テラーノベル
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第六部 偽りのオリーブと永遠の玉座編開始
ロシア連邦、モスクワ。
空を重く覆う鉛色の雲から、氷の刃のような細かな雪が絶え間なく舞い落ちている。赤の広場を白く染め上げるその雪は、かつてナポレオンやヒトラーの野望を打ち砕いた「冬将軍」の到来を告げるものであったが、今のロシアにとっては、自らの首を絞める経済制裁と泥沼化した戦線の凍てつく現実を象徴するだけのものに成り下がっていた。
クレムリン宮殿。その華麗な外観の地下深く、核戦争すら想定して構築された厚さ数メートルのコンクリートと鉛の壁に守られた深層バンカー。
電磁波を完全に遮断し、世界で最も安全な密室であるはずのこの空間に、今、形容しがたいほどの底知れぬ恐怖と、息が詰まるような沈黙が充満していた。
円卓の最奥に座る男――ウラジーミル・ボグダノフ大統領は、まるで自らの玉座が突然氷の塊に変わってしまったかのように、身じろぎ一つせずに前を見据えていた。
その氷のように冷たい、薄いブルーの瞳には、かつて世界を二分する大国の指導者として君臨した「ツァーリ(皇帝)」の余裕はない。あるのは、理解不能な事態に直面した人間の、剥き出しの焦燥と屈辱であった。
「……もう一度、言ってみろ」
ボグダノフの口から漏れた声は、地の底から響くような、低く掠れたものだった。
円卓を囲むのは、ロシアの国家権力を支える最側近たちだ。ロシア連邦保安庁(FSB)長官のアレクセイ、参謀本部情報総局(GRU)長官のミハイル、強硬派の筆頭であるイワノフ将軍、そして外務大臣と財務相。
彼らの顔色は一様に、死人のように青ざめていた。
FSB長官のアレクセイが、まるで濡れた重い布を持ち上げるかのような動作で、震える手で紙の報告書を差し出した。
このバンカー内では、ハッキングを恐れてあらゆる電子機器の使用が禁じられている。タイプライターで打たれたアナログな書類だけが、彼らに残された唯一の「安全な」情報伝達手段だった。
「大統領閣下……。何度報告しても、事実は変わりません。
アメリカ合衆国本土に展開していた我々の情報網が……完全に、かつ物理的に『消滅』しました」
「消滅、だと」
「はい。ワシントンD.C.、ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、マイアミ……。アメリカ全土に潜伏させていたスリーパー・セル(潜伏工作員)、および彼らを束ねるハンドラーたちのネットワークが、昨夜から今朝にかけてのわずか数時間の間に、一網打尽にされました。
FBIとCIAの合同タスクフォースによる、全米同時多発的な強制捜査です」
アレクセイの声が、恐怖で微かに裏返る。
「逮捕された者の数は、現在確認できているだけでも数百名規模に上ります。我々が数十年の歳月と莫大な国家予算を費やし、アメリカ社会の深深部にまで根を張らせてきたインテリジェンスの結晶が、たった一晩で刈り取られたのです。
抵抗できた者は一人としておりません。逃亡に成功した者もゼロです。文字通りの『全滅』です」
バンカーの中に、誰かがごくりと生唾を飲み込む音が響いた。
ボグダノフは両手を机の上で組み合わせ、その拳を白くなるほど強く握りしめた。
「……どういうことだ。説明しろ、ミハイル」
ボグダノフはGRU長官に視線を移した。軍の諜報部門を預かるミハイルもまた、憔悴しきった顔で首を横に振った。
「分かりません。全く、理解の範疇を超えています。
我々の工作員たちは、決して無能ではありません。暗号化された通信プロトコル、ワンタイムパッド、デッド・ドロップ、そして完璧に偽装された経歴(カバーストーリー)。現代の防諜技術の全てを想定し、それをすり抜ける訓練を積んだ精鋭たちです。
彼らが一斉に、しかも『同時』に摘発されるなど、確率論的にあり得ないのです。誰か一人が裏切ってリストを渡したとしても、細胞(セル)同士は分断されているため、芋づる式に全てがバレることは構造上不可能です」
