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千秋さんはいつもストレートに表現してくれる。付き合いたいから付き合おうって、好きだから好きだって。
勇気が出なくてなかなか私が言葉にできないことを彼は簡単に言葉にしてくれる。
以前はそれが軽いと思っていたけれど、今ではそれが私にとって救いになっていて、同時に私の背中を押してくれる。
だから、私も今の感情をストレートに伝えることにした。
「わ、私も好きなんです……いつの間にか、あなたのこと、好きになってました」
こんな形で想いを告げるとは思わなかったけど、それでも伝えられるときに気持ちを伝えたかった。だけど、不安もあることをきちんと言いたい。
「でも、誰かを好きになるのが怖くて……信じたいのに、信じる勇気がなくて……ほんとに、こんな自分が嫌でたまらないんですけど」
自分でも自己肯定感の低さに嫌気がさしてしまうほどだ。
こんな話を聞いて嫌われてしまわないか心配だったけど、千秋さんは穏やかな口調で冷静に言った。
「無理もないよ。君の今までの境遇では人間不信にもなるだろう」
その言葉を聞いて、涙が出そうになった。けれど、今抱いている強い気持ちだけは伝えたい。
「私、千秋さんのことを信じたい。だからその、付き合うっていう話なんですけど……わっ!」
話している途中で千秋さんが私に抱きついてきた。力強い腕の感触とふわっとした柑橘系の香水。懐かしい彼の匂いに胸の奥がぎゅっと締めつけられて、泣きたくなった。
私はもう彼に対して拒絶反応は起こらなかった。それどころか、彼の体温があまりに愛おしくて、思わず彼の背中に腕を回してぎゅっと抱きついた。
すると、千秋さんはハッとしたように顔を離し、いきなり謝ってきた。
「ごめん。勝手に触って」
「え? いいえ。大丈夫です」
「そうか、よかった」
千秋さんは安堵のため息を洩らした。
以前に私が拒絶してしまったことを彼は気にしているのかもしれない。
「ごめんなさい。前に拒否してしまったのには、理由があって……」
乃愛との関係を聞こうかどうか迷ったけど、それを知って何になるんだろう。乃愛はもう捕まってしまったし、彼はあのとき誰とも付き合っているわけではなかったのだから、私がいちいち詮索するのはおかしいかもしれない。
でも、気になる……!
やっぱり聞いてみようかな。
「あ、あの……」
「ん? ああ、もしかして抱きしめていいってこと?」
「えっ……あ、はい。いいですよ」
「やった」
千秋さんは子どもみたいに無邪気な声を上げ、再び私をぎゅっと抱きしめた。ずっとこうしたかった。久しぶりの彼のぬくもり。
ちゃんと彼のことを好きだと気づいてから初めてのハグ。最高に気持ちいい。
なんて感動している場合ではなかった!
「千秋さん、訊きたいことがあるんです」
「えーもうちょっとこうしていたい」
千秋さんは私を抱きしめたまま動かず、子どもみたいに甘えた声を出した。
この人ってこんな人だっけ?
ギャップすごいんですけど……。
私はなんだかむず痒くなってしまって、ゆっくり右手を伸ばすと彼の髪をくしゃくしゃと撫でた。すると彼は私をじっと見下ろして、顔を近づけてきた。
たぶんこれはキスをするんだなって思ったけど、それに流される前に私はどうしても引っかかっていることをクリアにしたかった。
「乃愛と千秋さんは知り合いだったんですか?」
はっきりと訊いてしまった。
すると彼はゆっくり私から離れて困惑の表情になった。頭をかきながら目線をそらし、言いにくそうに話す。
「知り合いというか、理由があって」
「はい」
私はドキドキしながら続きを聞いた。どんな理由があっても受けとめよう。たとえ千秋さんが乃愛と関係を持っていたとしても、もう過去のことだから。
少しの沈黙のあと、千秋さんは私の肩に手を乗せて神妙な面持ちで言った。
「今から話すことはぜんぶ真実だから。聞いてもらえる?」
私は緊張しながら彼の目を見て静かにうなずいた。
千秋さんはこれまでのことをすべて打ち明けてくれた。
まず私との再会が偶然ではなかったこと、優斗の不貞の事実を知っていて私を助けてくれたこと、乃愛が美玲に命じられて私に嫌がらせをしていたこと、美玲の企みもすべて知っていてそのために動いてくれていたこと。
そして、乃愛と関係はなかったのだとはっきり言った。
それだけで充分だったのに、彼は補足した。
「遊びで誰かとそういう関係になったことはないよ。これでも貞操観念は高いから」
「……それ、女性が言うセリフです」
「言ってみたかったんだよ!」
わりと真剣な顔で話す彼の表情を見たら急におかしくなってきた。
そうだ。千秋さんは私が落ち込んでいたときに、こうやって無邪気な態度で私を笑わせてくれた。
本当に、一緒にいて楽しくて心が軽くなる。彼といると笑顔になれる。
「でも、私とは付き合ってもないのに簡単に関係持ちましたよね?」
ちょっと意地悪な言い方だったかなと思ったけど、彼は穏やかな表情で答えた。
「5年も片想いした本気の相手がようやく目の前に来てくれたんだ。これ以上自分を抑えるのは無理だったよ」
千秋さんは手を伸ばして私の髪をさらりと撫でた。
私は嬉しさと気恥ずかしさでまともに彼の目を見ることができなかったけど、彼が触れる指先の感触が心地よくてドキドキした。
「私、本当に不思議なんです。そこまで想ってもらえるほどの人間じゃないのに、こんな私にどうしてそこまでって思うんです」
