テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
次の日、学校。昇降口を抜けた瞬間、紗奈は視線を感じた。
というより――もう、分かっていた。
「紗奈!」
少し早足で近づいてくる足音。
振り向く前から、陽葵だと分かる。
「おはよ……」
いつも通り笑って言ったつもりだった。
でも、その声はほんの少しだけ、昨日より低かった。
「大丈夫か? 熱、もう下がった?」
「無理して来てないよな?」
「ちゃんと寝た?」
間髪入れずに飛んでくる言葉。
心配がそのまま形になったみたいな勢いだった。
「うん、大丈夫だよ。もう平気」
紗奈はいつもより丁寧に笑う。
“安心させるための笑顔”を、無意識に選んでいた。
「ほんとか?」
陽葵はじっと顔を覗き込む。
目の下、頬の色、歩き方――細かいところまで確認するみたいに。
「ほんとほんと。心配しすぎ」
そう言うと、陽葵は少しだけ眉を下げた。
「……ならいいけどさ」
教室に入ってからも、陽葵の様子は変わらなかった。
席に着く前に「寒くない?」
休み時間には「水ちゃんと飲んでる?」
購買に行けば「これ、胃に優しいらしいぞ」
その一つ一つが、ありがたいのは確かだった。
(……分かってる。優しさだって)
でも同時に、胸の奥が少しだけきゅっとなる。
守られている感覚と、見られている感覚が、混ざっていた。
昼休み。
「今日、放課後は一緒に帰れるよな?」
念を押すように言う陽葵に、紗奈は一瞬だけ間を置いた。
「……うん」
短く答えると、陽葵はようやく安心したように笑った。
その笑顔を見て、紗奈は目を伏せる。
(心配させたくない)
(でも、全部を話す勇気もない)
昨日と何も変わらない日常。
でも確かに、何かが少しだけずれている。
それでも二人は、同じ教室で、同じ時間を過ごしていく。
――不透明なままの日常は、今日も続いていた。
1週間後
ここ最近、紗奈はほとんど一人の時間を持てていなかった。
登校すれば陽葵がいて、
休み時間も、放課後も、帰り道も一緒。
それは優しさで、心配で、善意だと分かっている。
でも——
(一人で、何も考えずに、だらっとする時間が……)
それが、どうしても足りなかった。
無理に笑って、無理に合わせて、
気づけば呼吸が浅くなる感覚が増えていく。
最近は特に、一人になった瞬間、
胸の奥がざわついて、落ち着かなくなることが多かった。
(……大丈夫。今は抑えられてる)
そう言い聞かせて、どうにか日常を保っていたけれど、
正直、かなりつらかった。
だからその日は、
紗奈は「頭痛」という理由を使って、学校を休んだ。
布団に入っても、完全に楽になるわけじゃない。
でも、誰にも会わなくていいだけで、
少しだけ息がしやすかった。
しばらくして、スマホが震えた。
――陽葵からのメッセージ。
《大丈夫!?》
《病院行った?》
《俺、なんかできることある?》
画面いっぱいの心配。
(……ごめん)
罪悪感が胸をかすめる。
しばらくして、また通知。
《薬とかご飯とか買ってくるから!》
《無理しないで、玄関に置いとくからな》
断ろうかと思った。
でも、下手に拒否すれば、
「直接顔見たほうが安心する」と言って
家に上がってくる可能性がある。
それは、今の紗奈には少し重かった。
《ありがとう。助かる》
短く返して、受け取ることを選んだ。
昼ごろ。
玄関先に置かれた袋を回収し、
冷凍のご飯をレンジに入れるため、キッチンへ向かう。
ピッ、という音。
回り始めるレンジ。
……その途中だった。
急に、視界がぐらりと揺れた。
「……っ」
目の前がぼやけて、
足の裏に力が入らない。
立っているのが、ひどくつらい。
(あ、やば……)
そう思った瞬間、
体はそのまま前に傾き、
紗奈はキッチンの床に崩れ落ちた。
夕方。
重たいまぶたを開けると、
天井がぼんやりと見えた。
しばらくしてから、
スマホがすぐそばに落ちていることに気づく。
画面を点けると、
そこには大量の着信履歴。
全部、陽葵。
メールもいくつも届いていた。
《大丈夫?》
《起きてる?》
《無理してないよな?》
でも、夕方以降は新しい通知はなかった。
(……寝てるって思ったのかな)
それが、分かってしまう。
心配しすぎないように、
無理に踏み込まないように、
陽葵なりに考えた結果なのだと。
スマホを胸の上に置いて、
紗奈は小さく息を吐いた。
(また……心配、かけちゃったな)
一人暮らしの静かな部屋。
助けられている実感と、
誰にも見せられない弱さが、
同じ場所にあった。
土曜日の朝、インターホンが鳴った。
紗奈は布団の中で、少しだけ身をすくめた。
金曜日に休んだあと、ちゃんと連絡は来ていた。
「明日、顔見に行ってもいい?」
断る理由は思いつかなかったけれど、来てほしいとも、はっきり言えなかった。
玄関の鍵を開けると、陽葵が立っていた。
紙袋を片手に持って、いつもより少し静かな顔。
「おはよう。……起きられた?」
その声が、やけに優しかった。
「うん……大丈夫」
そう答えたけれど、自分の声が弱いのは分かっていた。
陽葵は何も言わずに靴を脱ぎ、そっと部屋に入ってくる。
「無理しなくていいよ。」