ミハイルは、手元のメモを読み上げながら、さらに絶望的な事実を付け加えた。
「しかも、突入のタイミングが異常すぎます。
ある工作員は、絶対に安全なはずの地下防音室で、たった一人で暗号を解読しようとしたその瞬間にドアを爆破されました。
ある者は、深夜のバスルームでシャワーを浴びている最中に。
またある者は、逃走用の偽造パスポートを取り出そうと隠し金庫を開けた瞬間に、背後から銃口を突きつけられました。
……まるで、彼らの行動を、いや、彼らの『思考』そのものを、空の上からすべて見透かしているかのような……」
その言葉が落ちた瞬間、バンカーの空気が凍りついた。
空の上から見透かしている。
その表現は、彼らの脳裏に、先日日本で起きた「ある出来事」を鮮烈にフラッシュバックさせた。
「……日本か」
ボグダノフが、呪詛のように呟いた。
数日前、東京の湾岸エリア――新木場において、ロシアが放った最強の暗殺・破壊工作部隊『ザスローン』の精鋭たちが、誰一人として銃を撃つ間もなく、日本の公安警察と正体不明の傭兵部隊によって無様に捕縛された。
その際、ロシア大使館の前に放り出された隊員たちのポケットには、彼らの日本国内での移動経路や密談の音声が克明に記録されたUSBメモリがねじ込まれていた。
その時、ボグダノフは悟ったのだ。
日本は、何かとんでもない「監視システム」を持っていると。
盗聴器や隠しカメラといった次元ではない。空間そのものを掌握し、壁の向こう側すら透視するような、SF映画の悪夢のようなシステムを。
「……日本のシステムが、アメリカにも導入されていたのか」
ボグダノフの推測に、アレクセイが重々しく頷いた。
「それ以外に考えられません。
アメリカのFBIやNSAが、自国の力だけで我々のスリーパーを完全に捕捉することは不可能です。彼らは日本政府から、あの『神の眼』とも呼ぶべき広域監視システム――我々は仮に『硝子の迷宮』と呼んでいますが――その技術供与、あるいは運用アクセス権を与えられたのでしょう」
「アメリカめ……。日本からその力を借り受け、我々を実験台にしおったか」
ボグダノフの青い瞳に、暗い怒りの炎が灯る。
アメリカは単にスパイを逮捕したのではない。これは見せしめだ。「我々はお前たちのすべてを見ているぞ」という、絶対的な優位性の誇示。
情報戦という目に見えないチェスボードにおいて、ロシアはすべての駒の配置を相手に知られた状態でゲームを強いられているのだ。
「大統領!」
ドンッ!とテーブルを叩き、立ち上がったのは、胸に無数の勲章をぶら下げたイワノフ将軍だった。
彼の顔は怒りで真っ赤に染まり、首の血管が今にも破裂しそうに浮き出ている。
「これは明白な宣戦布告です!
アメリカ合衆国は、我が国の主権と尊厳を完全に蹂躙した!我が国の誇り高き情報将校たちを、まるでネズミのように狩り立て、世界中に恥をかかせたのです!
これを黙って見過ごせば、ロシア帝国の大国としての威信は地に落ちます!」
イワノフ将軍は、テーブルの上に身を乗り出し、唾を飛ばしながら叫んだ。
「ただちに戦略ロケット軍の警戒レベルを最大(最高度)に引き上げるべきです!
原子力潜水艦をアメリカ沿岸に展開させ、ICBMの目標座標をワシントンとニューヨークにセットする!
アメリカに宣戦布告を!彼らに『ロシアの虎の尾を踏んだ』代償を、核の恐怖をもって思い知らせてやるのです!!」
将軍の怒号が、狭いバンカー内に反響する。
その剣幕は凄まじく、他の閣僚たちは息を呑んでうつむいた。
確かに、これほどの屈辱を受けたのであれば、軍人として報復を主張するのは当然の感情だ。ロシアの軍事ドクトリンにおいても、国家の存立を脅かされる事態には戦術核の使用すら辞さないと明記されている。
だが。
「……黙れ」
ボグダノフの声は、将軍の怒声よりも遥かに小さかった。
しかし、その一言には、シベリアの永久凍土を思わせる絶対零度の冷気と、逆らう者を即座に処断してきた独裁者としての圧倒的な重圧が込められていた。
イワノフ将軍の動きが、ピタリと止まる。
「スパイが一網打尽にされたから、戦争だと?
核のボタンを押すだと?
