言える事は……俺らと似た境遇なんじゃないかって事だ。……話せるか?」
アマリリスの目がわずかに揺れた。口を閉ざそうとしたが、胸の奥に溜め込んできたものが今にも溢れそうだった。ここで黙っていれば、この場所はただの倉庫に見えるかもしれない。
だが、自分の中では違う。腐りきった過去が絡みつく、忌まわしい象徴なのだ。だから彼は、ゆっくりと言葉を繋いでいった。
「……あいつらは、俺を本当の子として扱わなかった。生みの親は俺を生まれてすぐ手放し、育ての親に押し付けた。理由は教えてもらえなかった。だが育ての親は俺を道具にした。勉強漬けにして、会社を継ぐための駒としてしか見なかった。少しでも成績が悪ければ殴り、蹴り、罵倒した。姉や兄も同じだった。親にえこひいきされて、俺を笑い者にし、時に暴力も振るった。誰も俺をイカとして見なかった。」
声が震えていた。だが抑えていた怒りと憎しみは、長年積もったものだ。止められるはずがなかった。
「俺は何度死にかけただろう。だがそれでも生きた。あいつらに殺されるのだけは…。笑いながら俺を殴った奴らの中で……!」
エルクスは目を伏せ、全てを受け入れる様に静かに話を聞いていた。アマリリスはさらに続ける。
「倉庫そのものは……直接手を加えられた場所じゃない。だがこれは奴らの象徴だ。俺を苦しめた親の会社の一部。このロゴを見ただけで、全ての声が蘇る。『お前は道具だ』『出来損ない』……何度も何度も繰り返された言葉が、まだ耳から離れない。」
拳を握る力が強くなる。指先が白くなるほどだった。アマリリスの瞳には夕日の赤が映り、その奥で燃えるような怒りと憎しみが渦を巻いていた。
「あいつらは行方不明になった。理由は知らないし、探すつもりもない。俺にとっては解放だった。だが……こうして目の前にその痕跡を突き付けられると、まだ過去が終わってない気がする。」
言葉の最後に、苦い吐息が混じった。沈黙が訪れた。エルクスは長く息を吐き、わずかに笑みを浮かべたが、それは冗談めいたものではなかった。
「……お前はよく、ここまで生きてこれたな。」
アマリリスは一瞬エルクスを睨んだ。しかしその瞳の奥には、侮蔑も憐れみもなかった。ただ静かな敬意と理解があった。だから彼は言葉を返さなかった。代わりに視線を逸らし、重く呟いた。
「俺は過去に縛られる気はない。だが、忘れることもできない。ここは……奴らの場所だった。だが、今はお前たちがいる。意味を変えることは、できるのかもしれない。」
エルクスは真剣な表情でうなずいた。
「できるさ。場所はイカだってタコだって、皆の心で変わる。ここはもうお前の地獄じゃない。俺たちの拠点だ。お前が一緒に戦ってくれるなら……ここは新しい意味を持つ。」
アマリリスは目を閉じ、深く息を吸った。胸の奥にまだ苦い感情は渦巻いている。だが少しだけ、重みが和らいだ気がした。
やがて目を開け、エルクスを見据える。その瞳には怒りも苦痛も残っていたが、それ以上に強い決意が宿っていた。
「……わかった。俺はここで戦う。過去に蹂躙された俺じゃなく、今を選んだ俺として。」
エルクスは小さく笑い、肩を叩いた。その仕草は軽いようで、重い意味を含んでいた。倉庫の扉の向こうではミアとキヨミの声が聞こえる。二人が片付けを始めているのだろう。アマリリスは最後にもう一度ロゴを見上げ、低く呟いた。
「これはもう、奴らのものじゃない。」
その言葉は、自分自身への宣言のように胸に刻み込まれるものだった。
薄暗い内部に、外の晴天から差し込む光が一本の筋となって床を照らす。埃が舞い、古い木箱や棚の隙間に散らばったままの金属片が淡く光を反射した。ここはかつてアマリリスの育ての親の会社の倉庫だった場所。
だが今ではすっかり様変わりし、不正者狩りの拠点として改造されていた。机の上には武器の手入れ道具や、食料の缶詰、寝袋や毛布が整然と並んでいる。生活感と戦場の匂いが同居するその光景に、アマリリスは無意識に奥歯を噛みしめた。胸の奥底から、過去の嫌な記憶がじわじわと這い出してくる。それでも顔には出さずに、ただ一歩踏み出す。
先に自分の持ち場に着いていたキヨミとミアがいる。彼女はすでに壁際に積まれた木箱に飛び乗り、まるで遊び場を見つけた子供のように笑っている。
「ミア、はしゃぎすぎ。そういう態度を見せたらエルクスに叱られるわよ。」
キヨミはため息混じりに声をかけながらも、どこか微笑ましそうに彼女を見ていた。エルクスはそんな二人の様子を背後で眺めつつ、ニヤリと笑って肩をすくめる。
