「いらっしゃいませ」
集合場所から10分程度で着いた。全体的に灰色を基調とした、おしゃれな店。上品な人達が薪と青木を出迎える。青木はほぼこの店の常連客であるため、笑顔で会釈をする。
「青木様、いつも当店をご利用頂きありがとうございます。 お連れ様は初めてのご来店でしょうか。 初めてでしたら私がいくつか商品をご提案させて頂いてもよろしいでしょうか」
いかにもデパートなどで働いていそうな美しい女性が2人に話しかける。薪はそんなこともしてくれるのか、と関心していたが青木の返答は薪が思っていたのと180°違うものだった。
「ありがとうございます。 ですが既に私がこの人のイメージに合っていると思った物を厳選してあるので、それらを試させて頂きます」
既に厳選… 薪はその言葉を脳内で処理するのに時間がかかった。まさか自分のために香水をいくつか選んでくれていたとは想像もしていなかった。
「承知致しました。お困りの際は気軽に声をおかけください」
美人スタッフは笑顔で2人を一瞥したあと深く例をし、その場を去った。青木も爽やかな笑顔で会釈をしていた。
「青木…」
「…薪さんの好みに合うかは分からないですけどね! 一応、決めやすいかなって」
青木は人懐こい笑顔を向けた。そういうところだぞ。薪は言いたくなる。
「…ありがとう」
薪は微笑み返す。青木は いやいやいいんですよ、と笑った。
「さ、香水試してみましょう 薪さんが気に入ってくれるのはあるかなー!」
青木はやや大袈裟な調子で言った。
「はい、じゃあ1番目」
シュッ
青木がムエット(試香紙)に香水を吹きかけた。薪はすうっとその香りを嗅いだ。ジャスミンが混じったような、サボンの香り。
「…いい香りだ」
薪が言った。
「良かった!じゃあこの感じで2、3、4、5も行きますよ!」
青木はそう言い次々と薪に香水を試させた。ホワイトムスク、ラベンダーとオレンジブロッサム、ローズ、ナイトクイーン…
「この中で気に入った物はありましたか?」
青木が薪の顔を覗き込むようにして尋ねる。
「…2番目」
「ホワイトムスク、ですね!ほぼ、俺とニコイチです!」
青木はニカッと歯を見せて笑った。聞けば青木が使っていた香水はウッディムスクという香りらしい。薪はなんとなく更にその香水が気に入った気がした。そしてその香水を購入し、店を後にした。
「いやー良かった、薪さんがお気に入りの香水を見つけることが出来て!」
「助かった、ありがとう」
薪は青木をしっかりと見つめながら言った。その表情は普段はあまり見れない、柔らかいものだった。
シュッ
「?!」
唐突に音がし、手首に水気を感じた。見れば薪が青木の手首に先程の香水をかけていた。ふわりと爽やかで甘く、温かみのある香りが青木を包んだ。
「ま、薪さん なにしてるんですか」
「おすそ分けだ」
この人はこんな硬い言葉遣いなのにおすそわけとか言うんだ、と青木はついにやけてしまいそうになる。
「…凄く、いい香り。 薪さんらしい」
青木は目を閉じて言った。 特定の匂いが、それに結びつく感情や記憶を呼び起こす現象はプルースト効果、というらしい。この人が帰ってからも自分を思い出すように、この時間を思い出してくれるように。薪は密かに思った。
「じゃあ俺は…」
と青木が言った瞬間、薪は心地よい温かさに包まれた。青木が薪を抱きしめていたのだ。
「な、っ」
「…洋服につけてきたので。 少しは薪さんも同じ香りですよ」
青木の体温が暖かい。このままずっと、時間が止まればいい。薪はそう思った。
「交換こですね」
と子供のように無邪気な笑顔で言い、青木はパッと薪から離れた。言われてみれば、薪は微かに自分から青木の匂いがした。自分の方がよっぽど忘れられないな、と薪は思った。
「…じゃあ僕はこの後予定があるから失礼する」
薪はいかにも冷静を装っている口調で言った。
「そうでした! …では、また今度第九で!」
“また今度第九で”その言葉は未来を約束されているような言葉で、薪は心地が良かった。またあいつと仕事が出来るんだ、などと思った。
「ああ」
そう言うと薪はくるっと青木から背を向けてその場を後にした。こんなに、誰かと一緒に居て幸せな休日は久しぶりかもしれないと薪は思った。寝れば悪夢しかみない状態の薪はにとってそれはとても良いことだった。
ガチャ
薪は予定を終え、自宅に帰ってきた。薪は一通り手洗いやうがいを済ませ、20時近かったため風呂に入ろうと思った。いつも通りまずは服を脱いだ。その瞬間、ドキ、と心臓が鳴った。それは午後に抱きしめられつけられた青木の匂いが微かにしたからだった。
「…青木」
薪の青木を呼ぶ声は、脱衣場によく響いた。
青木は久しぶりの休日、ということでテレビ番組をぼうっと見ていた。何気ない、幸せな時間。青木は買ってきたばかりのアルコールが低い酒に手を伸ばした。 その瞬間、ふわり、と嗅いだことのある香りがした。
「…薪さん」
青木は思わず呟く。そうだ、薪が自分の手首につけてくれたんだっけと午後を思い出す。いつもより嬉しそうな、薪の表情。
「ふ」
思い出すと、思わず微笑んだ。楽しかったなぁ。青木はプシュッと酒の缶を開け、口に流し込んだ。その酒はいつもよりも美味しい気がした。
2人はこの時ほぼ同じことを考えていた。
青木に 薪さんに
少しでも近づけたかな、と。
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