……貴様は、自分の頭で考えることを放棄したのか、イワノフ」
ボグダノフはゆっくりと立ち上がり、将軍を氷のような視線で射抜いた。
「現実を見ろ、この馬鹿者が。
我々は今、どこで血を流している?
ウクライナだ。あの泥沼の『特別軍事作戦』で、我が軍の精鋭はすり減り、弾薬庫は底をつきかけ、最新鋭の戦車は旧式のドローンに焼かれている。
西側の経済制裁で国家財政は火の車だ。部品一つ輸入するのにも、中東やアジアの小国の機嫌を窺わねばならない」
ボグダノフは、テーブルの上の報告書を掴み、将軍の胸に叩きつけた。
「そのウクライナ一つ満足に制圧できていない疲弊しきった状態で、アメリカ合衆国に喧嘩を売るだと?
しかも相手は今や、死なない兵士(ゾンビ)を作り出す『日本の薬』と、世界を透視する『日本の眼』を手に入れているのだぞ?
そんな化け物じみた同盟に、今のロシアが正面から挑んで、勝てる道理がどこにある!!!」
ボグダノフの激怒に、イワノフ将軍は顔面を蒼白にさせ、力なく椅子に崩れ落ちた。
誰も反論できなかった。
それが、痛いほどの現実だからだ。
核兵器という「使えない剣」を振り回したところで、相手がすべてを見透かしているなら、撃つ前に発射基地をピンポイントで破壊されるのがオチだ。
「……感情で国は動かせん。
プライドで飯は食えんし、弾丸も作れんのだ」
ボグダノフは大きく息を吐き出し、自らの椅子に座り直した。
彼の中で、何かが音を立てて崩れ落ちるのが分かった。
それは、大国ロシアの指導者としての矜持であり、アメリカと対等に渡り合えるという幻想だった。
だが、生き残るためには、その幻想を自らの手で切り捨てねばならない。
「……方針を決定する」
ボグダノフの声は、すっかり落ち着きを取り戻し、冷徹な為政者のそれに戻っていた。
「第一に、ウクライナ戦線。
直ちに戦闘行動を縮小し、実質的な『休戦』状態へと持っていく。
勝利宣言などどうでもいい。適当な理由――『非軍事化の目標は一部達成された』とでもでっち上げて、兵を引け。これ以上、無駄な出血を続ける余裕は我々にはない」
「きゅ、休戦ですか……。しかし、国内の保守派が黙っておりませんぞ」
アレクセイが懸念を示すが、ボグダノフは冷たく一蹴した。
「黙らせろ。反対する者はすべて反逆罪で逮捕しろ。
そして、この休戦交渉の『仲介』を、あえてアメリカに提案するのだ」
「アメリカに、ですか?」
「そうだ。
『ロシアは対話の用意がある。偉大なるアメリカ大統領の仲介のもと、平和的解決を望む』と。
アメリカの顔を立て、彼らに『ロシアを従わせた』という外交的勝利の果実をくれてやる。そうすることで、これ以上の追撃――特に経済制裁の強化や、軍事的な圧力――を回避する」
屈辱的な提案だ。
だが、相手が「すべてを見ている」状況において、最も有効な防御手段は「降伏のポーズ」を見せることである。
「そして第二に、逮捕されたスパイについてだ」
ボグダノフは外務大臣の方を向いた。
「公式に謝罪しろ」
「えっ……?」
外務大臣は我が耳を疑った。
通常、スパイが捕まった場合、国家は「そんな人物は知らない」「でっち上げだ」とシラを切るのが常識だ。自国のスパイ活動を公式に認めるなど、外交的敗北以外の何物でもない。
「シラを切ったところで、証拠は完全に握られている。見え透いた嘘は、相手の怒りを買うだけだ。
『一部の情報機関が独断で暴走した。深く陳謝する』と頭を下げ、外交ルートを通じて彼らの身柄を引き取れ。
……無能な連中だが、見捨てれば他の工作員たちの士気に関わる。とりあえず、これで手打ちにするしかない」
「……承知いたしました」
外務大臣が、ハンカチで額の汗を拭いながら頷いた。
「ですが、大統領。アメリカがこれで満足するでしょうか?」
ミハイルGRU長官が、疑心暗鬼に満ちた声で尋ねる。
「我々が頭を下げたことで、彼らがさらに調子に乗り、理不尽な要求――例えば、核軍縮の無条件受け入れや、政権の交代すら求めてくる可能性はないでしょうか?」
ボグダノフは腕を組み、考え込んだ。
「どうだろうな。
アメリカがさらなる要求をしてくる可能性は、もちろんゼロではない。
