コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「お母さん、抱っこして!」
「いいよ」
言われるままにあの人は望愛を抱きしめる。そして私が無言で望愛を引き剥がし、無言で連れ去る。
「お姉ちゃんのいじわる!」
望愛が泣き叫ぶのを聞くと、まるで私が本当に意地悪してるみたいな罪悪感に駆られてしまう。
お父さんが死んで、あの人との同居が始まってもうすぐ一年。あの人がした数々の悪行を忘れたのか、望愛はすっかりあの人を母親扱いしている。少なくとも、お母さんと呼ぶのはやめてほしい。
まだ十歳の私だって分かる。人間は変わらない。クラスメートの嫌なやつはいつになっても嫌なやつのままだし、仲いい子はいつになっても仲いいままだ。
あの人はきっとまたろくでもない男と恋に落ちてみんなを不幸にする。お父さんの教え子だった小麦さんも、今も会うたびにそう言っている。
確かにこの一年の行動だけ見れば、望愛だけでなくおじいちゃんやおばあちゃんまで騙されかけているのも仕方ない気がする。
朝は誰よりも早く起きて、仏壇のお父さんの遺影の前で三十分も土下座している。ちなみに夜も一番遅くまで起きている。そして朝と同じことを寝る前にもしている。誰かにそうしろと言われてやってるわけじゃない。あの人が勝手に始めたこと。
平日はおじいちゃんの知り合いが経営している工務店の事務員として働いている。毎日まっすぐ帰宅して、家事も手を抜いている様子はない。夕食は毎日違うメニュー。しかもおいしい。
同居を始めた当初は手をつけずコンビニで買ってきたお弁当を食べたりしていた。私の精一杯の抵抗をあの人はもちろん、おじいちゃんもおばあちゃんもやめろとは言わなかった。
でも一人であの人に逆らい続けていると、だんだん自分がただのいじめっ子みたいに思えてきて、逆らい続ける気力が続かなくなっていった。それもきっとあの人の作戦。いくら嫌でも、子どもの私は大人のあの人に勝てないのだろうか? 最近はため息ばかりつくようになった。まだ十歳なのに。
曲がりなりにも私の怒りが持続しているのはお父さんの遺品のスマホを引き継いだから。お父さんが生きてるときは知らなかったけど、お父さんは家族に内緒でXのアカウントを持っていた。ユーザー名は〈レスられ先生〉。
お父さんはあの人に拒否されてのセックスレスに苦しんでいた。あの人の浮気が発覚するまでのポストの半分がそういう内容。
今日も誘ったけど拒否された。僕が心の底から気持ち悪いんだそうだ。これでも学校では女子生徒にもそこそこ人気あるんだけどな。
このポストを見てから、あの人の顔を見るたびに、
「心の底から気持ち悪い」
と言い続けた。
言いすぎだとおじいちゃんに叱られたけど、
「あの人がお父さんに言ってたことを真似してるだけだよ」
と言い返したら、身に覚えのあるあの人はうつむいて言葉を失っていた。
ポストの数が一気に増えたのはあの人の策略に引っかかって警察に逮捕されてから。
仕事から帰ったら妻子に逃げられていて、迎えに行ったら警察に逮捕された。目が覚めたら虎になっていた『山月記』の李徴の驚きに負けてない自信がある。人生は理不尽だ。
お父さんは高校の国語の先生。ときどき十歳の私には難しい内容のツイートもある。そんなときはお父さんの教え子で、仲よしになった小麦さんに教えてもらう。『山月記』というのは高校の国語の教科書に載っている小説なんだそうだ。小麦さんはお父さんから『山月記』を教わっていた。教科書の本文を読ませてもらったけど、最初の一行で挫折した。お父さん、私もあなたの授業を受けてみたかったよ。
右往左往してるだけだったお父さんが初めて怒りを見せたのは、あの人の浮気を知ったとき。
僕とは拒否して、自分はほかの男とセックス三昧。同じ人間とは思えない。とりあえず三年間のセックスレスの仕返しはたっぷりとさせてもらうよ。
最近あの人にべったりの望愛にこのポストを見せてやったら、
「セックスレスって何?」
という言葉が返ってきて、説得はあきらめた。
お父さんは復讐に燃えながらも、ポストはどこか自虐的だった。
妻が僕を捨ててあの男を選んだ理由を知りたい。僕とのセックスでは満足できなかったのだろうか? 僕自身そのことに自信などまったく持ってないのは確かだ。不倫されて傷ついて、理由を聞いてさらに回復困難なダメージを受ける。いくら妻を制裁したって、僕の心の傷が癒やされるわけじゃないんだ。
こんなポストを見せられて、あの人を許せるわけないじゃないか! お父さんが生前こんなポストをしていたことをあの人には教えない。お父さんのお通夜にも葬式にもあの人は参列できなかった。私が大反対したからだ。お父さんだって空の上できっと怒ってるはず。お父さんが佐礼央さんという人の仇を取ろうとしたように、私はお父さんの仇を取る。いつかきっと。絶対に!
