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【フィルモア領・禁忌の湖】
フィルモア歴920年。かつて人間が決して足を踏み入れてはならないとされた、深い森の奥に佇むカルデラ湖。そこは「神々の寝床」と恐れられ、切り立つ巨岩が人々を拒み続けてきた。しかし、文明開化に伴う土木技術の躍進は、その断崖絶壁をも容易に穿ち、開発の波をもたらす。
湖畔には壮麗なホテルや私邸が建ち並び、いつしかそこは「パジャニリゾート」と名付けられ、格式高い避暑地へと変貌を遂げていた。
【パジャニリゾート・高級別荘街】
切り立った地形ゆえに水辺はごく僅かだが、そこには息をのむほど美しい砂浜が存在する。まるで銀の鱗を砕いて敷き詰めたかのように煌めく純白の砂は、南国の珊瑚砂とは一線を画す輝きを放ち、人々からは畏敬を込めて「神々の玄関」と称されていた。
打ち寄せる穏やかなさざ波に面したこの地は、否応なしに超一等地となる。少々稼ぎが良い程度の成金風情がここに別荘を構えるなど至難の業。相応の身分と富を併せ持つ者でなければ、杭の一本打つことすら許されない最高級の聖域であった……。
【スペンス家・別荘】
「奥様、湖の水は大変冷とうございます。入水されるのであれば、準備運動と神への祈りをお忘れなきよう!」
蒸し暑い夏の午後。純白の砂浜を進む水着姿の主を、同じく純白の日傘を携えた初老の執事が息を切らせて追いかけていた。しかし、容赦ない酷暑から一刻も早く逃れたい若奥様は、弾むような足取りを決して緩めようとはしない。
「こう見えても泳ぎは得意ですのよ。それに、私にはアングィス神の加護がありますもの。大丈夫ですわ」
辺境伯夫人であるフィービー・スペンス・フィルモアは、透き通るような白皙の肌に、真夏の太陽を浴びて眩い輝きを放つ、艶やかな金髪。そして漆黒の深海を思わせる青眼を持つ、絵画から抜け出たように若く美しい女性だ。今春、夫であるレノックス・スペンス・フィルモア辺境伯と結ばれたばかりの彼女は、新婚初となるバカンスをこの地で満喫していた。
心配そうに見守る執事を背に、フィービーは細い紐で編まれた真っ白なサンダルを脱ぎ捨てる。そして、純白の砂の上にそっと両膝を突くと、祈りを捧げるようにして胸元のネックレスを手に取った。剣に蛇が巻き付いた「アングィス神」の聖印にそっと唇を寄せ、至高のキスを捧げる。
「フィービー奥様、どうか、どうかお気をつけくださいまし……!」
懇願するような執事の声を置き去りにして、立ち上がった彼女は鏡のように清らかな湖面へと、その白い肢体を滑り込ませた。
「ああ……最高ね。この冷たさ、生き返るようだわ」
身を沈めた途端、きゅっと張り詰めた冷気が全身を包み込み、肌にまとわりついていた不快な熱をまたたく間に洗い流していく。心地よさに吐息を漏らしたフィービーは、水面にぷかりと仰向けに浮かぶと、遥か先に見える小さな島を目指して、ゆったりと優雅に泳ぎ始めた。
【水中宮殿サーペントの居城・大蛇の間】
フィルモア王国が産声を上げる遥か以前――太古の昔よりこの惑星を支配している絶対神がいる。その名は……。
「サーペント」。
生きとし生けるものに叡智を授け、導き、文明の発展に寄与してきたその存在は、人間たちから「神」として崇め奉られてきた。
陽光すら届かぬ湖の最奥、深淵の底に佇む水中宮殿は、神々の棲家の一つである。静寂をこよなく愛する主は、数ある領地の中でも、この仄暗く平穏に満ちた場所をとりわけ好んで根城にしていた。
水の妖精「サーペント様、湖に人間が訪れ、汚れが目立つようになりました。どうかあの下等な異物を排除してください!」
半透明の透き通るような姿は、まさに御伽話に出てくる妖精そのもの。しかし、その可憐な外見に反し、彼らが数匹集まり力を行使すれば、たちまち大規模な水害を引き起こすほどの凄まじい精霊力を秘めている。
万物に必要な水を司るその妖精は、大蛇の忠実なる使徒であり、人間にとっては畏怖すべき自然神であった。しかし、聖域へ土足で踏み込む人間を放置している現状がどうしても我慢ならず、玉座に向かってプンスカと怒りを顕にしていた。
――その訴えを静かに受け止める、世界の守護者サーペント。
