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本当になにがなんだか分からなかった。
自分でも「なぜこうなった?」と思う出来事が立て続けに起きたのだ。
ーー驚くことに、今私は亮祐常務とバーのカウンターに並んで腰かけている。
最初の想定外は、皇居ランだ。
前日の残業で疲れ切っていた私は、この週末は家でゆっくり過ごそうと思っていた。
ところが、残業の時に常務と2人きりになり、心が激しく掻き乱されことで、寝ても覚めてもグルグル考えてしまうのだ。
常務と春樹のそっくりな顔が交互に頭にフラッシュバックし、混乱の極みだった。
「これじゃいけない」と思い、身体を動かして気分転換をしようと、以前友人と行って楽しかった皇居ランに行くことにしたのだ。
まさかそこで私の混乱の原因である常務に遭遇してしまうとは‥‥!
声をかけられた時は、ひっくり返るかと思うくらい本当に驚いた。
しかも、ランニングウェアに身を包んだ、いつもと全く違う完全にプライベートな姿だし、汗を流す姿は爽やかだし、目のやり場に困る。
緊張を紛らわすために無駄に喋ってしまったように思う。
そして、ランニングの後に飲みに行こうと、半ば無理やり誘われたのも想定外だ。
昨日の残業終わりのお誘いを断ったことや、私にこの後予定がないことを次々に挙げられて、気付いたら頷いていた。
常務の強引な一面を初めて見た気がする。
この人は仕事でもこうやって相手の逃げ場を無くしていきながら、契約を勝ち取ってるのだろうなぁと思った。
飲みに行くことを了承したものの、こんな完全無欠な男性と出掛けるなら、無駄な努力だとしても少しはメイクや服装をちゃんと整えさせて欲しいと焦った私は、なんとか常務に交渉して猶予の時間をもぎ取ることに成功。
連絡先を交換し、待ち合わせ時間と場所だけを決めて一度皇居で別れた。
皇居近くのランニングステーションでシャワーを浴び、急いで自宅へ帰る。
「一体どんな服装をすれば良いのだろう‥‥?」と自宅のクローゼットの前で頭を悩ませ、無難に綺麗めなワンピースを選んだ。
秋っぽいこっくりとしたカーキグリーン色のシフォン素材の長袖ワンピースで、ウエストマークした下はサラリと揺れるプリーツスカートになっている。
これならどんなお店に行くことになっても、とりあえずは大丈夫だろう。
あとはメイクを施し、アクセサリーを付け、愛用の香水を軽くまとったら完成だ。
気付けば、そろそろ家を出ないといけない時間になっていた。
私は小さいショルダーバッグを握り、慌てて家を飛び出した。
待ち合わせ場所は、都内中心部にある百貨店の前だった。
地下鉄に乗り向かっていると、途中で常務からLINEでメッセージが届いた。
“到着したから百貨店の入り口近くで待っている”とのことだった。
自分のスマホに常務の連絡先が入っているなんて、未だに信じられない。
この連絡先がもし流出したらとんでもないことになりそうだ。
百貨店の前に着くと、多くの人で賑わっているのに一瞬で常務がどこにいるかが分かった。
だって目立っていたから。
長身だから普通の人よりも頭ひとつくらい突き抜けているし、佇まいが明らかに違う。
それにその整った容姿によって周囲の視線を一身に集めていた。
待ち合わせの相手が私だなんて申し訳なくなってくる。
声をかけるのを躊躇していると、常務の方が気づいてくれて、お互いの目が合った。
少し目元を緩めて私の方へと向かってきてくれる。
周囲の人々の視線も私へと注がれるのを肌で感じた。
「良かった、本当に来てくれた。家に帰ったらやっぱり辞めとこうって気が変わって逃げられるかと思ったよ」
開口一番そんなふうに冗談っぽい口調で言われる。
「逃げませんよ。行くって約束したじゃないですか。すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「そうだね。昨日から待ってたから長かったな」
「‥‥‥」
昨日お誘い頂いて断ったことを言っているのだろう。
なんだかちょっとイジワルだ。
「ごめんごめん、冗談だよ。そんなに待ってない。行きたい店はここからすぐだから、歩いて向おう。こっち」
「あ、はい」
先導してくれる常務を私も追いかけた。
大通りを一本折れると細い小道があり、そこを少し進むとお店があった。
外観は、知る人ぞ知るオシャレな隠れ家のような感じだ。