お父さんの仇は何人もいる。まず一人目は、自分の浮気を夫にバラされたことを逆恨みしてお父さんを殺害した望月茉利子。事件からもうすぐ一年。でもまだ逮捕されていない。行方不明のまま。この女が捕まったところで私たちの悲しみが癒えることはないけど、この女が捕まらないで逃げ回っているという現実は私たちの怒りにさらに油をそそいでいる。
二人目はもちろんあの人。そのそもあの人が鷲本憲和と浮気しなければ、お父さんと犯人に接点はできず、お父さんが殺されることもなかった。
「あんたが死ねばよかったのに!」
今もときどきそう叫んでしまう。
「私もそう思います」
あの人はいつもそう答えるけど、本心からそう思っているかどうかは分からない。三年間もお父さんにバレずに浮気してたくらいだから、十歳の私をだますことなんてあの人にとっては少しも難しいことではないだろう。
三人目は岡室春子弁護士。子どもと切り離された別居親からお金を搾り取れるだけ搾り取る離婚ビジネスというものがあって、岡室は離婚という人の不幸で荒稼ぎする弁護士の代表格のような存在。あの人に子どもの連れ去りを指示した鷲本夫妻は死んだけど、岡室は何事もなかったかのように事件後も離婚ビジネスで暴利を貪っている。
お父さんのポストにも岡室は何度か登場していた。
僕の妻に子どもたちの連れ去りをそそのかしたのは鷲本憲和弁護士とその妻の友子弁護士だけど、彼らは離婚ビジネス弁護士の中心的人物ではない。日本全国にあまたいる離婚ビジネス弁護士の精神的支柱は岡室春子弁護士。岡室弁護士に一度痛い目に遭わせてやりたい。親分がひどい目に遭えば、子分たちも離婚ビジネスで甘い汁を吸う今までのスタイルを変えざるを得ないだろうから。
温厚なお父さんが岡室一味の手口に声を荒げる場面もあった。
結局は金だ。子どもの連れ去りをそそのかす悪徳弁護士たちは、別居親に親権を認めない単独親権制度の維持に執着する。彼らが子どものためと言うのは嘘だ。子どもの連れ去りはあくまで連れ去った大人の都合であり、子どもたちはただ振り回されている被害者だ。子どもを連れ去った側が連れ去られた側に金をゆするのは、身代金目的の誘拐犯と同じじゃないか!
お父さんを殺した犯人はまだ逃走中だけど、彼女が離婚弁護士の鷲本夫妻を殺害したことだけは褒めてもいいのかなと思えてくる。殺人が許されないことだというのは百も承知。
それなら実子誘拐はなぜ許されているの? また、不届きな弁護士たちが実子誘拐をビジネスにして荒稼ぎすることもなぜ許されているの?