その身姿は巨大な蛇、いや、王冠のように生えた角を見るに、神々しい「龍」と表現した方が適切であろう。玉座に横たわる巨体は神秘的な玉虫色の鱗に覆われ、すべてを平伏させる圧倒的な威厳を放っている。
サーペント「そう申すな。我が育てし子供たちだ、大目に見てやってくれ。それに、アングィスが対応中だ」
地鳴りのように響く声とは裏腹に、その言葉はどこまでも穏やかだった。すべてを滅ぼせる力を持つ絶対的王者(引きこもり)は、人間の身勝手な行いに対して、意外にも深い寛容さを持ち合わせていた。
アングィス「サーペント様、人間は無謀にもこの湖へ足繁く通い、啓示を授けてもその数は増すばかりでございます」
苦言を申し出たのは、抜群の攻撃力を誇り「槍のアングィス」と呼ばれる、サーペントの右腕たる眷属だ。青い鱗と威圧的な眼光を持つ彼にとって、聖域を汚す人間は煩わしい羽虫に過ぎない。ひとたび命令が下れば、湖畔のリゾートなど瞬く間に塵にできる男だ。
「人間たちの行いが無礼で、戒めをせねばならないと申すのか、アングィス」
「左様でございます。ここは一つ、決して近づいてはならない絶対領域だと叩き込むのが、唯一の解決策と考えております」
片膝をつき、最敬礼の姿勢で忠誠を誓うアングィスは、そう言って静かに手元の水鏡を指さした。揺れる水面には、何も知らずに優雅に泳ぐ若き辺境伯夫人――フィービーの姿が鮮明に映し出されている。
「サーペント様、まずはこの女を血祭りに上げ、ここが禁忌であることを下界の愚民どもに教えねばなりませぬ」
「成るほど仕方あるまい。ではあの若い女を血祭りに上げて、ここが禁忌であることを教えねばならぬな」
武勇だけでなく知略(?)にも優れた右腕の容赦のない進言。それがかつて己の出した「人々に信仰心を取り戻させよ」という指示に基づいていると気づいたサーペントは、「仕方あるまい」と承知の意を示すようにトグロを解き、厳つい頭をゆっくりと持ち上げた。湖底の王が、ついに動き出す。
【水中宮殿・大広間】
ゆっくりと優雅に背泳ぎをしていたフィービーは、生暖かな水流を感じ、「まもなく島に辿り着くかしら」と思った瞬間、突如として真っ白な光の世界へと引き込まれた。同時に急速に遠のく意識。
次に目を覚ましたとき、彼女は薄暗い見知らぬ空間のなかで、フワリと宙に浮いていた。
「――な、なんで私が浮いているの? ああもう、何よこれ、早く地面に立ちたいわ!」
混乱から落ち着きを取り戻し、床に立ちたいと強く願う。すると、その意思に反応するかのように、足の裏がしっとりとした床に触れた。この摩訶不思議な現象に、フィービーは少し前に社交界で流行った『宇宙人は本当に存在した』という奇書を思い出し、「この人外の力は、人間の仕業ではないわね」とあたりをつけ始める。
(――ンッ! なによ、この生臭い匂いは……)
足元から伝わるひんやりとした冷気が、彼女の頭をさらに冷静にさせた。周囲を見渡せば、そこは石造りの大客間のように広大な空間。しかし、そこへ突如として流れ込んできた強烈な生臭さが鼻腔を刺激し、思わず美貌を顰める。
「……嘘、大蛇……もしかしなくても神様なの」
「我が居城の真上を泳ぐなど言語道断。人間の娘よ、お前は死してその罪を償い、下界の信仰心を呼び覚ますための生贄となるのだ」
背後から迫る、圧倒的な質量と禍々しい気配。恐る恐る身を捩ったフィービーの視界に飛び込んできたのは、厳つく巨大な蛇の頭部だった。チロチロと細長く蠢く赤い舌、肉を容易く引き裂くであろう鋭利な牙。直に「死」を突きつけられた瞬間、恐怖のあまり全身の血が凍りつく。
「貴方様は……絶対神サーペント様とお見受けいたします。私は、アングィス様を熱心に崇拝する教徒にございます! どうか、どうかお慈悲を……!」
「……ほう、我を崇拝する教徒か。だがアングィス、容赦する必要はない。さあ、平伏し、我が刃を受けるがよい!」
状況は最悪。狂暴かつ巨大な二匹の神獣に睨まれれば、並の人間なら失神するか、床に額を擦りつけて命乞いをするのが道理だ。しかし――フィービーは「殺す」と宣告されてもなお、ビビるどころか、その凛とした美しい表情を崩さずに神々と向き合っていた。
(ちょっと待って。熱心な教徒の私をいきなり殺すなんて、酷すぎない? 人の話を全く聞かないし……もしかしてこの二柱、かなりの『駄目神』なのかしら……?)