「叱る?いやいや、楽しむときは楽しめばいいんだよ。どうせここも俺達以外は使わないんだからな。」
軽口を叩きながらも、彼の視線はちらりとアマリリスを見た。その視線に、アマリリスはわずかに顔を背ける。先程でもう過去の因縁は断ち切ったのだから、それ以上は触れなかった。
「さて、せっかくだし自己紹介でもしようか。ここからは一緒に行動する仲間ってことでな。」
エルクスが手を叩くと、倉庫の中の空気が少し引き締まった。ミアが真っ先に飛び降りてきて、胸を張って名乗る。
「フエノ・ミアです!でもみんなからはミアって呼ばれてます。不正者狩りの……まぁマスコット?って感じです!えへへっ。」
自分でマスコットと言ってしまうあたり、彼女らしい無邪気さだった。アマリリスはその言葉に驚いたように目を細めるが、同時に緊張感が少し和らぐのを感じた。
「背は低いけど、その分動きは速いし、近距離なら負けません!……たぶん!」
最後の一言にエルクスとキヨミが同時に苦笑した。続いてキヨミが一歩前に出る。
「カザキ・キヨミ。不正者狩りの一員よ。真面目担当って言われてるけど……まぁ、あながち間違いじゃないわね。仲間を守るのが一番の役割だと思ってる。」
彼女は控えめに、それでも力強く言葉を放つ。その真剣な目に、アマリリスは少し安心感を覚えた。エルクスはそんな彼女を横目で見ながら、最後に自分を紹介する番だと胸を張った。
「エルクス・M・コープ。不正者狩りのリーダーで、スナイパー担当。普段頼らない様に見えるかもしれないが、本気出すと結構頼れるんだぜ?」
茶化すように言いながらも、その目の奥には隠しきれない鋭さがあった。アマリリスは一瞬、その奥に深い孤独を見たような気がした。全員の自己紹介が終わると、自然と三人の視線がアマリリスへと向かう。沈黙の圧力に押され、アマリリスはゆっくりと息を吸った。
「……アマリリス。フルネームはない。俺はただ……戦って、生き残ってきただけだ。」
その声にはためらいが混じっていた。過去の傷がまだ癒えていないことを、誰よりも自分自身が理解していたからだ。しかし、三人はその言葉を否定することなく、静かに受け止めた。エルクスが腕を組み、軽く顎を上げる。
「なるほどな。じゃあ今度は質問タイムだ。俺たちはただの仲間じゃなくて、不正者を狩る集団だ。命を賭ける覚悟があるかどうか、ここで確かめさせてもらうぜ。」
その言葉に、倉庫の空気がさらに重くなる。アマリリスは拳を握りしめた。逃げるわけにはいかない。
「質問?」
低く返すと、エルクスはにやりと笑って近くにあるソファーに座って問いかける。
「じゃあまず、お前はなぜ戦う?ただ生き延びたいからか、それとも他に理由があるのか?」
アマリリスは即答できなかった。胸の奥で渦巻くのは怒りと憎しみ、そして失ったものへの悲しみ。その全てをどう言葉にするべきか迷った。しかしやがて、低い声で答える。
「……生き延びるためじゃない。誰も、これ以上理不尽に奪わせないために。」
その言葉に、エルクスの笑みが一瞬だけ消えた。代わりに真剣な眼差しでアマリリスを見据える。
「いい答えだな。じゃあ次だ。お前はどこまで戦える?限界がきても足掻けるか。お前は仲間を守るために自分を捨てられるか。」
アマリリスは言葉を飲み込み、一瞬だけ過去の暴力や罵倒の記憶がよぎった。それでも、はっきりと頷いた。
「……できる。」
その決意を込めた声に、キヨミが少し驚いたように目を見開く。ミアはにこにこと笑って
「やっぱり仲間だね!」
と無邪気に言った。最後にエルクスは、試すように問いを投げた。
「じゃあ……お前の覚悟はどれくらいだ。どんな絶望が待ってても、足を止めないって言えるか?」
アマリリスは深く息を吐き、まっすぐエルクスを見返した。
「……いえる。後ろで呻き声が聞こえても、前から他の雨が降り注いでも、その先にある元凶を潰すまで足を止める事は……俺の本能が許さない。」
静かだが確固たる声。その瞬間、エルクスは口の端を上げて笑った。
「よし、合格だ。それぐらいの覚悟がないとな。これでお前は正式に俺たちの仲間だ!」
キヨミが小さく頷き、ミアが歓声をあげる。倉庫の中に少しだけ明るい空気が戻った。
しかしアマリリスの胸の奥では、まだ苦い過去が疼いていた。この倉庫が自分にとって忌まわしい記憶の場所であることに変わりはない。
それでも、彼は仲間と共に進む道を選んだのだ。