十歳の私にも理解できるように、誰か説明してほしい。
お父さんのXアカウントは、お父さんが亡くなったことを知らせた上でそのまま残してある。お父さんが死んでからは、私がときどきポストしている。
このアカウントの主だった私のお父さんは、逆恨みした狂った女によってある日突然命を絶たれた。しかも事件からもうすぐ一年になるのに、犯人はまだ逃走中。もちろん犯人を許すことはできないけど、犯人の女にも私と同じくらいの娘がいたらしい。こんな事件を起こして、犯人が娘にどう思ってるのか? 娘は母親をどう思ってるのか? 怖いもの見たさ半分だけどちょっと聞いてみたい。
私のポストにもときどきいいねがつく。フォロワーが増えることもある。ある日DM(ダイレクトメッセージ)を受け取った。差出人は〈いつかは良妻賢母〉。
主婦の人かな? まだ良妻賢母じゃないというのは謙遜かな? と思いながらメッセージを読み始めたけど、すぐにそうではないと気づいた。私が死んだお父さんのアカウントを引き継いだように、この人は行方不明の母親のアカウントを引き継いだのだ。その人はおそらく私以上の絶望を味わった人だ。
はじめまして。私は渡辺悠と言います。あなたは一年前に弁護士夫婦といっしょにお父さんを殺された方なんですね。ずっと前からツイートを読ませてもらってました。私は逃走中の容疑者の娘です。私も名前を変えたりいろいろと大変でしたが、結局は加害者の娘。何の罪もないお父さんを殺されたあなたの悲しみに比べたら全然たいしたことはないはずです。
今回このメッセージを送ったのは、直接会ってお母さんのしたことを謝りたいと思ったからです。
気を悪くされたならすいません。私はあなたとあなたのお父さんのためにも、一刻も早く私のお母さんが逮捕されることを祈ってます。お返事お待ちしています。
一瞬、加害者の関係者を装って私をからかおうとする愉快犯かとも考えた。何の根拠もないけど、この人はこの人の言う通り犯人の望月茉利子の娘に違いないと信じた。
私はこの人に会ってみることにした。謝ってほしいからじゃない。報道された内容の通りなら、この人の父親はたび重なる妻の浮気に心を病んで自殺、母親は夫の遺言の通りに弁護士の鷲本夫妻を殺害、さらに私のお父さんの命も奪ってそれから一年近く逃走中。
お父さんの仇を取ってこいと私たちが迫るたびに、あなたたちを殺人犯の娘にするわけにはいかないの! とあの女は繰り返した。この人はその〈殺人犯の娘〉なのだ。この人の悲しみが私の悲しみより小さいわけないじゃないか!
この人と友達になりたいと思った。彼女の方が嫌だと言うかもしれないけど。そうじゃないなら、私たちしか知らない悲しみを打ち明け合って、目の前に立ちはだかるさまざまな困難をいっしょに乗り越えてみたい。そんなふうに思ったんだ――
会う前にDMで少し話した。少しじゃないな。けっこう話した。
悠は私より一つ年下で現在小学三年生。事件後に茉利子の姉夫婦の養子になり、名字を変えた。現在は姉夫婦の自宅で、茉利子の夫の母親とともに五人暮らし。
一人多い気がしたが、間違いではなかった。二ヶ月前に生まれたばかりの男の赤ちゃんが横浜市内の産科の病院の前に置き去りにされていたという。茉利子と亡くなった夫の子どもであると書かれた手紙を添えて。警察が茉利子と保の遺留品をもとにDNA鑑定をしたところ、手紙の通りの結果となった。手紙を書いたのはおそらく茉利子本人。この子の名前を父親と同じにすることと、この子も姉夫婦の養子とすることも依頼されていた。
つまり、事件当時、茉利子は妊娠中だった。そして、警察がいくら探しても見つからないのはすでに死んでいるからと言う者もいたが、事件からもうすぐ一年になろうという今もどこかでのうのうと生きている。おそらく何者かに匿われて。
私は知らなかったけど、事件直後、茉利子の両親が私のおじいちゃんに賠償金と慰謝料の支払いを申し出たらしい。そちらの方が大変でしょうからとおじいちゃんは受け取りを辞退した。ちなみに茉利子の両親に対しては鷲本夫妻の遺族から賠償金と慰謝料の請求があったそうだ。茉利子の両親は鷲本側への支払いは拒否した。
「お金がほしければ茉利子本人から取ってください。取れるものならね」
鷲本夫妻の遺族は地団駄を踏んで悔しがったそうだ。いいことを聞いた。今度お墓参りしたときに、お父さんにも教えてあげよう。
私も悠も横浜市内在住。といっても横浜は広い。私の家は川崎寄りで悠の家は鎌倉寄り。全然離れている。せっかく悠と会っても暗い雰囲気にならないように、待ち合わせ場所はあえて観光客ばかりの中華街の最寄り駅にした。
そういえばお父さんは中華街で食べられる𰻞𰻞(ビャンビャン)麺が好きだった。お父さんは一番画数の多い漢字だという〈𰻞〉という字が見ないで書けた。
「すごい!」
と私が感動したら、
「これでも学校の先生だからね」
