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「意外です」
濡れた服を脱ぎ、部屋着に着替え、髪にタオルを巻いて、奈緒子が入れたコーヒーを両手に持ちながら、やっと絞り出した言葉は、それだった。
「はあ?」
奈緒子も制服が濡れてしまったため、愛のジャージを貸している。
普段まったく隙がないように見える奈緒子がそういうラフな恰好をしているのは新鮮だった。
「奈緒子さんが、部下の家に心配してきてくれるなんて思いもよらず。油断しました」
「他に言うことないの?」
奈緒子が呆れて髪の毛をかきあげる。
自分でもそう思う。
「ーーー油断して死に損ねたっていうわけ?」
コクンと頷くと、奈緒子は盛大なため息をついた。
「午前中、あんなことがあってから。いや、今日は朝から、あんたの様子がおかしかったから。ランチでも付き合ってやろうと思って、追いかけたのよ。
そうしたら、あんた、迷いなく自分のアパートに入っていくから」
そこまで言ってちらりとこちらを見上げた。
「前に言ってたでしょ。プライベートと仕事ははっきり分けたいから、仕事中自分の家を見るのも嫌だって。
だから嫌な予感がして」
そんなこと言ったことあっただろうか。
覚えていない。
奈緒子はある意味、愛よりも愛のことを理解してくれているのかもしれない。
「あんた、なんであんな馬鹿なことしたの」
奈緒子は素になると二人称が「あんた」になるらしい。
そう呼ばれるのは初めてのはずだが、不思議とこっちの方が自然に感じる。
「あんな小さいミス、誰にでもあるでしょ。吉野だって、柳原課長だって、引きずるような人たちじゃないし。解決したんだからいいじゃない。
ごめんなさい。以後気を付けますで、終わりでいいの。
いい勉強になったって、どうして考えられないのかな」
「ーーーー」
“動機”の本質はそれではなかったが、否定するのも、本当の理由を話すのも、もっと怒られそうで怖い。
愛は膝を抱えながら、
「すみませんでした」
と謝った。
「それとも」
奈緒子は自分のコーヒーカップから顔を上げて愛をまっすぐに見た。
「プライベートの方?」
「ーーーーー」
柳原課長同様に、いやきっとそれ以上に、この人は誤魔化せない。
愛は大きく息を吸って吐いた。
「ーーーーまあ、はい」
「失恋でもした?」
(ああ。そっか。そういう可愛い言葉で表現することも可能だった。初めからそう言えばよかった)
愛は顔を上げた。
「はい。失恋をしました」
「ーーーーホントに馬鹿」
「……………」
大人になってから、家族や友達以外の他人に、「馬鹿」となじられるのは初めてかもしれない。
愛は苦笑しながら奈緒子を見た。
しかし奈緒子は1ミリも笑わず、愛を睨み上げていた。
「失恋なんて綺麗な言葉を使うな。あんたたちがやってたことは“恋”なんかじゃない」
「———え」
(———あんたたちってーーー?)
「人を裏切る延長線上にある快楽なんて、恋愛じゃない」
「ーーーーーー」
言葉が出なかった。
やはりこの人。
どうやら愛よりも愛のことを知っているらしい。
奈緒子のピンと張った弓のような顔を愛は見つめた。
「———いつから?」
「いつから気づいていたのかって?」
言葉にならない愛の気持ちを、口にするのも馬鹿馬鹿しいと言うように吐き捨てると、奈緒子はテーブルに頬杖をついた。
「1年位前から」
(嘘。それもうほとんど初めからじゃん)
「なんで?」
あ。
愛は慌てて口をふさいだ。心の声が外に出ていたらしい。
「悪いけど、バレバレだったから」
今度は口を押えながら心で呟く。
(バレバレって…。誰に?もしかして、みんなに?)
いつも寒河江が来ると、面白がって呼ぶ経理課長。温和でいつも微笑んでいる総務課長。ポーカーフェイスだが、全てをわかっていそうな営業課長。いつも椅子を引いて全体を見ている販売部長。
全員にばれていた?
「まあ、多分私だけだと思うけど」
口をついてでなくても、愛の思考など、奈緒子には手に取るようにわかるらしい。
ほっとして、コーヒーカップを持ち上げた。
ズズッとコーヒーを啜る。口の中で味わう。
「苦い」
「文句言うな」
奈緒子が睨む。
「いつも砂糖とミルク、これでもかってくらい入れて。そんなんだから、変な男に騙されるんでしょうが」
関係ないと思う。
関係ないと思うが、そうなのかもしれない。
こんなに甘くして、黒色に白色を混ぜて隠してわからなくして、苦いのをごまかして、味さえわからないまま、香りだけ楽しんでいたから。
こんなことになったのだ。
愛の眼にまだ涙が溜まってくる。
「———泣くな!!」
それが頬を伝う前に、テーブルに落ちる前に、奈緒子がハンカチを撫でる。
「泣く資格なんて、あんたにはないの!人のモノを拝借して、子供から、パパとの時間も、お菓子やジュースを買ってくれるお金も、全部盗んで。どう考えても悪いのはあんたなの!」
「し、辛辣ー」
「当たり前でしょ!!」
キーっと奈緒子の後頭部から湯気が出ている。
それを見ていたら、への字に落ちていた口角が少し上がってきた。
「わかったでしょ。あんたは遊び。遊びよ遊び!!遊ばれてたの!いい?遊ばれて喜ぶのはガキなのよ、わかる?ガキなの!!30歳のガキなんて可愛くないわよ!」
これでもかと奈緒子のナイフが身体を粉々に切り刻んでいく。
しかし愛の体から出たのは、血ではなく―――。
「ーーーちょっと。なんであんた、笑ってんの」
笑いだった。