そう言いながら、紙袋の中からペットボトルとゼリー飲料を取り出した。
「食べられそうなやつ、適当に持ってきたから!」
それだけなのに、胸の奥がきゅっとなった。
自分のために選ばれた、という事実が、少し重たい。
ソファに座る紗奈の横に、陽葵は座らない。
少し離れた床に腰を下ろして、視線だけを向けてくる。
「頭、まだ痛い?」
「…うん。……ちょっとだけ」
「そっか」
それ以上、聞かない。
触れない。
でも、いなくならない。
陽葵はテレビをつけて、音量をかなり小さくした。
紗奈がうとうとし始めると、ブランケットをそっとかけてくれる。
目を閉じながら、紗奈は思った。
(なんで、こんなに優しいんだろう)
申し訳なさが、じわじわと広がってくる。
休ませてもらっているのに。
時間を使わせているのに。
「……陽葵」
小さく呼ぶと、すぐに返事が返ってきた。
「なに?」
「ごめん……」
何に対しての「ごめん」なのか、自分でも分からなかった。
迷惑をかけていること。
心配させていること。
ちゃんと元気じゃないこと。
陽葵は一瞬、考えるように黙ってから、穏やかに言った。
「それ、今言わなくていいやつだよ」
紗奈は目を開けて、陽葵を見る。
「謝るより、今日は楽して。 ね!」
その言葉は、命令でも慰めでもなくて、
ただの事実みたいだった。
昼過ぎ、陽葵はキッチンに立った。
簡単なスープを作って、紗奈の前に置く。
「食べられそうなら、少しだけでいいから」
スプーンを持つ手が震えたけれど、陽葵は見ないふりをした。
「大丈夫?」とも言わない。
食べ終わると、陽葵は食器を片付けながら言う。
「今日はここにいるから」
「……帰らないの?」
「うん。帰らない」
即答だった。
その言葉に、安心と同時に、また罪悪感が湧く。
自分のせいで、誰かの時間が止まっている気がして。
「……ほんとに、ごめんね」
今度は、ちゃんと声に出た。
陽葵は振り返って、少しだけ困ったように笑った。
「紗奈」
名前を呼ばれる。
「面倒見てるんじゃないよ。そばにいたいだけ」
その言葉が、胸の奥に落ちていった。
紗奈は何も言えなくなって、ただ小さく頷いた。
それを見て、陽葵はまた静かに、そばに戻ってきた。
話さなくてもいい時間。
何もしなくても、責められない時間。
紗奈は目を閉じながら、思う。
(……ありがとう)
声には出せなかったけれど、
その気持ちは、確かにそこにあった。
夕方になって、外の光が少しオレンジ色に変わるころ。
陽葵は立ち上がって、上着を手に取った。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
その声は、いつもと同じだった。
やさしくて、落ち着いていて、引き止める隙を作らない。
「……うん」
紗奈は玄関まで見送りに行った。
それが当たり前みたいに、自然な流れみたいに。
陽葵がドアを開けて、一歩外に出る。
そして、ドアを閉めようとした、その瞬間。
(あ、ひとりだ)
頭のどこかで、そう思った。
やっと一人の時間が来た。
もう気を張らなくていい。
ちゃんとしてなくていい。
大丈夫なふりを、しなくていい。
その安心感が、なぜか一気に押し寄せてきた。
次の瞬間、息がうまく吸えなくなった。
胸がぎゅっと縮まって、空気が入ってこない。
苦しい、と思うより先に、視界が揺れた。
「……っ」
声にならない音だけが喉から漏れて、
紗奈はそのまま、床に崩れ落ちた。
――ガタン、という音。
ドアを閉めかけていた陽葵は、はっきりとそれを聞いた。
一瞬の沈黙のあと、すぐにドアが開く。
「紗奈?」
返事はない。
靴も脱がないまま、陽葵は家の中に戻り、
玄関に倒れている紗奈を見つけた。
名前を呼んで、肩に触れて、
状況を確かめる手つきは迷いがなかった。
目を覚ましたとき、天井が近かった。
柔らかい布団の感触。
身体は重いけれど、さっきの苦しさは薄れている。
「……」
ゆっくり視線を動かすと、布団のそばに陽葵がいた。
床に座り込んだまま、布団に背中を預けて眠っている。
髪が少し乱れていて、呼吸は静か。
「あ……」
思わず、声を殺した。
(また、やっちゃった)
胸の奥に、じわっと後悔が広がる。
帰ろうとしていたのに。
引き止めるつもりなんて、なかったのに。
そっと身体を起こして、陽葵の様子を確かめる。
深く眠っているのを見て、少しだけ安心した。
紗奈は静かに、毛布を手に取って、
陽葵にそっとかけてあげた。
起きませんように、という気持ちを込めて。
そのまま、音を立てないように部屋を出る。
リビングに向かう足取りは、少しふらついていた。
誰もいない部屋。
時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
ソファに座り込んで、紗奈は小さく息を吐いた。
(……大丈夫)
そう言い聞かせながらも、
心の奥では、さっきのことが何度も繰り返されていた。
安心すると、苦しくなる。
ひとりになると、崩れてしまう。
その事実を、
まだ、誰にもちゃんとは言えていなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!