と笑っていたけど、小学校の先生で書ける人は一人もいなかった。どうやらからかわれただけだったみたい。
十二月の最初の土曜日の午前十時。予想通り石川町駅はごった返す観光客でにぎわっていた。事前にお互いの写真を送り合っていたから、すぐに私たちはお互いを見つけることができた。悠は快活そうな子には見えない。聡明で思慮深そうな人に見えた。
どこを見てもカップルや家族連れの笑顔ばかり。実際はその人たちにもその人たちなりの深刻な悩みがあるはずだけど、殺人事件の被害者遺族の私には私以外のすべての人が幸せそうに見える。それは殺人事件の加害者家族である悠もきっと同じだろう。
中華のお店に目もくれず、最初に目に入ったカフェに並んで入った。私がパフェを頼むと悠も違うパフェを頼んだ。
「最初に言っとくけど、謝ることはお互い禁止ね」
そう言うと困った顔をした。
「お父さんが死んでから、今までの友達はみんな腫れ物に触るように私と接してくるんだ。向こうも疲れるだろうけど、私だって疲れる。正直あなたのお母さんは憎いけど、あなたを憎んではいない。あなたには心から笑い合える友達になってほしいんだ。いいかな?」
「先生には伝えてあるけど、今の学校のクラスメートはあの事件は私のお母さんが起こした事件だとは知りません。誰かに知られたらすぐに転校することになってるから、友達を作ることなんてあきらめてました。真希さんが友達になってくれるなら本当にうれしいです」
こうして私たちは友達になった。お互いをちゃん付けで呼び合うことに決めたけど、悠にはまだ難しそうだったから、しばらくはさん付けでもいいよと伝えたら、心からホッとしたような顔をしていた。
冬休みまであと数日というある日、私のクラスに一人の女の子が市外の学校から転入してきた。
「水村朱里です。よろしくお願いします」
転校してくるにしては時期的におかしい。もしかしたらと思って聞いてみたら、やっぱりそうだった。
「お母さんがお父さんとケンカして、お母さんの実家に連れていかれたんだ」
「やっぱり」
私がそう答えると、朱里は怪訝な顔をした。
「なんで分かったの?」
「私もそうだったから」
「転校して友達と離れるなんて嫌だった。私、どうすればいいんだろ?」
「勝手に元のおうちに帰っちゃえ。私はそうしたよ」
「お母さんが依頼した弁護士がお父さんに、お母さんにも私にも近づくなって命令してるみたいだけど、大丈夫なのかな?」
「大丈夫。朱里ちゃんが勝手に帰るなって命令されてるわけじゃないから。ところで、その弁護士の名前分かる?」
「確か岡室春子って名前だったと思う」
なんという偶然! お父さんの無念を晴らせという神様の声が聞こえた気がした。
その日の放課後、朱里と悠を誘って市内の弁護士事務所を訪れた。その弁護士さんはお父さんも世話になった人。お父さんのお葬式にも来て、名刺を渡されて何かのときは必ず力になると私に声をかけてくれた。
電話で訪問のアポを取ったときも、
「真希ちゃんの話なら相談料無料で何時間でも聞いてあげるよ」
と言ってくれて、私の方が恐縮してしまった。
「弁護士は星の数ほどいるけど、小学生三人から相談を受けたのは僕くらいじゃないかな」
冗談を言いながらも杉原烈彦弁護士の口調は真剣そのものだった。
「僕は後悔していたんだ」
「何をですか?」
「真希ちゃんのお父さんから、奥さんの不倫相手の鷲本憲和弁護士を社会的に抹殺したいと相談を受けたことがあったんだ。そのとき僕はそんな方法はありませんと答えてしまった。本当はあったんだ。ただ、真希ちゃんのお父さんにそれをやらせれば、鷲本も彼らのバックにいる岡村弁護士も黙ってないだろう。僕は岡室一味と全面対決するのが怖くて言い出せなかった。何しろ向こうは大勢、こっちは僕一人だからね」
「その方法を私に教えてもらえませんか」
「もちろん教えるよ。彼らと戦う覚悟はできてる。それが真希ちゃんのお父さんへの僕の償いだ」
悠もいっしょに戦ってくれると言ってくれた。
「鷲本憲和は私のお母さんの浮気相手でもあったから、彼の親分の岡室弁護士をやっつければ、自殺したお父さんもきっと喜んでくれると思います」
朱里も離婚ビジネス弁護士の手口を聞いて憤慨していた。
「弁護士が子どもの連れ去りをそそのかすなんて信じられない! そんな悪いやつら滅びればいいと思うよ」
相手は強敵。向こうの仲間は大勢いるし、しかも長年離婚ビジネスで甘い汁を吸い続けてきたから、資金も潤沢。
でも負ける気は全然しない。脅威を感じる敵が現れると、大勢の仲間の弁護士と連名でスラップ訴訟を提起して、数の力で相手を恫喝するのが彼らの戦い方。
残念ながら小学生相手にその方法は使えない。お父さんは望月保ではなく、私をうまく使って鷲本憲和と戦えばよかったんだ。
見ていて、お父さん! あなたの娘として恥ずかしくない戦いをして、そして絶対に悪いやつらに勝ってみせるから!
