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私は千秋さんと一緒に帰ることになり、急なことでバタバタしてしまった。近所の人たちは「もう帰るのー?」と寂しがってくれたけど、おじいちゃんは相変わらずあまり反応がなかった。
千秋さんが迎えに来てくれて私が荷物を持って出ようとしたとき、おじいちゃんは玄関先まで見送ってくれた。
私は頭を下げて礼を言った。
「突然だったのに私を置いてくれてありがとう。お世話になりました」
すると、おじいちゃんは仏頂面でぼそりと言った。
「まったくだ。死にそうなツラして来やがって」
「ごめんね」
「紗那」
「うん?」
「次はもう少しまともな顔で来い」
その言葉に一瞬戸惑ったけど、すぐに意味がわかって私は笑顔で返した。
「うん、ありがとう」
おじいちゃんは千秋さんをちらりと見て軽く会釈をした。
すると千秋さんは満面の笑みを返した。
タクシーに乗って最寄り駅まで行く途中、私は千秋さんにお礼と補足をした。
「おじいちゃん、不愛想なんですけど、本当は優しいんです」
「わかるよ。君が緊急連絡先を実家ではなくここにしていたのはおじいさんを信頼しているからだろう」
「はい」
「信頼できる家族がひとりでもいてよかった」
千秋さんはまるで安堵したように微笑んで、私は黙ってうなずいた。
私は千秋さんに幼い頃のことや自分がされて嬉しかったことなどを話した。今までは家族の愚痴ばかりだったけれど、当然いいこともあったから。
「私の名前、お父さんが付けてくれたんですけど、漢字を当てたのはおじいちゃんなんです。しなやかで美しい豊かな人生を、っていう意味だって父は言ってましたけど」
「いい名前だね」
私が笑顔でうなずくと、千秋さんは微笑んで言った。
「君はちゃんと家族から愛されているんだよ」
千秋さんのその言葉は私にとって意外なものだった。だけど、今なら少しそんなふうに思える気がする。
今までいろんなことがありすぎて、自分は不運だと思い込んでいたけれど、小さな幸せはたしかに存在していた。それをひとつずつ思い出していると、自分には意外と居場所があるんだなと気づく。
祖母と母の喧嘩ばかりの生活の中、逃げてばかりの父でもわずかに安らぎを与えてくれたことは事実だし、祖父は不愛想だけど何も言わずに私を受け入れてくれる。
そして、千秋さんは私のことを理解して寄り添ってくれる。
私は、本当は恵まれているのだろう。これからはその事実をちゃんと認めて感謝して生きていきたい。
千秋さんとの出会いが、私の自己肯定感を上げてくれた。
「千秋さんの名前には何か意味があったりしますか?」
会話の流れでその質問をしたら、彼はさらっと答えた。
「母親が千夏だから」
「え?」
「ほら、春と冬だと女性の名前になるだろう? 秋なら男でもいけると思ったんだよ」
「そうなんですか」
私はぼんやりと千春、千冬と名前を頭に思い浮かべて、千春くんというのも悪くないなあって思っていた。
そうしたら、彼がぼそりと言った。
「紗那を想っているあいだはずっと、自分の名を恨んでいたよ」
「どういうことですか?」
意味がわからず訊ねると、彼はひとことだけ返した。
「一日千秋」
その言葉の意味を頭の中で探ってみる。一日が千年のように長く感じられること。つまり早くそうなりたいと待ち焦がれるという意味だ。
千秋さんにとっての5年間のことを差しているのだと思った。
どう返したらいいか迷って、私は逆に質問をした。
「今は、どうですか?」
「いい名だと思ってる。一番呼んでほしい人に呼んでもらえるから」
満面の笑みでそう話す彼に、私は恥ずかしくなってまともに顔が見られなくなった。駅までそんなに遠くないのに、やけにこの時間が長く感じられた。
私が戻ってすぐに行動したこと。それは、美玲と会うことだった。すべてきっちり終わらせるためだ。会う場所は会社近くの喫茶店で人の多い場所を選んだ。
美玲は少しげっそりしているようだったが、私と会って嬉しそうに笑顔を向けた。
私は、笑う気になれず真顔だった。
「紗那、待ってたのよ。連絡しても繋がらないから」
それもそうだろう。私は美玲をブロックし、着信拒否していたのだから。
「でもよかったわ。こうして会ってくれるってことはあたしのこと理解してくれたんでしょ?」
「違うよ。今日はお別れを言うために来たの」
すると美玲はすぐに表情を強張らせて声を震わせた。
「あたしのやり方が気に入らなかったのなら謝るわ。でもぜんぶ紗那のためなのよ。それだけはわかってちょうだい」
「わかるよ。美玲は自分と同じ境遇の子をそばにおいて共感させたかったんだよね?」
「紗那、そんな言い方……」
「でも、それじゃ前に進めないよ。傷口を舐め合ってるだけじゃ、これから先何も変わらないよ」