常務が行くお店だから、高層階にあるようなラグジュアリーなところかと想像していたので、ちょっとだけ意外だった。
「ここなんだけど、意外だった?」
私の思考を読み取るかのように常務が少し笑って言った。
「高校の同級生がやってる店なんだ。食事もお酒も美味しいし、売上にも貢献してやりたいしね。並木さんも気兼ねなく好きなだけ飲み食いして」
「あ、はい。ありがとうございます」
そういって、常務は入り口のドアを開てくれ、私が先に入るよう誘導してくれる。
レディースファーストが身体に染み込んでいるようで、海外暮らしが長いことが滲み出ていた。
「いらっしゃい」
「亮祐、待ってたぞ。カウンター空けてある」
中に入ると、肩幅の広いがたいの良い男性が出迎えてくれた。
そして店内の奥の方にあるカウンターに案内してくれる。
彼がお店のオーナーで常務の友人なのだろう。
土曜日の夜とあって、お酒を楽しむ大人の男女で店内は賑わっていている。
会話の邪魔にならない心地良いボリュームでBGMが流れていて、ゆったりとした落ち着く空間のお店だ。
カウンターに座ると、すぐに常務の友人であるオーナーが、ニマニマした笑顔を浮かべながら近寄ってきて、おしぼりを手渡してくれた。
「亮祐、紹介してくれよ」
「分かった分かった。並木さん、さっき話したとおり、こいつが俺の友人でここのオーナーの青木洋一。で、こちらが同じ会社の並木百合さん」
「はじめまして」
「こちらこそ。お会いできて嬉しいです。いや~めちゃくちゃ美人さんだね」
青木さんはニッコリ笑いながら、私を興味深そうな目をして繁々と眺めている。
なんとなく気恥ずかしくて、私は硬い笑顔を向けた。
「俺はとりあえずビールにするけど、並木さんは何飲む?」
「じゃあ私も同じもので」
「了解。洋一、生2つね」
「はいよ!亮祐が女性を連れてくるなんて初めてだから記念して、これはサービスにしといてやるよ」
「それはどーも」
なんだか今サラッとすごいことを言われた気がする。
女性を連れてくるのは初めて?この常に女性に囲まれている常務が??
意外すぎて、思わず常務の顔を凝視してしまった。
「なに?女性を連れてくるのが初めてなのが意外?」
常務はまたしても私の頭の中を読んだかのようだ。
「あ、いえ、はい」
「“いいえ” か “はい” かどっちか分からない返事だね。まぁ、洋一の言う通りだよ。並木さんを連れてきたのが初めて」
「そうなんですか。えっと、それは光栄です‥‥?」
「ふっ、なにそれ」
私のトンチンカンな返事に、常務が小さく吹き出した。
(こんな笑い方もする人なんだ‥‥)
その笑顔は会社でのクールな常務が見せることのない、あまりにも自然な少年のような笑顔だった。
そしてそれは、そっくりな外見の春樹とも違う笑顔だった。
ビールを飲み干すと、常務がオーダーした赤ワインを私もいただく。
「あ、これすごく飲みやすくて美味しいです!」
「そう、それなら良かった。あんまり赤は飲まないって言ってたからライトなものを選んだんだ」
「私に合わせてくださったんですか?常務はもっと他に飲みたいものがあったと思うんですけど、良かったんですか?」
「もちろん。俺は並木さんと美味しくお酒が飲めれば何でもいいよ」
「‥‥そ、それは光栄です‥‥?」
「ふっ」
どうしていいか分からず困惑ぎみに私が答えると、またしても常務は楽しそうに小さく笑う。
私は恥ずかしくなって顔を背けた。
常務の眼差しは面白いものを見るかのようだ。
(絶対ただ面白がってるだけだ)
「常務、私をからかって楽しんでます?」
「ごめん、ごめん。反応が面白くてついね」
ちょっと恨めしげな目を向けて抗議すると、子供をあやすような調子で宥められた。
私は居た堪れなくって、グラスに入った赤ワインをグイッと飲み干す。
アルコールが回り、身体が火照った。
その後は、お酒のおかげでだんだん緊張もほぐれてきて、食べたり飲んだりしながら、仕事のことを話したり、常務からアメリカでの生活や青木さんとのエピソードなどを聞いたり、思いの外楽しい時間を過ごした。
ただ、そんなに量は飲んでいないのに、いつの間にか私は酔っぱらってしまったようだ。
もともと今日は緊張でいつもより張り詰めていたから、酔いが回るのが早かったのかもしれない。
心地よい浮遊感が訪れ、だんだんと瞼が重くなってきて、常務が何か言っているけどよく分からなかった。
それから後のことはよく覚えていない。
ーー次に意識が覚醒したのは、日曜の朝、見慣れぬ部屋の一室でだった。