まず朱里が別居の父親に電話して、杉原弁護士と代理人契約させた。翌日、朱里が警察署に駆け込んで母親に無理やり誘拐されたと訴えた。
朱里は父親の連絡先だけを警察に教え、父親は杉原弁護士とともに警察署に朱里を迎えに来た。朱里と父親はその場で未成年者誘拐罪で母親を告訴した。杉原弁護士も母親に電話して、朱里への接近禁止を通告した。
もちろん母親はすぐそのことを岡室弁護士に報告。母親も岡室弁護士とともに警察署に急行した。
ここまでは想定通り。ただし実子誘拐は警察に告訴が受理されることはあっても、連れ去った側が有罪になったケースはまだ一つもない。(連れ去られた子どもを連れ去り返して有罪になった事例はある)
だから一見大勝利のように見えても、勝負はまだまだこれから。逆に言えば、これ以上何もできなければ負け。私たちは悲愴な覚悟を持って岡室弁護士の到着を待った。
待ち構えるのは小学生三人と朱里の父親と杉原弁護士。朱里の父親を見て、私のお父さんに似てるなと思った。見た目じゃない。仕草とか話し方とか。
朱里の母親がDVを理由に弁護士を通して接近禁止を通告させたと言うけど、実際、朱里によればDVされたことはないし、父親が母親にDVしているところを見たこともないそうだ。
私のお父さんがやられたこととまったく同じ。全部岡室弁護士が仕組んだことに違いない。
悠が朱里の父親に、
「私のお父さんによく似ていてびっくりしました」
と話しかけていて、こんな切迫した場面なのに笑ってしまった。朱里が父親の家に戻れば、私たち三人はそれぞれ違う小学校に通うことになるけど、私たち三人がこれからずっと大人になっても友達でいられることをそのとき確信した。
朱里の母親は一言で言えば私の母親とよく似ていた。浮気しているかどうかは知らない。見た目が美しく、勝ち気でどこか夫を見下した態度がかつてのあの人の姿を思い出させて、私を不快にさせた。
岡室春子は高そうな服を着て、いいものばかり食べてるからか写真で見るより太っていた。彼女の着てる服も食べてるものも、もとは全部離婚家庭から搾り取ったお金。そう思うと吸血鬼か何かに見えてきて、背筋が寒くなった。
警察署の一室を借りての話し合い。警察官も二人同席している。うち一人は若い女性警官。
「その子たちは何なの? 部外者は出て行って!」
朱里に並んで座る私と悠を見て、朱里の母親がさっそく吠える。
「二人とも朱里の大切なお友達だよ。気に入らないとぎゃんぎゃん吠えるお母さんのそういうところ大嫌い!」
自分の言いなりだったはずの朱里から思わぬ反撃を食らい、朱里の母親は怒りの矛先を夫に変えた。
「誘拐で告訴ってどういうことなの? あなた、朱里を言いくるめるのはやめて下さい!」
最初から朱里の母親は喧嘩腰だったけど、
「言いくるめる? 朱里を言いくるめて僕に黙って連れ去った君にだけは言われたくないな」
父親のその一言でしどろもどろになった。
「言いくるめるって、私はちゃんと朱里の同意を得た上で……」
「お母さん、私は同意なんてしてないよ。〈もうお父さんとは暮らせない。朱里も早く持って出る荷物の準備をしなさい〉としか言われてないもん」
「朱里、お母さんを裏切るの?」
「裏切るも何も、お父さんとお母さん、どっちかを選べと言われたって選べないよ。どうしてもと言うならお父さんを選ぶ。それなら前の学校にもまた戻れるしね」
旗色が悪いと見て、朱里の母親の代理人の岡室弁護士も参戦した。
「ご主人は親権を争うつもりなのですか? 残念ながら裁判になればご主人の親権が認められることはありません。ここは親権を奥さんに渡した上で、面会権を確保する方が賢明だと思いますよ」
朱里の父親は本当の意味で賢明な人だったから、岡室弁護士の言いなりにはならなかった。