嬉しくて幸せなのに、私はどうしても気になっていることを口にした。すると千秋さんは一瞬目を丸くして、それから微笑んで答えてくれた。
「なるほど。じゃあ、君は自分のことがまったく理解できていないということだ。だって俺は君のことを一番理解しているからね」
「え……?」
「最初に出会ったときは、他人に気遣いができるのにそっけない人という印象だった。次に会ったときは笑顔のいい子だという印象だった」
「そうなんですか」
私って本当に千秋さんが眼中になかったのだと思うとなんだか申し訳なくなってきた。
「仕事をしている君の姿を何度か見かけた。責任感のある子だなと思ったよ」
「見られていたの?」
私がじっと見つめると彼は肩をすくめて言った。
「好きな子を遠くから見ていたいと思う淡い恋心だよ」
「思春期の男子みたい」
「そう、まさにそれ」
千秋さんはくしゃりと破顔して言った。
そんな彼を見て、私はふと優斗のことを思い出した。彼だったら私がこんな発言をしたら烈火のごとく怒り狂っていただろう。
千秋さんとは会話の波長が合うのか、それとも彼が懐の深い人だからなのか、話していて本当に気が楽で心地いい。
「君が前の彼氏と俺の知り合いの店に来ていたときは、少し可哀想だった。彼は酔った勢いで暴言を吐いて周囲に迷惑をかけているのを君が必死に謝っていた」
「そんなことまで見ていたの?」
「本当はあのとき声をかけてやりたかった。彼の暴走を止めて、君を助けたかった。でも、俺が出ていったら君は店を出たあと理不尽に彼に責められるかもしれない」
そこまで知られていたなんて。でも、たしかにもしそのとき千秋さんがあいだに入っていたら、優斗は激怒していただろう。その場では何も言わず、家に帰って私に八つ当たりしていたことは容易に想像できる。
「何もできずに見ているだけだった。そんな自分に腹が立った」
「そんな……」
そこまで考えてくれていたなんて、申し訳ないを通り越して涙が出てくる。
私が俯いたせいか、千秋さんが少し不安げに顔を近づけてきた。
「もしかして幻滅した?」
「ううん。少しびっくりしたけど、嬉しいです」
「そうか、よかった。ストーカー呼ばわりされたらどうしようかと思った」
「いや、ストーカーですよね」
私がド直球で返したら、彼は自分の額を手で叩いて苦笑した。
「大差ない。でも変なことはしていないし、紗那を傷つけるようなことは絶対していない……と思う」
「なんで最後自信なさげなんですか」
私がくすっと笑うと、千秋さんは私の肩をそっと抱いて言った。
「自信ないよ。君のことに関しては本当に自信ない。君に嫌われたら生きていけないから」
なんだか大袈裟な気もするけど、彼が何度も私に伝えてくれる5年間のことを思うと冗談で返すべきではないと思った。
「私はそれほど出来た人間ではないですけど、嬉しいです」
控えめにそう言うと、彼は少し神妙な面持ちになった。そして私に訊ねた。
「育った環境のせいか、君は自分が我慢すればすべて丸く収まると思っているだろう?」
「……はい」
「そういうの、もうやめていいよ」
「え?」
「苦しいときは逃げていいし、つらいときは誰かに頼ればいい。悲しいときは誰かに甘えていいんだ」
千秋さんは私の手を握って穏やかに笑って続けた。
「できれば、甘える相手は俺だけにしてほしいけど」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で張りつめていたものが一気に壊れていく気がした。すべての苦しみから逃れてこの地へ来て少し冷静になれた気になっていたけど、ぜんぜん違った。
千秋さんはそういう私の弱い部分を見抜いて、それを責めるでもなく優しく包み込んでくれる。
私はきっとこういう人に出会いたかったんだ。
それは恋人とは限らない。親かもしれないし友人かもしれない。けれど、私にはそんな人はいなかった。
千秋さんだけが私を本当の意味で理解してくれた。
「……じゃあ今、甘えて、いいですか?」
私は涙を堪え、彼を見つめて訊いた。
すると彼はそのまま私を抱きしめてくれた。
千秋さんは私を抱きしめながら大きな手で私の髪を撫でてくれた。その感触はずっと私がほしかったもので、今その腕の中にいるんだと思うと安心感と喜びで泣きたくなった。
だけど、なぜか彼のほうが嬉しそうに言った。
「あー、幸せ」
「ふふっ、女の子みたいな言い方」
「こうして堂々とハグしたかったんだよ」
「私も」
離れているあいだ、この感触が懐かしくて時折無性に切なくなった。理屈では語ることのできない気持ちだ。
変な理由を並べ立てていないで、素直に彼の懐に飛び込んでおけばよかったと何度も思った。体だけの関係になって付き合わないなんてそっちのほうがおかしいのに、何を頑なになっていたんだろうって後悔した。
今はもう後悔したくないから、甘えでも何でもいい。今の気持ちを素直に言いたい。
「あなたにこうして触れたかった」
私がぎゅうっと彼の胸に顔を押しつけると、彼は私の髪をくしゃっと撫でた。
夜が深くなっていき、星がたくさん出ていたけど、私の意識は千秋さんにしかなくて、それ以外のものは見えなかった。
誰もいない丘の上で、何も言わずに、ただ抱き合って口づけを交わした。
ほんの軽いキスだけど、それでも今までで一番ドキドキして、たぶん一生忘れないだろう瞬間だった。