強気というか、信心深いからこそ生じた純粋な疑問だった。フィービーは頭の中で、「教徒の自分を見せしめに殺せば、かえって他の信者たちの信仰心が冷え切って逆効果になるわ。この神様たち、思考が安直すぎる!」と、早くも神々の知力の力量の見極めに入っていた。
「サーペント様、私を見せしめにすれば更に信仰心が薄まり、逆効果になると思われます」
「我に意見するのか、許した覚えはない」
無礼だと断言したサーペントが毒を与えれば、瞬きする間に即死、牙なら八つ裂きになり、赤い舌で巻けば千切れてしまう。
弱すぎる人間からの進言に戸惑いを覚えたが、貴族社会を生き抜いたフィービーにとって、その程度の理不尽には慣れていた。冷徹な夫や、腹黒い社交界の重鎮たちに比べれば、感情が丸見えな大蛇の脅しなど可愛いものだ。
「意見など滅相もございません。熱心な教徒として、神々のご威光がこれ以上傷つくのを憂いているのです」
「……傷つくだと?」
ピクリ、とサーペントの巨大な眉が動く。隣で槍を構えていたアングィスも、怪訝そうに目を細めた。
フィービーは濡れた金髪を優雅にかき上げ、冷たい床の上で一歩も引かずに微笑む。
「ええ。想像してみてくださいませ。もし私がここで命を落とせば、私の夫である辺境伯や、このパジャニリゾートを開発した人間たちはどう思うでしょうか? 『アングィス神を熱心に信仰し、神聖な砂浜で毎日祈りを捧げていた信心深い妻が、理由もなく湖の怪物に食い殺された』――そう噂になりますわ」
「怪、怪物だと!? 我らは神だぞ!」
アングィスが青い鱗を逆立てて怒鳴るが、フィービーは「あら失礼」と口元を隠してクスクスと笑う。
「今の人間は、姿を見せない神よりも、目に見える『悲劇』を信じるのです。熱心な信者を守るどころか生贄にする神など、ただの凶暴な魔物と変わりありません。結果、人間たちは恐れをなして湖に近づかなくなるでしょう。……ですがそれは『敬意』ではなく、ただの『忌避』です。お祈りも、お布施も、神殿への寄付もすべて途絶え、貴方様方の存在は完全に忘れ去られる。――それでもよろしいのですか?」
「ぐっ……」
「それは……」
あまりにも理路整然とした「最悪の未来予測」を突きつけられ、二柱の巨躯が同時に硬直する。
完璧な正論。いや、貴族仕込みの完璧な「脅迫」であった。
「……アングィスよ、こ奴の申すことも一理あるのではないか?」
「は、はあ……。しかしサーペント様、ここで引き下がっては神の威厳が……」
(ふふ、やっぱりチョロいわね、この駄目神たち)
巨体を寄せ合ってコソコソと相談を始めた絶対神と右腕を見つめながら、フィービーは勝利を確信し、心の中で不敵な笑みを浮かべるのだった――。
コメント
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ああ、なるほど!! フィービーさん、めちゃくちゃ頭キレるじゃん!!! この圧迫感ヤバい空間で、絶対神相手に「それやると逆効果ですよ?」って理詰めで詰めてくの、最高にクールだったわ。しかも内心で「駄目神」呼ばわりしてるの笑った(笑)。美貌だけでなく知略もある辺境伯夫人、めっちゃ好き。
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