「僕と妻はまだ一言も離婚の話をしていないのに、それを最初に口にしたのが弁護士だなんてね。あなたたちは依頼者の夫婦を離婚させて、夫から分与される財産や夫に毎月払わせる養育費をピンハネして利益を得ているんですってね。軽蔑しますよ。裁判? 裁判で妻が勝って親権を取ったところで、朱里は今日のように何度でも妻の家から逃げ出して僕の家にやってくることでしょう。どうしても子どもを傷つけたいなら、裁判でもなんでもすればいい」
「私は朱里を傷つけるつもりなんて……」
「ある日突然有無も言わせず連れ去られて父親とも学校の友達とも切り離されて、朱里が傷ついてないと本気で思ってるのか!」
父親に一喝されて、母親は沈黙した。
「君があくまで僕と争いたいなら僕も徹底抗戦するよ。でも君が家に戻りたいと言うなら何もなかったことにして君を受け入れる。もちろん誘拐の告訴も取り下げる。たった一つだけ条件を飲んでくれれば」
「条件って何ですか?」
「さっき、子どもの連れ去りをそそのかす悪い弁護士がいるという話を聞いた。君の弁護士もそうなの?」
「そうです」
「条件は岡室弁護士の解任。自分の金儲けのために子どもの連れ去りを勧めて子どもの心に深い傷をつくった悪魔のような弁護士と、いつも真ん中に朱里がいる家族三人の生活と、君はどっちを選ぶんだ?」
母親は少し考えて、いや、何もなかったことにしてもいいと言われた時点で結論は出ていて、それは心の準備をする時間だったのかもしれない。
「勝手なことをして申し訳ありませんでした。戻りたいです」
母親は立ち上がり父親に深く一礼して、
「岡室先生、あなたを解任します」
「奥さん! あなたが言いくるめられてどうするんですか?」
「言いくるめたのは先生でしょう? 連れ去れば子どももお金も手に入る。DVもでっち上げて接近禁止を通告しましょう。お金と親権の交渉は私に任せてと言って」
岡室弁護士は憤慨して立ち去ったが、最後にこんな捨て台詞を吐いていった。
「とんだ茶番を見せられたもんね。奥さん、せいぜい後悔すればいい。両親に愛される子どもが幸せであるというのは、旧来の価値観に根ざした幻想なのよ!」
この人、そういう考え方だったんだなと呆れた。どんな偏った思想を持ってもかまわないけど、その偏った思想をもとにたくさんの家庭を壊してたくさんの子どもを泣かせてきた責任は絶対に取らせてやろうと改めて心に誓った。
杉原弁護士が教えてくれた悪徳弁護士のやっつけ方というのは、その収入源を断つこと。彼女は今仕事を一つ失ったわけだけど、もちろんこれで終わりじゃない。離婚ビジネス弁護士が顧問弁護士を務める会社を、悠と朱里の三人で一社一社訪問するつもりだ。顧問解任を求めて。
これから長い戦いが始まる。勝てればいいけど、負けるかもしれない。勝って、空の上のお父さんが喜んでくれる顔が見たいと心から思った。でもできれば、目の前であなたの喜ぶ顔が見たかった。
そういえば明日はお父さんの命日。私はお父さんのいない時間を一年間生きてきた。これからもずっと。
もう夕方なのに、お墓参りに行くと言ったら悠も朱里もついてきてくれた。寒い日にとびきり寒い場所にいっしょに行ってくれる二人とは死ぬまで友達でいたい。
お墓の手前で立ち止まった。あの人が来ていたから。もちろんあの人は明日の一周忌の法要にも参列させない。その時間ずっと自宅で留守番することになっている。だから前日にお墓参りに来たのだろう。
あの人は無言のままお墓の前でずっと土下座していた。いつからそうしていたのか? 分からないが、十分や二十分ではなく、もっとずっと長い時間そうしていたかのような印象を受けた。
今日は冬晴れの一日。天気予報通りなら夜もそのまま晴れているはずだ。それなのにあの日に降った雪が見えたような気がした。
悠と朱里も何も言わない。世界中探してもこんな静かな場所はないんじゃないか? そんなわけないのに、そんな気がした。
私は静かに歩み寄り、
「お母さん」
と声をかけた。