だが、ウォーレン大統領は現実主義者だ。彼らにとっても、ロシアという大国を完全に追い詰め、暴発させることはリスクが高い。彼らが欲しいのは『管理されたロシア』であって、『崩壊したロシア』ではない。
スパイ網を潰し、ウクライナから手を引かせた。それだけで、彼らの国内向けのアピールとしては十分すぎる戦果のはずだ。これ以上の過大な要求をしてくるとは考えにくい」
ボグダノフは、さらに世界の地図を脳内に思い描いた。
「それに、彼らには他に目を向けるべき相手がいる」
「中国、ですか」
「そうだ。
では、その中国はどうだ?我々は中国を頼れるか?」
ボグダノフの問いに、アレクセイが苦々しい顔で答えた。
「……不可能でしょう。
我々の情報では、中国は現在、日本に対して異常なほどの『すり寄り』を見せています。
日本の『医療用ナノマシン(不老不死の薬)』を手に入れるため、彼らはプライドを捨てて『日本保護区構想』なるものまで打ち出している始末です。
日本とアメリカが強固な同盟を結んでいる以上、日本に媚びを売っている中国にとって、アメリカと敵対するロシアは『邪魔な存在』でしかありません」
「だろうな」
ボグダノフは冷笑した。
かつては「限界なき協力関係」を謳った中露関係だが、利益が相反すれば一瞬で裏切るのが中国という国だ。彼らが日本の「神の薬」に目が眩んでいる以上、ロシアに助け舟を出してくれるはずがない。
むしろ、アメリカへの点数稼ぎのために、背後からロシアを刺してくる可能性すらある。
「中国はダメだ。では、ヨーロッパはどうだ?
NATO各国が、この機に乗じて一斉に攻め込んでくる可能性は?」
イワノフ将軍が、再び不安の声を上げる。
「それは分からない」
ミハイルが重苦しい声で答えた。
「問題は、日本の『監視システム』が、どこまで普及しているかです。
我々のスパイ網が壊滅したのはアメリカだけです。イギリス、フランス、ドイツなど、NATO各国のヨーロッパ諸国における我々の諜報網は、今のところ健在です。異常はありません」
「健在だと?
それは、どういう意味だ?」
ボグダノフが身を乗り出す。
「可能性は二つあります。
一つは、監視システムが導入されているのは、技術の供給元である日本、それを買い取ったアメリカ、そして試験導入を許された中国の『三カ国のみ』であるという可能性。これなら、ヨーロッパの我々の網が生き残っている説明がつきます」
「もう一つは?」
「……ヨーロッパのNATO諸国にもすでにシステムは導入されており、我々の工作員の配置は『全て見透かされている』が、あえて『見逃されている(泳がされている)』という可能性です」
ゾクリ、と。
バンカーの空気が、さらに冷たく凍りついた。
泳がされている。
これほど恐ろしい言葉はない。
自分たちが自由に行動していると思い込まされながら、実際には見えない観察者の掌の上で踊らされているだけ。いざとなれば、いつでも首を刎ねることができる状態。
これは、直接攻撃されるよりも遥かに深いパラノイア(疑心暗鬼)を産み出す。
「……誰も信じられないな」
ボグダノフは、自嘲するように笑った。
疑心暗鬼。
それこそが、この情報格差社会における最大の毒だ。
見えているか、見えていないか分からない。だから、何もできない。
「アメリカも、中国も、NATOも、もはや頼りにはならん。我々は完全に孤立した。
……ならば、どうする?」
ボグダノフの視線は、円卓の端で小さくなっていた外務大臣に向けられた。
「……日本です」
外務大臣が、恐る恐る口を開いた。
「すべての大元(ソース)である、日本との外交関係を回復するべきです」
「日本と?」
「はい。考えてもみてください。
ウクライナでの特別軍事作戦が始まる前、日本とロシアの関係は決して悪いものではありませんでした。
エネルギー取引、サハリンのガス田開発、そして北方領土を巡る平和条約交渉……。
安倍政権時代には、大統領ご自身も何度も首脳会談を重ね、個人的な信頼関係を築いていたはずです。少なくとも、我々は『友好国』のカテゴリーにいた時期がありました」