「何言ってるの。そんなことないわ。お互いに支え合って生きていけば……」
美玲が身を乗り出して訴えるので、私は冷静にはっきりと告げた。
「美玲、私はあなたじゃないの。あなたも私じゃない。それぞれに人生があるんだよ。自分の望むことを相手に強要するものじゃない」
美玲がどんな反応をしても何を口走っても私は以前のように感情的にはならなかった。ただ、目の前の彼女をまるで第三者のような目線で見つめている。それほど美玲の存在は私にとって遠いものとなっていた。
「あたしは紗那のことが好きなのに……こんなに想ってるのに……」
美玲はひと目もはばからず泣き出した。わざわざハンカチを取り出して鼻に当ててぐすぐす音を立てながら泣く。
私の同情を引きたいのだろうということはわかったけど、私にそんな感情は生まれなかった。
私は淡々と自分の気持ちを伝えることにした。
「美玲のその気持ちは嬉しいよ。だけど異性同性にかかわらず、想いって一方通行じゃ意味ないよ。相手を思い通りにしたいと思ってる時点でそれは優斗とやっていることは変わらないよ」
美玲の表情が強張り、彼女は私を睨むように見つめて言った。
「恩を仇で返すの?」
「違うよ。美玲の人生のためだよ」
「何があたしのためなのよ。紗那はあたしの気持ちを踏みにじってるだけじゃないの」
美玲はテーブルに拳を叩きつけて身を乗り出すようにして言った。
となりの席の客がちらっとこちらを見たのがわかった。
そうじゃない、と反論したいのを私は抑えた。どれだけ説明してもきっと本当の意味で彼女には伝わらない。
だから、私はただ自分の気持ちを伝えることに徹した。
「私ね、この一ヵ月間ひとりで考えてずいぶん冷静になれたの。今まで狭い部分しか見えていなかったけど、いろんなものが見えるようになって本当に大事なものや自分の気持ちを落ち着いて考えることができたの」
「だからあたしにもそうしろって? 地方に飛ばされることが決まったあたしにわざわざそんな嫌味を……」
「どう捉えてもらってもいいよ」
これ以上何を言っても美玲は反発するだろう。けれど、伝えたいことは伝えたので、私は黙って席を立ちあがった。
すると美玲はすがるように私の腕を掴んだ。
「紗那……!」
私はその手を静かに振り払った。
「美玲の気持ちを受け入れることはできないけど、今まで同僚として助けてもらってきたことには感謝しているから」
私は最後に一度だけ彼女に笑顔を向けた。
「ありがとう。さようなら」
私はそれだけ言ってレシートを手に持ち、レジで彼女の分も一緒に会計を済ませた。
店を出るときに振り返ると、美玲はテーブルに突っ伏して泣いていた。
少し複雑な気持ちになったけれど、もう振り返らないと決めたから、私はそのまま店を出ていった。
そして私は一ヵ月の休職を終えて会社に復帰した。
「君が戻ってくれて助かったよ。林田くんがいなくなってどうしようかと思っていたんだ」
私が会社に戻ると上司は上機嫌で迎えてくれた。
以前は私を邪魔扱いしたりもう会社に来るなといわんばかりに休職を促していたけれど、あまりの態度の落差に唖然とするほどだった。
「でも仕方ないよねえ。あんなトラブルを起こしてしまってはね。社内の風紀が乱れて俺が責められたんだよ。優秀だと思っていたのにとんだ地雷だったよ」
彼はハンカチで額の汗を拭きながら私に笑顔で続けた。
「君は被害者だろう。しかしもう大丈夫だ。林田くんは異動したから彼女の穴埋めとして充分能力を発揮してくれればいいよ」
私はしばらく黙って聞いていたけど、相手に聞こえるか聞こえないかくらいの声でぼそりと吐き出した。
「……ずいぶん都合のいい」
「ん? 何か言ったか?」
「いいえ。それでは仕事に戻りますので失礼します」
私は笑顔を取り繕って退室した。
部署内では周囲が私にまるで腫れ物にでも触るような扱いをしてきた。以前は私のあることないこと噂をしていた人たちも急に馴れ馴れしくなったのだ。
「あたし実は気づいていたのよ。林田さんが腹黒いこと」
「愛想を振りまいてたけど上司に媚び売ってただけなのよね」
「あたしたちのことバカにしていたのよ」
「飛ばされてざまあって感じ」
私は彼女たちの言葉を無言で聞き流した。あまり関わらないよう、必要最低限の会話しかしなかった。すると、私の反応が面白くないのか、彼女たちはだんだん話しかけてこなくなった。
仕事に復帰してしばらく経つと、私はひとつの決意を固めていた。
ある日会社を出るときに廊下で優斗とばったり出くわした。彼はずいぶんげっそりして、以前とは別人になっていた。
お互いに目があって微妙な空気になったけれど、優斗はそのあと私から目をそらし、黙って横を通り過ぎた。
私もそのまま振り返ることなく、立ち去った。