外務大臣は、必死に言葉を紡ぐ。
「日本が西側の制裁に加わったのは、彼らがアメリカの同盟国だからという建前上の理由が大きかった。
もし我々がウクライナから兵を引き、誠意を見せれば、彼らも振り上げた拳を下ろす大義名分が立ちます。
日本と直接対話し、彼らの懐に飛び込む。それしか、この絶望的な情報格差を埋める方法はありません」
ボグダノフは目を閉じた。
日本。
かつては、ロシアの広大な領土と資源を前に、常に下手に出てきた国。
それが今や、世界のルールを書き換える「魔法使い」となり、大国たちを顎で使っている。
その国に、今度はロシアが頭を下げに行かなければならない。
「……謝罪するべきか。
ザスローン部隊の件も含めてな」
「はい。すべてを認め、誠心誠意の謝罪を行うべきです。
日本人は礼節を重んじます。我々がプライドを捨てて頭を下げれば、無下に切り捨てるような真似はしないはずです」
「だが、問題があるぞ」
ずっと黙っていた財務相が、悲鳴のような声を上げた。
「謝罪し、関係を修復するということは、ウクライナへの侵略の非を認めるということです。
そうなれば、西側諸国から莫大な『戦後賠償』を要求されることは火を見るより明らかです!
我々の国家財政はすでに限界です。そんな賠償金を支払う資金など、国内のどこを探してもありません!国が破産します!」
財務相の悲鳴は、もっともなものだった。
戦争に負けた国が背負う十字架。それは、天文学的な数字の賠償金だ。
だが、ボグダノフは冷ややかに笑った。
その笑みには、マフィアのボスのような、狡猾な計算が隠されていた。
「……資金なら、あるではないか」
「えっ……?どこにですか?」
「凍結されている、我々の資産だ」
ボグダノフは、テーブルを指で叩いた。
「西側諸国は、ウクライナ侵攻以降、ロシア中央銀行の外貨準備高や、オリガルヒ(新興財閥)たちの海外資産を不法に凍結している。
その額は、数千億ドルに上る。
我々が休戦を受け入れ、西側との関係改善に踏み出せば、その凍結資産の解除を交渉のテーブルに乗せることができる」
「あ……」
「賠償金は、その『凍結解除された我々の金』から払ってやればいい。
どのみち、今のままでは1ルーブルたりとも手元に戻ってこない死に金だ。それを賠償金として右から左へ流すだけなら、国内の懐は痛まない。国民から新たに税を絞り取る必要もない」
ボグダノフの悪魔的な論理に、財務相は唖然とし、やがて深く頷いた。
「な、なるほど……。
それならば、国内経済を完全に破壊することなく、国際社会への復帰の道筋が立てられます」
「そうだ。
我々は負けるのではない。
『より大きな利益』のために、戦略的撤退を選ぶのだ」
ボグダノフは立ち上がり、円卓を囲む閣僚たちを一人一人、強い眼差しで見つめた。
「同志諸君。
時代は変わった。
核兵器の数や、戦車の保有数で世界の覇権が決まる時代は、日本がもたらした『魔法』によって終わりを告げたのだ。
我々はその現実に、誰よりも早く、そして誰よりも残酷な形で直面させられた。
だが、ロシアは滅びない。
タタールのくびきを耐え抜き、ナチスを冬の凍土に沈めた我々のしぶとさを、世界に見せつけてやるのだ」
彼は深く息を吸い込み、そして、皇帝としての最後のプライドを、自らの手でへし折った。
「プライドを捨てろ。
泥水を啜ってでも生き残れ。
……日本との極秘交渉の準備を急げ。私が直接、日本の総理と話をつける。
ロシアの未来は、あの極東の島国が握っているのだから」
クレムリンの地下深くに、重々しい決意の言葉が響き渡った。
それは、一つの帝国がその覇権の夢を諦め、新たなる世界のルール――「硝子の迷宮」を支配する者への隷属を、自ら受け入れた瞬間であった。
外では、モスクワの雪が降り続いている。
だが、その雪がどれだけ分厚く降り積もろうとも、もはやロシアの真実を覆い隠すことはできない。
見えない監視者の眼は、凍土の奥底でうごめく熊の姿を、冷ややかに、そして克明に記録し続けていた。
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